22:恥を知るということ
筆者:石臼翁
人の世には、まるで季節の巡りのように、決まって繰り返される光景というものがある。春になれば、田舎から出てきた若者たちが希望に満ちた顔で王都の門をくぐる。そして夏が来る頃にはそのうちの何割かが、すっかり打ちのめされた顔で故郷へと帰っていくか、あるいは都の片隅で夢の残骸を抱えたままどうにかその日を生き延びる。そんな若者たちの希望を食い物にして生きながらえている連中がいることもまた、この王都の変わらぬ風物詩のひとつだ。
いつぞや、この紙面でも愚痴をこぼしたことがある。お上りさんを専門に狙う質の悪い露天商の一団のことだ。彼らは未だに大通りの裏手で、ガラクタ同然の剣や防具を「伝説の一品」だの「掘り出し物」だのと偽っては、世間知らずの若者たちに売りつけている。そして先日、またひとつ、その連中にまつわる興味深い、そしてどこか人間の本質を突いたような話が、私の耳に舞い込んできた。
なんでも、その詐欺集団にまんまと騙された若者のひとりが、ついに堪忍袋の緒を切らしたらしい。彼は王宮の騎士団に直訴し、「あのゴロツキどもを捕らえ、騙し取られた金を取り返してほしい」と、涙ながらに訴え出たのだという。
それだけなら、よくある話だ。だがその若者はなかなかに骨のある男と見えて、ひとりで騒ぐだけでは終わらなかった。彼は自分と同じように被害に遭った者たちに声を掛け、徒党を組み、集団でその不正を告発しようと都中を奔走しているのだそうだ。
実に結構なことだ。悪は正されねばならぬし、泣き寝入りせずに立ち上がるその勇気は賞賛に値する。だが話を聞く限り、彼の呼びかけに応じる者は多くはないらしい。彼の「被害者の会」は今のところ、彼自身を含めてもほんの数人しかいないのだという。
これはどういうことか。かの詐欺集団がこの王都で悪事を働き始めて、もう十数年にはなるだろう。その間に騙された若者の数たるや、おそらく千や二千では済むまい。それだけの被害者がいるにもかかわらず、なぜ、彼の旗の下に集う者はこれほどまでに少ないのか。人々は悪党の横行をただ指をくわえて見ているだけの、臆病者の集まりだというのか。いや、私はそうは思わない。
おそらく声を上げぬ者たちの胸の内にあるのは、恐怖ではない。それはもっと静かで、もっと内省的な感情。すなわち、「恥」である。
彼らは、あの若者のように「自分は被害者だ」と大声で叫ぶことを、良しとしないのだ。なぜなら彼らは知っているからだ。あの時、自分が騙されたのは、ただ単にあのゴロツキどもが悪辣だったからというだけの話ではない、と。その根底には、己自身の未熟さと、そして何より、身の丈に合わぬ「欲」があった。それを痛いほどに自覚しているからだ。
私がこの詐欺集団の手口を初めて耳にしたのは、もう十年以上も前のことになる。その頃の手口は、こうだ。
彼らはまず、見るからに田舎出の若者に目をつける。そして、さも偶然を装って近づき、「君、目利きがいいね。実は俺の親父が昔使っていた名剣があるんだが、金に困ってね。本当はギルドに売れば金貨百枚は下らない代物なんだが、君になら特別に銀貨十枚で譲ってやろう」などと、耳元で囁くのだ。若者は、舞い上がる。金貨百枚の価値があるものを、銀貨十枚で手に入れられる。これは千載一遇の好機だ、と。その瞬間、彼の頭の中では冷静な判断力はどこかへ吹き飛んでしまっている。目の前にあるのは、ただ「楽をして、大きな利益を得たい」という抗いがたい欲望だけだ。そして彼はなけなしの金をはたき、ただの鉄の棒をありがたく抱えて帰ることになる。
今回、声を上げた若者が騙された手口も、大筋ではこれと変わらないだろう。時代が変わっても、人間の欲望の形というのはそう大きくは変わらないものだから。
さて。そうやって一度、手痛い失敗をした者たちはどうするか。ほとんどの者は己の愚かさを呪い、そして深く恥じるのだ。なぜあんなにも見え透いた嘘に、自分は踊らされてしまったのか。なぜ己の分をわきまえず、うまい話に飛びついてしまったのか。その恥辱の念は、まるで熱い鉄を押し当てられたかのように、その者の心に消えぬ烙印を残す。そして、その痛みこそが、彼らを成長させるのだ。彼らは二度と同じ轍を踏むまいと誓い、己の料簡の狭さを思い知り、そこから本当の意味で世間というものを学んでいく。
だからこそ、彼らは、あの若者の呼びかけに応じないのだ。わざわざ「私は、かつて欲に目がくらみ、まんまと騙された愚か者です」と、大声で名乗りを上げて、恥の上塗りをするような真似は到底できはしない。それは彼らが人間として最も大切な徳目のひとつである、「恥じる心」を持ち合わせているからに他ならない。
だが、ここでひとつ、首を傾げざるを得ないことがある。かの声を上げた若者のことだ。彼は純真で、正義感に燃える、立派な青年なのかもしれない。だが話を聞く限り、彼は一度ならず二度、三度と、同じような手口に騙されているのだという。そして、その度に「自分は被害者だ」と、何のためらいもなく怒りをあらわにする。
一度目は仕方がないかもしれぬ。世間知らずの若者が、狡猾な大人に騙される。それは、ある種の通過儀礼のようなものだ。だが二度目、三度目となっては話が違ってくる。それはもはや彼が「純真」であるから、という理由だけでは説明がつかない。二度も三度もうまい話に飛びついてしまったのは、彼の心の中に、やはり「楽をして儲けたい」という強い欲望があったからではないのか。彼は失敗から学ぶことをせず、ただ己の欲望のままに行動した。その結果、またしても同じ罠にはまった。それだけのことではないか。
そんな者が、果たして本当に「純粋」と呼べるだろうか。たとえ悪意がないのだとしても、それはただの「考えなし」というだけではないか。己の落ち度を一切省みることなく、ただ被害者然として振る舞う若者。そんな姿を、かつて同じように騙され、しかしその経験を糧にして、今は地道に己の道を歩んでいる者たちは、一体どういう気持ちで見るだろうか。おそらくは、軽蔑と、そして憐れみが入り混じった、複雑な感情を抱くに違いない。
あの若者の「被害者の会」に人が集まらぬのは、至極当然のことなのだ。なぜなら、そこに集う資格があるのは「己の恥を知らぬ者」だけだからだ。そして幸いなことに、この世には、まだ己の過ちを恥じ、それを静かに胸に刻んで生きていこうとする、まっとうな人間の方が多数派であるらしい。
あの若者の正義感は、あるいは本物なのかもしれぬ。だが、本当の正義とは、まず己の足元を見つめ、己の心の弱さと向き合うことからしか、始まりはしない。そのことを、彼はいつか学ぶことができるのだろうか。
-了-
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