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疲れを取るはずのお風呂で、こんなに疲れたのは初めてかもしれない。小福の番台を通り抜け、私たちは施設内を歩き続ける。すれ違う人たちはみんな白い浴衣を着ていた。うぶめさんも見た目は綺麗な女性にしか見えないから、どれがあやかしでどれが人間なのか全く判断がつかない。そんな戸惑いを察したのか、うぶめさんが見分け方についても教えてくれた。
女性の従業員はうぶめさんと同じ紅色の着物を着ていて、紺色の着物は男性従業員。 白い浴衣はお客様が着るものなんだそう。
「後ほど、花さまのサイズに合ったものをご用意しますね」
あれ、私、うぶめさんに名前を名乗ったっけ?
いや、ここに来てから私は自分の口から名前なんて言っていない。でも、あの椿というイタチも私の名前を勝手に知っていた。すると、また私の顔色を読んだようにうぶめさんが微笑みながら続けた。
「お客様の情報は、入口で誘導する『かまいたち』がまずチェックします。赤い暖簾をくぐって本館の天の湯に入ると正式に認識され、私たち従業員に情報が届くんですよ」
さっき天井に吊るされていた風鈴燈籠。お客を表していると言っていたし、もしかして私の分もあるのだろうか。
名乗っていないのに名前を自動的に知られ、心に変化があったら風鈴が揺れるなんて、なんだか監視されている気分だ。
「そういえばしっかりと自己紹介していませんでしたね。遅ればせながらわたくしは天の湯で湯坐をしております、うぶめと申します」
「ゆ、え?」
「ここで働く従業員はそう呼ぶのです」
ここには特殊な言い方や独特の決まりごとがたくさんありそうだ。私のように戸惑う人がいるだろうと思いきや、白い浴衣の客たちはみんな有意義そうに過ごしていて、大広間と書かれた畳の部屋で雑魚寝している人もいる。よく分からない。ここの仕組みも、なんで自分がいるのかも全然心が追い付いていない。
「当天の湯では、宿泊室を数多くご用意しています。本館と渡り廊下で繋がっていますから、お好きな時にご入浴いただけます。表の極楽通りには甘味処や娯楽施設もありますので、お時間をもて余す心配はありませんよ」
私の気持ちなどおかまいなしに、うぶめさんの説明は続く。
「まずは花さまのお部屋へご案内しますね。お年頃ですし、同じ階に男性がいないほうがよろしいですか? 今は空室もございますので、ご要望があればなんなりとお申し付けくださいませ」
うぶめさんの声が右から左へ流れていく。足がふわふわ浮いているような感覚で、気分が悪くなってきた。
「花さま、お顔の色が……」
「あの、私って本当に死んだんでしょうか?」
頭の片隅では、まだ夢を見ているんじゃないかと思い続けている。けれど、夢としてはあまりに生々しい出来事が多すぎて、否定したくてもできない。
「ここに来たということは、そういうことになります」
胸をドクンと重く打つような、悲しい感覚が広がった。
「でもご安心ください。お客様の湯上がりの時までしっかりとお手伝いしますので」
「……湯上がり?」
「後悔をなくして天へと旅立つお客様のことです。色々とこの場所でしか使わぬ言葉がありますが、自然と覚えていきますので心配いらな――」
「私、帰りたいです」
うぶめさんの言葉を遮るように強く言った。
「私はお客様じゃないし、ここに泊まる気もないし、そんな特別な言葉を覚える気もありません。私、死んでないんです。死んでるわけがないです」
認めたくない気持ちが、唇をきつく結んでいた。
「花さま。ここはただ亡くなった人が来る場所ではないんです。大きな後悔があり、天へまっすぐに行けない人が訪れる湯屋です。つまり、花さまは後悔を持って亡くなられたということ」
「…………」
「口に出したくないこともあるでしょうけど、お客様の後悔を洗い流すのが私たちの仕事です。心残りがあるのなら、おっしゃってください。一同でお手伝いします」
優しく聞こえるけれど、どこか業務事項のように思えた。笑っていても、私には笑っていないように見えてしまって、なにも信じられなかった。
「後悔と言われても分かりません」
「え?」
「分からないんです、自分のことがなにも……」
名前と高校生だったことは覚えている。でも、どの学校に通っていたのか、どこに住んでいたのか、どんな生活を送っていたのか。ここに来てから、なにも思い出せない。
「分からないんです。自分がどうやって死んだのか、どんな気持ちを残していたのか。本当に……」
「つまり、記憶がないんですね?」
「……たぶん」
だから後悔を洗い流すと言われても、ピンとこない。
すると、ずっと笑顔だったうぶめさんが、こめかみに手を当てて渋い顔をした。
「うーん、困ったわね……」
これは私に向けたものではなく、独り言のようだ。
後悔が分からない以上、協力できないし、思い出せる保証もない。だから、私はお客さまじゃないし、現実に戻してもらうことはできないだろうか。
……いや、帰ったところで私は死んでいるのだから、結局さ迷ってしまうことになる。それなら私の帰る場所はどこにもないのかもしれない。
「ちょっと、こっちに来て」
「え?」
考えがまとまったのか、うぶめさんが私の手をそっと引いた。
連れて来られたのは、従業員だけが出入りを許されるバックヤード。裏手の細い通路を進むうち、次第に薄暗くじめじめした空気に包まれていった。散乱する段ボールの隙間を抜けると、足元にある硬いものを蹴り上げてしまい――。
「痛っ」という声がした。……ま、また、あやかし? 何かが潜んでいるのではないかと、身体がこわばる。
視線を上げると、地下へ続く急な階段がそこにあった。うぶめさんは躊躇うことなく、一段また一段と降りていく。 こんな奥深くに連れて行かれるなんて、もしかして怖いことをされるんじゃないだろうか。記憶がないからお客さんとして認められず、地下の牢獄に監禁なんてルールがあったりしたら……?
嫌な予感が胸を締めつけ、逃げ出したい衝動に駆られた時にはすでに遅く、うぶめさんは階段の先にあった重いドアの取っ手に手を掛けていた。
……ガチャリ。
ドアが開くと、そこには……。
「ちょっと! ここにあった和菓子、誰が食べたの?」
「花札しません? もちろん賭けありでね」
「ゲホッ、ゲホ……誰かお茶を!」
「おい、また山爺が餅を喉に詰まらせたぞ!」
「ねえ、今日の日替わり湯って何だったっけ?」
勝手に地下牢獄だと思っていた空間はとても賑やかだった。 広さは10畳ほどの広さだけど、テーブルや椅子も置かれていて、ゆったりと寛げる。そこに老若男女の人たちがいて、ああだこうだと騒いでいた。
「はいはい、みんな注目!」
うぶめさんが手を叩くと、一斉に視線がこちらに向いた。
「どうした、うぶめ。今日はお前、掃除番だろう」と、ひとりの男性が近づいてくる。すぐ私の存在に気づいて、驚いたように目を丸くした。
「こんなところにお客様を連れてくるとは、どういうつもりだ」
男性はうぶめさんに向かって厳しい顔をした。紺色の着物を着ているから従業員だろう。それにしても、体格が大きくて目の前に立つだけで威圧感がすごい……。
「実は、記憶がないみたいで後悔が分からないお客様なのよ。私だけじゃ判断できないから、みんなの知恵を借りに来たんだけど……。岩さんはどう思う?」
うぶめさんの言葉に、部屋の人たちが次々と私の顔を覗き込んでくる。視線が怖くて、身がすくむ思いだった。
「それなら食べてしまえばよろしい。旨そうな生娘じゃないか」
そう言ったのは、さっき餅を詰まらせていたお爺さんだ。 食べる、という単語にドキッとしている私を庇ってくれたのは、一番こわもての岩さんという人だった。
「人間を食うなんて、いつの時代の話だよ。次は餅じゃなくてこの子を喉に詰まらせるつもりかい、山爺さんよ」
「ふん」
本気で食べられるわけではなさそうだけど、居心地は最悪だ。 そんな空気の中、岩さんは向かいにいるうぶめさんに声をかけた。
「颯の兄さんに連絡したほうがいいんじゃないか?」
「でも、兄さんは留守にしてることが多いでしょう? すぐ捕まるかしら……」
うぶめさんが困った顔で答えると、部屋の隅でひそひそ話している幼い女の子たちが目に入った。 見た目は小学校低学年くらいで、ふたりとも丸いボブヘアをしていて背丈も同じ。どうやら双子のようだ。
「颯の兄さん、あそこにいるよね?」
「うん、いたいた」
「でも教えたってご褒美もらえないしね」
「ないしね」
そんな他愛ない会話に業を煮やしたうぶめさんが、大声で怒鳴った。
「こら、雨! 雪! 知ってるならさっさと言いなさい!」
あれほど私に丁寧語で接していたうぶめさんが、従業員の前ではこんなに厳しい態度になるなんて……。
「うぶめはみんなの姉貴みたいな存在なんだ。あやかしには雨や雪みたいな幼い子も多いからね。うぶめは子供が好きだから、ああしてよく面倒を見ているんだよ」
呆気に取られている私に気づいた岩さんが教えてくれた。そういえば番台にいた小福もうぶめさんのことを〝姉さん〟と呼んでいた気がする。
「見た目は皆、人間に近いから区別がつきにくいかもしれないけど――雨は雨女、雪は雪女。あそこにいるのが一つ目小僧で、向こうが土蜘蛛。ちなみに俺は岩魚坊主っていうあやかしさ」
聞き慣れた名もあれば、初めて耳にするものもある。たしかにみんな怪しげな雰囲気だけど、こうやって同じ空間にいると本当に人間と変わらない。
「でも油断したらいけないよ。特に水場がある場所は気を付けるといい。ひょっこりと足を掴まれてそのまま引きずられるかもしれないからな」
「………っ」
背筋がひんやりとしたところで、「あははは、冗談だ」と岩さんが豪快に笑った。いい人なのか悪い人なのかまだ判断できないけれど、悪意はなさそうだ。
「心配して来てみたら、けっこう賑やかにやってますね」
背後からふいに声がして振り向くと、丸眼鏡をかけた精悍な男性が立っていた。彼もまた紺色の着物姿だが、裾には火の玉のような刺繍が施されていて、ほかの従業員とはどこか違う。
「兄さん!」
周囲が慕うように呼ぶ声から、この人が颯という人に違いない。
「ここが地下だからと言ってあまり大きな声を出すのは良くないですよ。おかげで噂は私のところにまで流れてきましたから」
颯さんの言葉に一同は顔を見合わせ、肩をすくめた。どうやらうぶめさんや岩さんよりも立場が上のようだ。
「それで、あなたが〝記憶のないお客さま〟ですか?」
視線を向けられ、私は小さく頷いた。
「残念ながら我々の手では記憶を取り戻すことはできません。かといって、事情の飲み込めないお客さまをいつまでも預かっているほど、この湯屋は暇でもない」
次第に厳しさを増す言い回しに、胸がひりつく。
「今は客室の余裕があると言っても、それは一時的なもの。記憶が戻るまでじっと待ってあげたい気持ちはあるけれど、あなた自身も手持ちぶさたで落ち着かないでしょう?」
つまり私は――どうにも手の施しようがない『厄介なお客』らしい。こっちだって自ら望んで来たわけではないし、長居するつもりもない。なのに、突き放されたような言葉のひとつひとつが、胸にじんわりと痛みを残した。
帰る場所も分からなければ、行くところもない。急に孤独を感じて体が震えた。
「なら、お前はここで働け」
その一言が響くと、部屋の空気は一変する。ほのかに白檀の香りが漂い、全員の視線が扉へ。そこに、気配もなくあの獣耳の彼が立っていた。
「わ、若さまっ……」
雨も雪も岩さんまでもが腰を折り、颯さんも三歩下がって、彼の前に立たないように気をつけていた。
「小娘、聞こえなかったのか。俺はここで働けと言ったんだ。返事は二つ返事以外認めない」
ま、待って、働くって……私がこのあやかしばかりいる場所で?
そもそも、なぜ急にこんな話になるのかもさっぱりだ。説明もなくこの場へ連れてこられた時から、強引な人だとは思っていたけれど。
「若さま。お言葉ですが、人間の娘を我々と同じ立場に置くのは反対です」
静かに口を開いたのは、山爺と呼ばれる老妖だった。彼の声だけが、凍りついた空気に微かな異議を唱えていた。
「普段は人間をお客さまだと思って仕事はしていますが、腹の中では恨みを持っている者を多い。こんな伽藍堂のような娘をここで働かせるなんていくらなんでも……」
「俺に意見するのか?」
彼が鋭い目をすると、場の空気が一瞬にしてピリッとした。
「そんなつもりでは……。申し訳ありません。出過ぎたこと真似を」
山爺さんはそれ以上なにも言わずに、深々と謝っていた。 ……この人は何者? 誰ひとり逆らえない、抗えない圧倒的な威圧感が、身体の奥まで染みこんでくる。
「うぶめ、分かっているな。任せたぞ」
「はい、もちろんでございます」
またしても私だけ置いてきぼりにされ、話がどんどん進んでいく。
「……ま、待ってください! 私がここで働くなんて無理です、そんなの」
「無理かどうかは俺が決める」
その言葉とともに、彼はゆっくりと私に近づいてきた。 そして最後に、断固とした口調で告げる。
「小野崎花。お前は今日から見習い湯坐だ」
自分が死んだことも、心に残した後悔も分からないというのに、何故かあやかし湯屋で働くことになってしまった……。