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他の従業員たちの流れに押し出されるようにして、浅の間に向かうことになった私は、廊下を歩いていた。『浅の間』は岩さんいわく、北側の屋敷にあるらしい。
どんなお客さんがいるんだろ。そもそも私は、客室の入り方さえ教えてもらっていない。
引き戸はノックする? 正座は? 最初の挨拶は?
ああ、本当にどうしよう……。
「見習いのくせに、ブツブツと下を向いて歩くなんていいご身分だな」
ハッと顔を上げると、目の前に獣耳の彼がいた。他の人たちとは違う着物を着て、白檀の香りを漂わせている彼は、やっぱりオーラが違う。
あやかしは人間離れしていて、とても整った顔立ちをしている人も多いけれど、彼は別格というか……綺麗すぎて直視できない。
「お、おはようございます……」
念のため挨拶だけでも、と思い私は小声で呟いた。顔を上げるのが怖くて、無意味に彼の羽織紐を凝視する。青紫の石のような飾りがついていて、柳鼠色の着物と合わせると、より一層色合いが美しく、幻想的な輝きを放っていた。
「おい」
いきなり前髪を掴まれて、私はびくっと肩を跳ね上げる。顔を上げると彼がじっと私を見ていた。
「相手がいる時は、ちゃんと目を見ろ」
確かに俯いたままでは失礼かもしれない。でも、普通は前髪を掴まないでしょう? 痛みはないけれど、雑草を引き抜くみたいに掴まなくたっていいのに。
「浅の間はこっちじゃない。そこを右に曲がって、突き当たりだ」
「……え?」
促されるまま視線を動かすと、そこには『客室案内』と書かれた板がかかっていた。細かく部屋名が並んでいて、浅の間はもう少し先の廊下沿いにある。岩さんの説明は大まかだったから迷いかけていたけれど、案内板があるなら最初に教えてほしかった。
「……どうして、私が浅の間に行くってわかったんですか?」
さっきの打ち合わせの時、彼はいなかったはずだ。
「お前に仕事を与えるように指示をしたのは俺だ」
「なんで私にそんな……」
「雑巾がけが上手くなったところでここではなんの役にも立たない。ここの広さは十分分かっただろうから、後の仕事は体で覚えろ」
もしかして屋敷内の掃除を命じていたのもこの人だったんだろうか。
「で、でも私、接客とかしたことなくて、どうやって部屋に入ったらいいのかも……」
「ここは寛ぐための温泉旅館ではない。仕来たりも作法も特別に設けているわけじゃないから感覚でやれ」
か、感覚って、一番難しいことを言われた気がするんだけど……。まだまだ聞きたいことがあったのに、彼はそのまま私を横切って歩き始めた。
「わ、若さま……っ」
思わず引き止めるように呼んでしまった。顔だけをこちらに向けている彼はじっと私のことを見ている。
「えっと、その」
「お前はあやかしじゃないから〝若〟とは呼ばなくていい」
「え……じゃあ、なんて呼べば……」
「自分で考えろ」
そう言って、彼は白檀の香りだけを残してどこかへ去っていった。
……勝手な人。でも、その勝手が許される人。あの人のことは、うぶめさんから少しだけ聞いた。
犬神というあやかしで、天の湯の若旦那。そして名前は――御影と言うそうだ。
この湯屋を仕切っているのも、全指揮権があるのも御影さんであり、彼以上の存在はいない。
颯さんや岩さん、うぶめさんのように従業員たちから慕われているというよりは、絶対的な存在で誰も逆らえないぐらい偉い人だということは理解している。
……御影さん、と呼んでしまってもいいのかな。
それとも御影さまのほうが角が立たないだろうかと、暫く悩んでいたが、本来の仕事を思い出し、私は浅の間に急ぐことにした。
廊下の先で深呼吸をすると、私は格子付きの引き戸をそっと開けた。「失礼致します」と声をかけたけれど、中からは返事がない。 無反応だった場合は返事があるまで待つべきなんだろうか。それとも今は部屋にいないとか? そんな考えを巡らせていると、いきなり襖が音を立てて開いた。
「ねえ、電波いいところない?」
中から顔を覗かせたのは、金髪にピアスの少年だった。
「え、で、電波……ですか?」
「そう。スマホがつながる場所」
「……たぶん、ここでは無理かと」
私も制服のポケットにスマホが入っていたが、故障なのか電池切れなのか電源がつかなかったし、屋敷内でスマホを使っているお客さまも、これまで一度も見ていない。
「なんとかしてくれない? メッセージも確認したいし、ゲームのログボも取り忘れたくないんだけど」
「ログボ?」
「は? ログインボーナスも知らねえの?」
「…………」
会って数秒だけど、想像していたお客様像とはまるで違う。緊張していたことが、なんだかバカらしくなった。
「あの、とりあえず中に入っていいですかね?」
「なんで?」
「一応、仕事なんで」
「ふーん。まあ、いいけど」
全然気乗りはしないが、このまま戻ったら怒られそうだったので、とりあえず客室に上がった。
初めて入った客室は、私が寝泊まりしている部屋よりも広かった。畳から香るい草の匂いや、高級感あふれる木彫りの欄間。そして中央には座卓と座椅子があり、ひとり部屋にしてはとても贅沢な客室だと思った。
座卓の横にはポットと湯飲み茶碗が置かれていて、お茶を注いだほうがいいのか考えた。でも、少年は偉そうに座椅子に寄りかかり、使えないスマホをカチカチいじっている。お客さまとはいえ、態度の悪さが気になった。
「あんたって若そうに見えるけど、ここの人?」
「……まあ、一応、働いてる身です」
正確には、働かせられている身。帯は苦しいし、着物は動きづらいし、足袋も親指と人差し指の間がムズムズして、今すぐ裸足になりたいくらいだ。
「へえ。じゃあ、お前も化け物なんだ」
「ば、化け物!?」
「だってここは客以外、そういう集まりなんだろ」
失礼なことを言い続けるくせに、少年は一向にスマホから目を離さない。おそらく同じ学生だろうし、スマホを手放せない気持ちはわかる。けれど、あまりの無礼さに敬語で話すのもばかばかしくなってきた。
「私は人間だよ」
それに〝化け物〟呼ばわりもどうかと思う。味方をするつもりはないけれど、言い方がきつすぎる。
「人間なのになんでここで働いてるわけ? 借金でもあんの?」
「……こっちだって、いろいろ事情があるの」
「事情、ね。で、お前スマホの充電器持ってる?」
「持ってるわけないでしょ」
「使えねーな。持っとけよ」
その一言で、我慢の糸がプツンと切れた。思わず少年の手からスマホを奪い取る。
「てめえ、なにすんだよ……!」
画面はついているものの圏外マークが光り、バッテリー残量はわずか6%。このままじゃ時間の問題でシャットダウンだ。
「どうしても連絡を取らなきゃいけない相手でもいるの?」
「は?」
「それが、あなたにとっての後悔?」
後悔の洗い流し方なんて、私にはさっぱり分からない。でも、ここで言い合っていても何も始まらない。
「そうだって言ったら、スマホ使わせてくれんの?」
「方法は探してみる」
同じような人の対応したことがある従業員がいるかもしれないし、うぶめさんに聞けばなんとかしてくれるかもかもしれないという、期待の返事だった。
「ふーん」
少年はまるで品定めするように見た後、私の手からスマホを奪い取った。
「ちょっ」
「俺、甘いもの食べたい」
「え?」
「甘いものを食べたいって思いながら死んだ気がするわ、俺」
取ってつけたような言い方に、思わず眉間が動いた。
「あ、あなたの後悔はスマホで誰かと連絡を取ることでしょ?」
「甘いものを食べながら連絡取りたいっていう後悔」
「そ、そんな後悔あるわけ――」
「ないとも言い切れないだろ。じゃ、よろしく」
……が、我慢、我慢だ。文句を言いたい気持ちを堪えて、精いっぱい笑顔を作った。
「あ、甘いものですね。承知いたしました。では、一旦失礼します」
私はそう言って、浅の間の襖を閉めた。