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 暫くして着いたのは、あの赤い暖簾の屋敷だった。彼は私を抱えたまま中に入り、まるで荷物のようにポンと床に下ろした。

「いたっ!」

 硬い木目の床に腰を強く打ち、痛みが走る。文句を言う間もなく、紅色の着物をまとった女性が慌ただしく駆け寄ってきた。

「まあ、若さま! どうなさいました? 表からお入りになるなんて珍しい」

 女性は、喋るイタチや獣耳の彼と比べると、特に変わったところはないように見えた。口元のほくろが色っぽく、彼女もまた息を呑むほど美しい人だった。

「うぶめ、こいつの世話をしろ」

「若さま直々とは、よほど気に入ったお客さまですか?」

「迷子になりかけてたガキを拾っただけだ。頭の鈍い娘みたいだから、しっかり入り湯しとけ」

「かしこまりました」

 うぶめと呼ばれた女性が丁寧に頭を下げると、彼は再び暗闇の外へと消えた。まだ状況が飲み込めない私は、床に座り込んだまま動けない。

「立てますか?」

 うぶめさんが優しく手を差し伸べてくれた。

「は、はい、大丈夫です」

 手を借りながら立ち上がると、まだ靴を脱いでいなかったことに気づいた。 入口付近には下駄箱が並んでいて、さまざまな靴が収まっている。さっき暖簾の向こうに消えた人たちのものだろうか。見た目は普通の温泉施設のようだが、怪しさは消えない。

「お履き物は空いている下足箱(げそくばこ)にお入れくださいね」

 うぶめさんに穏やかに微笑まれ、とりあえず靴を脱ぎに向かう。奥は死角になっていて、今なら隙を見て逃げ出せるかもしれない。でも、逃げても帰り道は分からないし、あの彼にまた捕まる可能性も……。

「どうかしました?」

「い、いえ、なんでもないです!」

 なんとか抜け出す方法を考えながら、今はうぶめさんに従うふりをするのが賢明だと判断した。

「当湯屋には、30種類以上の湯がございます。現世でお馴染みの露天風呂や岩盤浴、サウナもご用意しております」

 うぶめさんの説明を聞きながら、私は屋敷の中を見回した。壁には無数の窓が並び、色とりどりの登り旗のような布が垂れ下がっている。よく見るとそこには、犬と人魂と温泉のマークが刺繍されていた。

 そういえば、イタチが手にしていた提灯にも同じ印があった。この湯屋のシンボルなのだろうか。

「身体を癒すための湯も豊富ですが、ここには少し特別な湯もございます。最初は戸惑うかもしれませんが、どうぞご理解くださいませ」

 その時、リンリンと澄んだ鈴の音が耳に届いた。見上げると、高い天井に無数の風鈴付きの燈籠が吊るされている。

 一体どれだけあるのだろう、目で追うだけでは数えきれない。でも、奇妙なことに揺れているのはたった一つの風鈴だけ。窓は閉まり、風は通っていない。空調がその一カ所だけを狙うなんて不自然だ。風で揺れているというより、風鈴そのものが意思を持って動いているみたいな……。

「もしかして鈴の音が聞こえるのですか?」

 天井を見つめる私に気づき、うぶめさんが歩みを止めた。その言葉に、ふと違和感を覚える。風鈴の音は確かに控えめだが、あれだけ左右に揺れ、銅の燈籠に当たっていれば誰でも気づくはずだ。

「あの風鈴は、あやかしにしか聞こえない音なんですよ」

「え?」

「我々従業員にとって、あれは呼び鈴のようなもの。一つの風鈴燈籠が一人のお客様を表し、心に大きな変化や危険が迫ると揺れて知らせてくれるんです」

「……危険、ですか?」

「心が不安定な方も多いんです。そういう状態が続くと自分自身を見失い、向こう側に渡ろうと考える者も少なくありません」

「……危険?」

 向こう側――それがどこを指すのか分からないが、きっとあの若さまが言っていた『二度と光ある場所には戻れない』暗闇のことだろう。

「それにしても、風鈴の音が聞こえたのはお客様が初めてです。現世であやかしと何か繋がりがあったのですか?」

「ないです、ないです。あるはずありません!」

 うぶめさんは腑に落ちない表情を浮かべたが、私たちはまた歩き始めた。

 足を止めたのは〈壱〉と書かれた番台の前だった。少し高めの場所に、頬杖をついて暇そうに座る少年がいた。

「こら、小福(こふく)。仕事中だというのに姿勢が悪いわよ」

 うぶめさんがため息を交えて叱る。

「いいじゃないすかー。今日の入り湯客は終わったし、みんな癒し湯がある弐番に行きましたからあ」

 語尾を伸ばす癖があるのか、小福と呼ばれる少年は古びた雑誌をパラパラめくっている。ここからは上半身しか見えないが、彼は湯屋の制服とは違う鮮やかな色の法被を着ていた。すると、うぶめさんが小福の雑誌をぱっと取り上げた。

「ちょっと、姉さん、なにすんですかー」

「湯入りのお客様よ」

「ん?」

 小福は下を覗くように身を乗り出し、ようやく私の存在に気づいた様子だ。でも、うぶめさんの丁寧さと違い、彼の面倒くさそうな表情は変わらない。

「はいはい、どうぞお好きに使ってくださいよー」

 そう言って、番台の棚から別の雑誌を出していた。

「申し訳ございません、なにぶん飽き性な性格で……。悪意はないので多目に見てくださいませ」

 ……人間みたいに見えるけれど、この少年もあやかしなのだろか。「どうぞ、こちらへ」と、うぶめさんが番台の先の引き戸を開けてくれた。

 私に対してうぶめさんはとても穏やかに接してくれていたが、番台を通り過ぎる際に、小福の尻尾をお仕置きのようにぎゅっとつねったのが見えた。

「うぎゃっ!」

 小福の悲鳴が上がったけれど、うぶめさんは無視をして引き戸をぴしゃりと閉めた。

 脱衣場らしき空間には、四段の棚に衣類用のカゴが並び、天井には古風な扇風機が回っていた。デジタルじゃないレトロな体重計や、頭を入れるタイプのドライヤー付き椅子などが置かれていて、雰囲気は下町の銭湯のようだった。

「……って、うぶめさん!?」

 私が物珍しげに観察している中、あれよあれよという間に着ていた制服を脱がされてしまった。慌てて棚の上に置かれていたフェイスタオルで体を隠すが、そんなに役立つサイズじゃない。

「さあ、浴場へご案内しますね」

「は、裸で?」

「もちろんです。お洋服を着たまま入浴などあり得ませんわ」

「私、入浴するんですか?」

「ええ、どうぞ中へ」

 文句は受け付けないという速さで、うぶめさんは大浴場と書かれた扉を開けた。

「うわ……」

 小さく漏らした声が響くほど、浴場は広かった。薄暗い室内に浮かぶ竹灯籠の光が、仕切りで区切られたお湯に暖かな湯気を漂わせ、白い龍のように棚引いている。

「では、始めましょう」

「始めるって……ひゃっ!」

 突然うぶめさんから水をかけられた。あまりの冷たさに心臓がきゅっとなり鳥肌が立った。

「な、なにをするんですかっ?」

「かけ湯でございます。清めの意味もありますので、お客様には全身にかけていただく決まりなのですよ」

「全身、ですか……ひぃゃ……っ」

 私の言葉を待たずに、うぶめさんは柄杓で容赦なく浴びせてくる。ブルブルと肩を震わせながら耐えていると、「では、次に参りましょう!」と言って移動させられた。……寒い、寒すぎる。タオルで隠すのも忘れ、中腰でうぶめさんの後を付いていくと、丸い浴槽の前に案内された。

「……かがみゆ?」

 家のような形をした板には【鏡湯】と書かれてある。お湯は無色透明で、鏡のように透き通っていた。

「足元に気をつけて、ゆっくりお入りください」

 身体が冷え切っていたので、言われるままお湯に入った。かけ湯の冷たさといい、普通じゃない気がするけれど、今のところ変わった様子はない。

「お湯の加減はいかがですか?」

「とても丁度いいです」

 熱くもなく、ぬるくもなく、心地よい適温だ。すると、うぶめさんがニコリと笑いかけてきた。

「ということは、お客様は可もなく不可もなく、普通の人生を歩んできたのですね」

「どういう意味ですか?」

「この鏡湯は、現世での行いによって温度が変わるんです。人に恨まれていたなら冷たい。人に感謝されていたなら熱い。良いことも悪いこともしていなければ、適温になるんですよ」

 なんだかつまらない人間だと言われている気もするが、少なくとも人に恨まれていないのはほっとした。

「そういう変わったお湯なら入る前に言ってもらえますか?」

「先入観なくご入浴を楽しんでいただきたかったので」

 大浴場を見渡すと、濁り湯、打たせ湯、足湯と、様々なお湯があったけれど、おそらく鏡湯のように特別な効能があるに違いない。ますます警戒心が強まる中、突然背中にザラっとした感触がよぎった。

「きゃああっ! い、今、なにかが……」

「ああ、それはあかなめというあやかしで、垢を舐めるのですよ。掃除の時間なので、早く出ていけという合図でしょう。申し訳ありません。他のお湯は次の機会にしまして、他の場所へご案内しますね」

 ……垢を舐めるあやかし。姿は見えなかったが、ザラザラとした舌の感触が背中に残っていて、温まっていた体が一気に冷えた。


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