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「は? なんだよそれ」
いつものように寛いでいた幹也くんに、私はありのままの経緯を説明した。
「だから、お母さんに会えるかもしれないの。だから、早く私と一緒に来て」
彼の手を掴もうとしたら、勢いよく払われた。
「そんなの頼んでないだろ?」
「でも、幹也くんの後悔はお母さんでしょう?」
「勝手に決めつけんなよ! 誰があんなやつ……」
「聞こえてないと思うけど、幹也くんの心を表す鈴が今も激しく廊下で鳴ってるよ。スマホの写真に写ってた人も、らしくないことをしたって言ってたことも、バチが当たったって切ない顔をしてたのも、全部全部お母さんとのことなんじゃないの?」
「……違う。別にあんなやつ後悔でもなんでもない」
幹也くんが、弱々しい声で答えた。
「あいつは俺を産んで、不幸になったんだ。周りの反対を押し切ってシングルマザーになって、昼はパート、夜は居酒屋でバイトして……。どんどんやせ細って、顔にはしわが増えていった。どんなにいい人が現れても、『子供がいるから』って次の恋には進まない。俺なんか産まなきゃ、あいつはもっと自由に生きられたはずなのに」
「幹也くん……」
「毎日クタクタになって帰ってくるのに、俺の前では笑ってる。そういう姿を見るのが嫌になって、俺も仲間と夜遊びばかりしていた。でも、どれだけ遅く帰っても、あいつは〝おかえり〟って待っててくれた。まるで義務みたいに」
「…………」
「もうそんなのうんざりだったから、離れられて俺は清々してる。だからわざわざ顔を見る必要なんてねーんだよ」
うんざりと言った顔はとても寂しそうで、清々しているようには見えなかった。
「それなら、文句でもいいじゃない」
私は再び彼の手をしっかり握り返した。
「そうやって抑え込んでる気持ちを、全部吐き出したら楽になるよ。だから、私と一緒に来て」
幹也くんを連れて御影さんのところに行くと、彼は〝湯〟と書かれた暖簾の前にいた。
「遅いぞ」
さらさらの黒髪の上でぴんと尖った白い耳が、いまにも何かを察しているかのように動いている。幹也くんもまた、御影さんの放つ凛とした空気に気圧されているようだった。
「行くぞ」
腕を組み、羽織の袖に手を入れたまま御影さんが暖簾をくぐると、すぐ正面に【参】と記された番台があった。壱番台にいた小福と同じく台座は高く、その背後には大柄で丸みを帯びた影がひとつ。青い法被の背中をこちらに向け、まだ私たちに気づいていない様子だ。
「おい、萬福」
御影さんが低く呼びかけると、ようやくその人物はゆっくりと振り返った。
「おや、若さま。どうなさいました?」
他の従業員は御影さんを見るだけで背筋を伸ばすが、この萬福と名乗る青年は動じないどころか、とてものんびりとした喋り方だった。
「口に物を入れたまま話すな」
「僕が飲み込む前に若さまが話しかけたからでしょう」
萬福の手には柏餅が一つ。どうやらこっそりつまみ食いをしていたらしい。
「紹介するまでもないが、こいつは参番台を任せている萬福という狸のあやかしだ」
「どうもどうも」
柏餅をかじりながら頭を下げる萬福に、私も小さく会釈した。
「萬福。客は今、入っているか?」
「いえ、さっき掃除が終わったところです」
「それならちょうどいい。これから〝映し湯〟を使う。その間、他の客は絶対に入れないように」
その言葉ですべてを察したらしい萬福は「畏まりました。ごゆっくり」と、私たちを奥へ通してくれた。
御影さんは脱衣場の真ん中を突っ切り、大浴場に繋がる扉を開ける。
「お前は足袋を脱げよ」
と、視線を送られ、私は急いで裸足になった。すでに素足だった幹也くんはそのままに、私たちはひんやりとしている床石の上を進む。掃除したばかりの浴場は隅々まで磨き上げられ、風呂桶もすべて同じ向きに整えられていた。
「こっちだ」
たくさんある浴槽を横目に御影さんはどんどん奥に進んでいき、室内なのに洞窟のような空間が見えてきた。この先にあったのは、【映し湯】と表記されている露天風呂だった。
「なんだよ、これ。ただの温泉じゃねーか」
幹也くんがぼそりと呟いた。たしかに映し湯と書かれていても、見た目は普通の温泉にしか見えない。
「もしかして幹也くんが入らないとダメなのかも」
「は?」
「ほら、湯入りの時に鏡湯に入らなかった? あんな感じで入らないとなにも――」
「お前の前で裸になるなんて、絶対無理だから」
「大丈夫だよ。極力目をそらすから」
そんなやり取りをしていると、「お前はもう黙ってろ」と、御影さんに叱られてしまった。私が口を閉じたところで、御影さんは空を見上げた。
「逢魔が時という昼と夜が移り変わる一瞬に、会いたい者の顔を思い浮かべて手を湯に浸けると、現世の様子を映してくれるんだ」
そして御影さんは幹也くんを見据えた。
「向こうではおそらく、お前が死んでから数日しか経っていない。後悔している相手が今どうしているか、どんな顔をしているか――確かめてみるか?」
強制はしない。選ぶのは幹也くん自身だ。だが、この湯屋に導かれたということは、まだ心に消化しきれない後悔を抱えている証拠。それを克服しなければ、彼の心は救われない。
私が静かに見守る中、幹也くんはひと息ついてから腰を下ろし、右手を湯に沈めた。まるで氷が解けるように湯気が消え、鏡のように滑らかな水面に映像が浮かび上がる。そこには、白い棺にすがりついて泣く一人の女性の姿があった。
「一人息子だったんでしょう? かわいそうに」
「でも親子関係はあまりうまくいってなかったって聞くわよ。息子さんも悪い友達ばかりと付き合って夜遊び三昧だったらしいし」
「だって、真理子さんも若い頃は……ねえ?」
「10代で妊娠したと思えば父親はすぐに逃げちゃうし、
責任も感じずにできちゃった子の出産だったから、お孫さんが亡くなったっていうのに真理子さんのご両親は一度も顔を見せないままよ」
「よりにもよって真理子さんの誕生日に亡くならなくたってね……」
湯気の向こうから、はっきりと聞こえてくる会話。隣の幹也くんは、その光景を険しい表情で見ていた。
「おそらくお前を弔っている最中だ。お前が入っている棺の横で中で泣いているのが母親だろう?」
御影さんの問いかけに幹也くんは反応しなかったが、その無言の眼差しが『そうだ』と言っていた。
……幹也くんのお母さんは、まるで棺から離れたくないかのように、憔悴しきった顔で涙をこぼしている。
「真理子さん、あまり気を落とさないで。きっと息子さんだって後悔してるわよ。夜遊びの帰りに事故だなんて、早く家に帰ればよかったって」
「……っ……」
慰めにもなっていない人たちの言葉に、幹也くんのお母さんの悲しみはさらに広がっていく。
「……ちっ。好き勝手に言いやがって。何か言い返せよ、ばばあ」
幹也くんが苛立ちを吐き捨てるが、その声は現実世界には届かない。……お母さんのこんな姿ならば、彼に見せないほうが良かったんじゃないだろうか。 そんなことが頭を過った瞬間。幹也くんのお母さんがようやく、小さな声で口を開いた。
「幹也は……確かに、素行がいいとは言えなかったかもしれません。でも、あの子なりに一生懸命考えて、行動していたんです」
そう言って、綺麗な顔をして眠る幹也くんの顔を愛しそうに撫でた。
「私は未婚であの子を産んで、たくさん辛い思いをさせました。でも、こんなダメな母親の元に生まれた幹也は誰よりも優しい子でした」
その訴えに、周りの人たちは気まずそうに俯いている。幹也くんのお母さんがどれほどの思いで息子を育ててきたか、その気持ちがひしひしと伝わってきた。
「……そうやってすぐに俺のことを優先するところが嫌だったんだよ」
幹也くんが、苦しそうに呟いた。
どうすれば、幹也くんの心は救えるのだろう。どうすれば、幹也くんはお母さんと分かり合えるのだろうか。答えが分からないまま、私はすれ違うふたりをただ見ていることしかできなかった。
「それが人間の親というものだ」
深い闇を裂くような、優しい声は御影さんだった。「あやかしには家族というものはない。だが、家族を切実に求める者はいる」
――『どんなことがあっても、子供を守るためなら強くなれる。私でさえそう感じるんだから、本当のお母さんはもっともっと、わが子を愛おしく思うに違いないわ』
うぶめさんの言葉が脳裏をよぎる。
幹也くんはさっき、自分を産んで、お母さんが不幸になったと言った。一人で育てる苦労は大きかったはずだし、自由のなさも理解できる。けれど、決して幹也くんのお母さんは、縛られていたわけじゃないと思う。
「幹也くんのお母さんは、誰よりも幹也くんのことが大切だったんだよ」
どんなに疲れていても食事を作り、どんなに遅く帰ってきても〝おかえり〟と言う。義務だったわけじゃなくて、大切だったから、愛していたから当たり前のことをしていただけ。そこに見返りを求める心など、何ひとつなかったのだ。
「……幹也、ごめんね。守ってあげられなくて。仕事ばかりであまり話す時間をつくれなかったけど、苦労をかけたくない一心で大学まではきちんと進学させようと思ってたの。もっと早く、本当の気持ちを伝えていればよかった……」
幹也くんに語りかけるように泣くお母さんを見て、やっと彼が本音を漏らした。
「違う……母さんのせいじゃない。悪いのは俺のほうで……」
その時、チャイムが鳴った。その音は、現実世界の幹也くん宅からだった。「……幹也?」と、お母さんは急いで廊下を走っていく。玄関を開けると、花束を抱えている宅配便の人が立っていた。
「楢橋幹也さんからのお届けものです」
「え、な、なにかの間違いじゃ……。だって幹也は……」
「いえ、ちゃんと今日の日付で送るように伝票に書かれていますよ」
状況が理解できていないまま、お母さんは花束を受け取った。花束の中にはメッセージカードが入っていて、そこに書かれていたのは――。
【母さん、誕生日おめでとう】
「……うう、幹也……幹也っ……」
お母さんは花束を抱きしめ、玄関の床に崩れ落ちた。
「誕生日のお花を送ってたんだね」
私は幹也くんに問いかける。 だからずっとしきりにスマホを気にしていた。無事に届いてくれるのか確かめたかったのだと思う。
「……あの日。いつもみたいに友達と遊んだ帰り道に、ふと思い出したんだ。『あ、そういえばもうすぐ母さんの誕生日だって』」
幹也くんの声が震えていた。
「それで普段は通らない道沿いに、小さな花屋があったことを思い出してさ。どの花がいいかなんて全然わからないから、適当に選ぼうと思ったんだけど、せっかちな店員にいろいろ質問されて――『誕生日の花を探してるんです』って答えたら、あれを勧められたんだ」
「………ダリア?」
「そう。花言葉は〝感謝〟だって」
それを聞いて、胸の奥がじんわり熱くなった。
幹也くんはきっと、乱暴な言葉で悪態を突いていた時だって、心の中ではつねに感謝をしていた。でも言えなかった。恥ずかしさとプライドが邪魔をして、いつもお母さんに強いことを言ってしまう。 だからこそ、誕生日にお花を選んで、伝えようとした。でも、花を選んだ直後に事故に遭ってしまった。会いたい人の顔はここで確かめることはできても、会うことは叶わない。それでも――。
「幹也くん。言いたいことは伝えたほうがいいよ。想いは必ず届くから!」
水面に映る映像が、ゆらりと揺れ動き始める。見上げれば、夕陽に染まった雲が西へ流れ、夜の気配が迫っていた。
「言い忘れてたが、映し湯が保てるのはせいぜい十分。あと一分もしない内にただの湯となり、母親の顔は永遠に見られなくなる」
御影さんの声が静寂を切り裂き、私は慌てて幹也くんの腕を掴んだ。
「聞こえたでしょ? 早く、伝えたいことを――」
「言ったってどうせ聞こえねぇよ」
「聞こえる聞こえないの問題じゃない! 幹也くんが言わなくていいのかどうかを聞いてるの。ずっと燻らせていた気持ちがあるんでしょ。後悔があるからここに来たんでしょ!」
気持ちが溢れるまま、私は声を張り上げる。
「今伝えなかったら、二度とその言葉は届かないよ! もう幹也くんの命は生き返らないし、お母さんにも会えないし、過去に戻ることもできない。でも前に進むことはできるでしょう。お母さんのために、また会うことができるかもしれない未来に行くために、自分で自分の気持ちにけじめをつけなさいよ!!」
「……っ」
すると、幹也くんは消え行く映し湯に向かってありったけの声で叫んだ。
「母さん……! 反抗ばかりして、本当にごめん。俺のためにこんなに働かせちゃって、ごめん。でも、本当はずっと感謝してたんだ。いつか親孝行しようと思ってた。だけど間に合わなくて、何も恩返しできなくて、本当にごめんっ」
幹也くんの涙が、ぽたぽたと母さんの頬に落ちる。
「母さんが俺のために貯めてくれたお金を、これからは全部自分のために使ってほしい。おいしいものを食べて、綺麗な服を着て――ひとりじゃ寂しいだろうから、いつかいい人を見つけて。誰よりも幸せになってほしい。俺、母さんの子供に生まれてよかった。ありがとう。ありがとう、母さん……!!」
その瞬間、幹也くんの花束を愛しそうに抱えていたお母さんの顔がぷつりと消えた。 あんなに鳴りやまなかった幹也くんの心を表す鈴の音がぴたりと止まり、水面はただの静かな湯に戻っていた。幹也くんはしばらく、その湯面を見つめ続けていた。