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「失礼いたします」
浅の間の引き戸をそっと開けると、中から「入れよ」と無機質な声が返ってきた。部屋の中にいる幹也くんは、座椅子に寄りかかって相変わらずスマホを触っていた。
「ずいぶん遅かったじゃん」
彼の無愛想な一言に、つい「ご苦労さま」くらい言えないのって思ったけれど、年上の私がここで感情を爆発させるのは大人げないと思った。
「はい、甘いもの」
「中身、なに?」
「どら焼き」
「は? なんでどら焼き? 俺、プリンとかクレープ系がよかったんだけど」
「いいから食べてよ」
「どら焼きなんて、年寄りが食うもんだろ」
偏見たっぷりの文句を言いながらも、幹也くんは差し出したどら焼きをひと口かじってみせる。ふわりと歯形も残らない生地と、とろける餡の美味しさに、彼の表情が緩んだ。
「お、けっこう旨いじゃん」
文句ばかりだったくせに、幹也くんはあっという間にどら焼きを完食していた。
今度こそお礼の一言くらいもらえるかと期待したが、彼はすぐに座椅子に戻ってスマホを覗き込み始めた。
「で、スマホの電波はどうなった?」
先ほどどら焼きを渡した際、うぶめさんに聞いてみたものの『電波なんてそんなもの、ここにあるわけないでしょ』と即答された。考えてみれば、部屋にもテレビや電話、外にもポストひとつ見当たらない。つまり現実世界と繋がる手段がなにひとつないということになる。
「どうせダメだったんだろ。まあ、最初から期待はしてなかったけど」
もっと食い下がられるかと身構えていたのに、彼はあっさり諦めてしまった。さっきスマホの電池は6%だったから、そろそろ電源が落ちてもおかしくない。
幹也くんは画面が暗くなる前に、と保存されている写真をじっと見つめている。距離があって詳細は分からないけれど、服装や髪型からしておそらく女性だろう。その視線は、ただの思い出ではなく、愛しい人を見つめるように優しさを帯びていた。
「彼女?」
「は?」
「その写真」
尋ねると、幹也くんは隠すように画面を裏返しにしてしまった。まるで大切な秘密を守るように、手が少し震えている。
「気持ち悪いこと言ってんじゃねーよ」
乱暴な言葉と一緒に睨まれてしまったが、ここに来てから心臓が縮み上がる出来事が多くあったおかげで、その程度では怯まなくなっていた。
「そういう人、いなかったの?」
「俺のこと好きなやつはいっぱいいたけどな」
「ふーん」
「ああ、まじで戻りてえな。気が合う仲間と夜な夜な集まって、寝る暇もないってぐらい遊びまくった。なのにここは、暇すぎて寝るしかない」
私と違って、幹也くんは楽しい思い出を鮮やかに覚えていた。だから、きっと余計にこの静けさが虚しく感じるのだろう。中学三年の多感な時期、やりたいことが山ほどあったはずだ。……私にも、きっとそんな想いがあっただろう。
「なあ、ここって頭空っぽにして遊べるところあんの?」
「どうかな。私もどこになにがあるか把握してないから」
「遊びたい。なんにも考えずに。なあ、頼むよ」
また幹也くんから頼みごとをされたが、今度は偉そうな感じではなく、まるで縋るような言い方だった。
そして日が沈み始めた頃。私は幹也くんを連れて六丁目を目指した。六丁目は娯楽の町と呼ばれていて遊べる店がたくさんあるらしい。
「てか、あいつらなに?」
幹也くんが、少々不服そうに呟く。石灯籠で照らされている道に映るオレンジ色の影は、私を含めて五つ。
「ねえねえ、輪投げやろうよ! 10点取ったら紙風船もらえるんだよ」
「あの怖い顔のやつがいいよね」
「そーそー。岩に似てるやつ。目一杯膨らませて両手で思い切り潰すと、ぐちゃって面白い顔になるんだもんね」
「うんうん。ぐちゃってね」
私たちの前を歩く雨と雪は、無邪気にスキップしていた。
「岩さんが可哀想でしょ。それと、紙風船の遊び方は、膨らませたあとに優しく手のひらで上下させながら遊ぶのよ」
その隣には、うぶめさんの穏やかな姿もあった。
実は、甘味処の時と同じようにうぶめさんに遊べるところを尋ねてみたら、ちょうど仕事が終わったところで、一緒に来てくれることになったのだ。
……雨と雪は、誘った覚えはなかったけれど、どこからか情報を聞きつけて、こうして自然と付いてきてしまった。
「あいつらも化け物?」
前方を歩く三人を見て、幹也くんがそう言った。
「化け物じゃないよ。あやかしだよ」
なんとなく、その言い方は嫌だった。
「同じじゃん。あやかしって人を食ったりするんだろ」
「い、今はしないって前に岩さんが……」
「なら昔はしてたんだろ。本当に薄気味悪いところだよな。そもそも後悔を洗い流すってなんだよ。頼んでねえし」
向かっている六丁目は楽しい場所のはずなのに、さっきから幹也くんは文句ばかりを繰り返す。
六丁目に近づくにつれて、道はどんどん明るくなり、賑やかな明かりが私たちの足元を照らす。でも、その光さえも、幹也くんの苛立ちを和らげてくれないようだった。
「私も全部を理解してるわけじゃないけど、きっと後悔を残したままでいることは、後に戻ることも先に進むこともできないってことなんだと思う」
この世界はその中間地点なのだと、私は勝手に解釈している。
「たしかに薄気味悪いこともあるけど、悪い人たちじゃないよ」
裏はあるかもしれない。悪巧みをしていることもあるかもしれない。だけど、そんなこと思っていたってキリがない。なにかあったら、その時に考えればいい。
「ずいぶん、楽観的なんだな」
「こ、これでも色々と考えて……」
「なあ、お前ってさ、自分が死んだ時のこと覚えてる?」
「私は……ううん。なにも覚えてない」
前を歩く雨と雪が急に走り出し、うぶめさんが追いかけて注意している。その姿をぼんやりと見つめながら、幹也くんの死について触れてもいいのかどうか迷う。すると、彼のほうから自然に教えてくれた。
「俺は大型トラックに跳ねられたんだ。向こうがよそ見をしてたのが原因」
「…………」
「いつもは通らない道だった。本当に運がないっていうか、タイミングが悪いっていうか。〝らしくないこと〟はするもんじゃねえなって笑いすら込み上げてくるくらい」
その口調からして、幹也くんはどこかへ向かう最中、またはどこかへ帰る途中だったに違いない。
「……多分、バチが当たったんだよ」
彼が小さな声で溢した声を、拾い上げる。らしくないこととはなんなのか。バチが当たったとはどういうことなのか。幹也くんの顔があまりに寂しそうだったから、私はなにも聞けなくなった。
楽しい遊び場に到着すると、幹也くんは表情を一変させ、輪投げや射的などを楽しんでいた。そこに雨と雪も加わり、まるで兄妹のようにはしゃいでいる。
「雨と雪は手がかかるけど、ああやってお客さまの気を紛らわせてあげるのが上手なのよ」
私の隣では、三人を遠巻きで見つめているうぶめさんの姿があった。
「気、ですか?」
「頭や体を使って遊ぶことで、一瞬だけでも後悔を忘れることができるでしょ?」
たしかに幹也くんは、なにも考えずに遊びたいと言っていた。私なんかより、よっぽどうぶめさんのほうが彼の気持ちを理解している。
「でも部屋に戻ればまた後悔について考えてしまいますよね……?」
「そう。だから私たちが手助けをしてるの。なかなか難しいけどね。とくに幹也くんのような年頃の子は簡単に心を開いてくれないから」
うぶめさんは私が想像するよりもずっと多くの後悔と向き合ってきたのかもしれない。
「どう? できそう?」
「やってみます」
最初はひとりで任されて不安しかなかったけれど、今は幹也くんの心の救いになりたいと思っている。私が力強く返事をすると、うぶめさんは柔らかく笑った。
屋敷に戻った後、幹也くんを浅の間まで送り届け、私は少し外の空気を吸っていたい気分だったので、日中に椿たちが座っていた赤い番傘の下に腰を下ろした。うぶめさんや雨たちは、湯入り客が終了した壱番台へと向かい、これからお風呂に入るそうだ。
私の膝の上には岩さん似の紙風船とシャボン玉が置かれている。雨たちが遊んだ景品で貰ったものだ。
液のついた吹き具に口をつけると、透明なシャボン玉が次々と夜空に浮かび上がった。……綺麗。まるで童心に戻ったように夢中になっていると、どこからか下駄の音が聞こえた。
「水圏戯か」
そこには、御影さんの姿があった。石灯籠の柔らかな光が彼を幻想的に照らし出していて、よりいっそう美しく見えた。
「すいけんき、ですか?」
初めて聞いた言葉に、私は吹き具を口から離した。
「それのことだ」
御影さんがシャボン玉を指さしている。
「江戸で一時期流行ったことがあった。当時は石鹸を水で溶かしただけのものだったけど、行商人があちこちで売り捌いてはよくぼったくっていたよ」
「江戸って……江戸時代のことですか?」
「他になにがある」
「え、み、御影さんって何歳ですか? その前に江戸時代にいたんですか!?」
私の反応とは真逆に御影さんはきょとんとした顔をしていた。驚いていることに驚いているような、そんな表情をしている。
「江戸時代なんて、たかが三百年前の話だよ」
「え、でも……」
「それに、あやかしは人間みたいに年を数えたりしないからな」
つまり、御影さんは三百年以上も生きているってこと? ううん、御影さんに限らず、あやかし全般がそんなに昔から存在しているのだろうか。想像もつかない。教科書の中の遠い昔、江戸時代の話なんて。
「あやかしって……どうやって生まれるんですか?」
気になることはこの場で片づけておきたくて、思い切って質問してみた。御影さんは、羽織の袖に両手を滑らせたまま隣に腰を下ろした。
「〝生まれる〟という言い方は少し違うかもしれない。あやかしは、人の願いや恨みが形を得たものだからな。成長もしないし、老化もしない。ある時気づいたらそこにいて、やがて自然と消えていく――あやかしとはそういう存在だ」
「……消える、んですか?」
「存在意義を失うと、あやかしは自然消滅する。だから働くことで、自分の存在を確かめているんだ。それが結果として、俺たちの居場所を奪った人間を癒すっていう皮肉な役割になっているけれど」
「う、奪った、って?」
「昔は人とあやかしは密接だったんだ。でも人間は、自分たちの都合のいいときだけあやかしを頼りにして、用が済むと災い扱いして避けた。人間ってのは本当に勝手な生き物さ」
御影さんの声は、私ではなく、心の奥にいる誰かに投げかけているように聞こえた。
私はここに来るまでは、あやかしの存在なんて信じていなかった。だから『なんで自分がここにいるんだろう』『どうしてこんな場所で働いているんだろう』と、いつも自分のことばかり考えていた。でも、改めて思うと、あやかしたちにもそれぞれ事情があるのかもしれない。
「……皆さん、人間があまりお好きではないのでしょうか?」
お客さまのために一生懸命接してくれる彼らだけど、さっき御影さんが話していた内容を思い出すと、かつて居場所を奪われた恨みを抱えているのではと不安になった。
「ほとんどのあやかしは割り切ってるよ。働くことにやりがいを感じている者も多いし、手を抜くやつもいない。まあ、心の中まで分からないけどな」
御影さんが、フッと不敵に笑った。
「自分たちが手伝わなければ天国に行けないと、上から考えてるやつもいるかもしれないし、こんな後悔があると嘲笑っているやつもいるかもしれん。あいつらを束ねている俺でも気持ちまでは縛れない。どう思おうと、皆が消えずに存在できる場所を維持していくことが俺の役目だ」
透き通るような水色の瞳に、私は思わず見入ってしまった。
「ということは、ここはお客さまだけの場所ではないんですね」
人間はあやかしたちの手助けで後悔を洗い流し、あやかしはその役目を果たすことで自分たちの生きる意味を見出す――そういう場所なのだと、理解できた。
じゃあ、私にとってのこの場所は?
記憶を取り戻すだけでなく、働きながらなにかを見つけられるだろうか。
「……御影さんは、人間が嫌いですか?」
「嫌い? 違う」
御影さんは夜空を見上げ、少し間を置いてから……。
「大嫌いだよ、人間なんて」
御影さんは私の目を見なかった。 その代わり、やっぱり誰かのことを想っているような、遠い瞳をしていた。