26:真似しんぼの国
筆者:石臼翁
人の世というのは実に奇妙なもので、上流で誰かがくしゃみをすれば、下流ではそれが嵐になる。かつてこの王都を騒がせた、あまりにも滑稽な騒動を思い返して、私はそんな思いを強くしてしまった。
事の発端は、王宮での出来事。ある貴族が起こした、ありふれた不祥事であった。だが、それがまさか、まるでドミノ倒しのように次々と飛び火し、この都の隅々にまで広がる、壮大な連鎖反応を引き起こすことになるとは。当の本人さえも夢にも思わなかったに違いない。
その貴族は公爵家の御曹司。名をベルナール卿という。彼は、王宮の書記官という、地位の割には実入りの少ない職に就いていた。だがその生活ぶりは、どう見ても収入に見合わぬ豪奢なものであった。夜な夜な高級酒場を借り切り、宝石を散りばめた衣装をまとい、取り巻きたちに金貨をばら撒く。誰もが「公爵家の資産を切り崩しているのだろう」くらいに思っていた。
だが、事実はもっと単純で、そしてもっと卑小なものであった。彼は王宮の備品庫から高価な魔導書や希少な魔法素材を横流しし、その売却益を懐に入れていたのである。
この不祥事が露見した時、王宮は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。だが、民衆の反応は冷ややかなものだった。「またか」。「貴族なんてそんなものだ」。彼らはもう貴族の腐敗には慣れっこになっていたのだ。
だが、今回の事件は少しばかり趣きが異なっていた。これまでと違ったのは、ベルナール卿がその横領の手口について、法廷で弁明した内容である。
「これは横領ではない。『一時的な借り入れ』であり、いずれ倍にして返すつもりであった。貴族たるもの、体面を保つためには多少の無理も必要なのだ」
この「一時的な借り入れ」という、あまりにも苦しい、しかし妙に耳に残る言い訳。これが、すべての元凶であった。
古来より、平民は貴族の真似をするものだ。良いことも、悪いことも。貴族が新しい帽子を被れば、翌日には町中の帽子屋が同じ形のものを並べる。貴族がオペラを観れば、翌週には酒場の楽団がその真似事を始める。そして、貴族が「一時的な借り入れ」という名目で泥棒を正当化すれば、平民たちもまた、こぞってその真似を始めるのだ。
最初にその真似をし始めたのは、都の商人たちだった。彼らは、客から預かった商品の代金を、勝手に別の商売の元手として使い込んだ。それが露見すると、涼しい顔でこう言うようになった。「泥棒? 滅相もない。これは『一時的な借り入れ』ですよ。商人たるもの、商機を逃さぬためには多少の無理も必要なのです」と。
次に、その波は冒険者ギルドにも及んだ。パーティーの共有財産を、ひとりのメンバーが勝手に使い込み、新しい武器を買う。仲間から問い詰められると、彼はベルナール卿の口調を真似て、堂々と言い放つ。「横領ではない。『一時的な借り入れ』だ。冒険者たるもの、最高の装備を整えるためには多少の無理も必要なのだ」と。
そして、この連鎖反応は、ついに一般市民の生活の隅々にまで浸透していった。パン屋でパンを万引きした子供が、「一時的な借り入れだ!」と叫んで逃走する。酒場で無銭飲食をした男が、「いずれ倍にして返すつもりだった!」とわめき散らす。夫が妻のへそくりを使い込んでも、妻が隣家の洗濯物を勝手に拝借しても、誰も彼もが、あの貴族様の言葉を免罪符のように唱え、己の罪悪感を綺麗さっぱり拭い去ってしまうのだ。
都は、まさに無法地帯と化した。だがそれは暴力が支配する無法ではない。「詭弁」が支配する、もっとたちの悪い無法だ。誰もが、己の欲望を正当化するための、実に都合の良い言葉を手に入れてしまったのだから。
この混乱に頭を抱えたのは他でもない、王宮の治安維持局であった。彼らは増え続ける軽犯罪を取り締まるのに奔走したが、捕まえた犯人が皆、口を揃えて「ベルナール卿と同じことをしただけだ」、「貴族様が許されて、なぜ我々が罰せられるのか」と主張するため、まともに罰を与えることもできない。法というものが、その威厳を失い、ただの茶番劇の台本になり下がってしまったのだ。
そして、この騒動の結末は、実に皮肉な形で訪れることになる。
ある日、王宮の宝物庫から、国宝である「聖王の王冠」が消え失せたのである。犯人はすぐに捕まった。盗み出したのはなんと、王宮の警備隊長その人であった。彼は長年の勤務で王冠の保管場所を知り尽くしており、自らの借金返済のためにそれを持ち出したのだという。
国王陛下は、激怒し、彼を自ら尋問された。「我が国の誇りである王冠を盗むとは、万死に値する!」と。
すると警備隊長は、かつてベルナール卿が立ったのと同じ場所で、まったく悪びれることなく、こう答えたのだという。
「陛下、これは窃盗ではありません。『一時的な借り入れ』です。警備隊長たるもの、部下の士気を保つためには、多少の無理も必要なのです。いずれ倍にして返すつもりでした」
その瞬間、国王陛下は言葉を失い、居並ぶ貴族たちは顔を見合わせた。そして誰からともなく、失笑が漏らしたという。彼らはようやく気づいたのだ。自分たちが作り出した「詭弁」という名の怪物が、巡り巡って、ついには自分たちの最も大切な権威そのものを、食い尽くそうとしていることに。
結局、警備隊長は厳罰に処され、ベルナール卿もまた改めて重い罪に問われることになった。そして王宮は、「一時的な借り入れ」という言葉の使用を禁ずる、という、前代未聞の布告を出す羽目になったのである。
この騒動の顛末を見て、私は思う。貴族たちよ、民草を侮るなかれ。彼らは、あなた方のことを実によく見ている。あなた方が、その特権にあぐらをかき、己の襟を正すことを忘れれば、そのツケは必ずや、思いもよらぬ形で、あなた方自身の元へと返ってくるのだ。平民は貴族の真似をする。それは単なる憧れではない。時には、あなた方の欺瞞を映し出す、最も残酷で、そして最も正確な鏡となるのだ。
当時、都のあちこちで、「一時的な借り入れ」という言葉が冗談めかして囁かれたという。この言葉が消え去るまでしばらく時間が掛かったとか。
上の身分に立つ者の襟を正す教訓として、この昔話は語られ続けていた。だがここ最近では、この一連の話を知る人間も少なくなっている。知己の貴族にこの話をすると、よくできた作り話だと笑って受け流されてしまうこともある。実際にあった話だとは露にも思っていないようだ。
時が経ち、事実が風化し、知る者がいなくなる。するとまた、頭の緩い貴族が新たな不祥事を起こすこともある。そうなれば、新たな流行語のようなものが生み出されるのかもしれない。
この国は、まるで巨大な喜劇の舞台だ。その脚本を書いているのは、他ならぬ上に立つ者たち自身である。そのことに、彼らが気づく日は来るのだろうか。
-了-
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