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老犬 人知れず活躍す

歳をとると見えなくなるものもあるけれど、見えるようになるものもある。

この物語は、老犬たちだけが知る、静かな戦いの記録です。

朝の空気は少し冷たかった。

湿った草のにおいに混じって、どこかよどんだ気配があった。


タロはゆっくりと歩いていた。足取りは重く、後ろ足がときおり震える。けれど、この道を歩くことが一日のなかで最も大事な「しごと」だった。家の中では、もう誰も彼を必要とはしていない。息子のようだった人間の子どもは大きくなり、家を出てしまった。


それでも、朝になると、リードが引き出しから取り出される音は変わらない。それが、タロの一日の始まりだった。


いつもの公園の角を曲がると、そこにいた。

三毛猫のミケ。地域の猫たちのなかでも気が強く、よく鳩を追いかけていたあの猫が、植え込みのかげでぐったりと横たわっていた。


タロは足を止めた。鼻先に届くのは、体温の下がった毛皮のにおいと、どこか焦げたような、甘いような、異物の香り。


(……ん?)


タロの頭の奥で、古いスイッチのようなものがカチリと入った。

そして、すぐにそれは伝わった。遠く離れた場所にいる仲間のもとへ。


(おい、ゴン。起きてるか)


(……ああ。タロか。どうした、腰またやったのか?)


(違う。ミケが倒れてる。たぶん……もう動かん)


(猫がか?)


(おかしいにおいがする。焦げたような甘いにおい。薬品か、なんか食ったか)


数秒の沈黙。そのあと、別の声が割り込んだ。


(それ、感染症かもしれないな)


ベス。元・盲導犬。今は引退して、静かな老後を送っているが、観察力は健在だった。


(最近こっちの団地でも猫が一匹、似たような感じで倒れてた。人間たちはワクチン騒ぎしてたけど、効いた様子ない)


(おいおい……それが本当なら)と低い声。リュウだった。元・警察犬。老いてもなお、語尾に圧がある。


テレパシーでつながった4匹の老犬たちは、回線を再起動させていた。

10歳を超えた者にだけ芽生える、特別な能力。人間には届かず、犬同士にだけ届く声。

老いて得た力。かつての力はないが、今は知恵と直感もある。


(タロ、おまえ、あのにおいを覚えとけ。何かわかったら伝えろ)


(了解)


そのとき、タロの飼い主がリードを軽く引いた。もう行こう、という合図。

歩き出す。今日も公園の道を通って、スーパーの裏、住宅街、そして家へ。

だが、そのどの道にも、犬たちだけが感じ取る“異変”の気配が、微かに広がっていた。


歳を取ったからこそ気づけることがある。

鈍くなった足と引き換えに、研ぎ澄まされたのは嗅覚でも耳でもなく、“つながる力”だった。


----------


その夜、タロは落ち着かなかった。


夜風が入らぬよう窓が閉められた部屋で、飼い主がテレビをつけたまま寝落ちし、画面から流れるのは光だけだった。

カーテンの隙間から月がのぞいていた。タロは玄関の方を向いてじっとしていた。いつもなら寝ている時間だ。けれど、胸の奥に小さな棘のような違和感が残っていた。


それは昼間、ミケの体を嗅いだときに感じたにおいだった。


焦げたような、でもお菓子のようでもある、不自然な甘さ。

風が吹けば消えてしまいそうなほど微かな香りだが、鼻の奥に残って離れない。


廊下の先、キッチンの方で物音がした。


タロは静かに立ち上がり、歩き出す。

音の主はクロだった。黒猫のクロ。年齢はタロより少し若いが、もう「中年」には差しかかっている。


だが今夜のクロの動きにはいつものしなやかさがなかった。ふらりと歩き、途中で立ち止まり、息を吐いたかと思うとその場に倒れ込んだ。


(クロ……?)


タロは近づき、鼻を寄せる。においが違う。

ミケと同じ。

しかももっと強い。


クロの口元には、小さな銀紙の破片が着いている。タロはそれを嗅ぎ取る。


甘い。強い。けれど、どこか薬品じみている。


(まずい……)


胸の奥が熱くなる。思わず吠えた。老いた喉が震え、声は枯れ気味だったが、夜の静けさには充分すぎる音だった。


飼い主が飛び起きる。ぐったり倒れているクロを見て悲鳴を上げ、クロをクレートに入れてどこかに連れて行った。


飼い主が帰ってきたのは二時間後だった。クロは帰ってこない。

「いったい何の病気になったんだ。タロは大丈夫か?」と、飼い主が言った。

どうやら感染症を疑っているらしい。


その夜、タロはもう一度、テレパシーの呼びかけを送った。


(みんな……今度はクロだ。うちの。倒れた)


即座に反応が返ってくる。


(やられたか……)

ゴンの声は重く、鈍い。


(においは同じだった。銀紙がくっついてた。包装紙かも)

(チョコレート……かもしれん)

ベスの声がした。どこかで聞いたような推論。

(人間の菓子の中でも、チョコは猫に特に毒だって、昔飼い主が言ってた)


(人間は知らずにやったのか? それとも)

(偶然にしては続きすぎてる)


(ミケ、タマ、クロ。短い期間に、近い場所で)

リュウの声ははっきりしていた。

(誰かが意図的に何かをやっている。それがチョコかどうかはまだわからんが、これは偶然じゃない)


(ただの病気じゃない。感染症でもない。そう考えていいか?)

タロが問うと、沈黙が数秒続いたのち、全員の意思がひとつに結ばれた。


(ああ、捜査を始めよう)


夜は深く静まっていたが、老犬たちのあいだでは確かに何かが始まっていた。

誰にも気づかれずに、どこにも足跡を残さずに。


彼らは動けない。勝手に出入りすることはできない。だからこそ、声を重ねる。

目の代わりに耳を使い、足の代わりに嗅覚を使い、そして、言葉を交わす。人間には聞こえない声で。


タロは再び床に伏せたが、眠る気配はなかった。

クロのにおいはまだ鼻の奥に残っていた。

忘れない。絶対に。


----------


タロはその日も歩いていた。クロは動物病院に預けられたまま。容体は安定しているが、まだ回復の兆しはないという。


人間たちは「最近のウイルスは怖い」と言い、消毒スプレーを買い込み、虫よけを玄関にぶらさげた。

けれど、タロにはわかっていた。クロには「風邪」や「ウイルス」のにおいはしなかった。


今日も公園に向かう道を歩く。いつもの電柱、曲がり角、スーパーの裏手のごみ収集所。

変わらぬ風景。その中に、かすかに残る異質なにおい。


(ここにもある)


鼻を地面に近づけ、もう一度嗅ぎ直す。人間のゴミのにおいに紛れているが、確かにある。

甘く、焦げ臭く、妙に人工的なかおり。


(リュウ、そっちはどうだ)


テレパシーの呼びかけに、数秒後、重たい声が返ってくる。


(確認した。うちの団地の北側でも、倒れてた猫がいたって話だ。俺が通った時にはもう片付けられてたが、においは残ってた。あれは……ああ、同じだ)


(ゴン、おまえのとこは?)


(昨日、広場の植え込みでひと鳴きもせず倒れてたやつがいた。ミケじゃない。あいつより若い。けど、体はぐったりしてて、よだれも出てた。においは……やっぱり、似てる)


(チョコだ)

静かに、ベスが言った。


(あの銀紙。タロが見たやつ。私の家の人間がチョコを食べるときに、よく落とすの。においが残るのよ。あれと同じ)


(猫にチョコを?)

(普通はありえん。人間なら知ってるはずだ。猫には毒だって)


(じゃあ、知らずに与えたか、あるいは……)


(わざとだ)


タロの心の中に、じわりと怒りがわいていた。

クロが、ミケが、他の猫たちがあんな目に遭っているのに、誰も気づかない。気づこうとしない。


(地図にしてみよう)

ベスが言った。

(私たちが通ってる場所、においを感じた場所、猫が倒れてた場所。全部重ねると、なにか見えるはず)


しばらく沈黙が続いた。テレパシーの回線上に、それぞれの散歩ルート、観察地点、においの座標が重なっていく。


(……中心がある)

リュウの声だった。


(全部のにおいが、同じ方向を向いてる。町のはずれ。古い洋館。人間が言うには、昔、商社の社宅だったって話だ。今は誰が住んでるのかもわからん)


(人間たちは近づけない。でも、私たちは)

(私たちも、入れはしない)

ベスが冷静に返した。


(だからこそのテレパシーだ)

リュウが言った。


老いた足は届かなくても、声なら届く。

この異変の正体を、見つけ出すために必要なのは、知恵とつながりだ。


(誰か、飼い主がその家の近くを通るやつはいるか?)


しばらくの沈黙のあと、タロが言った。


(……通る。あの道は、朝のコースだ)


(決まりだな)

リュウが短く言った。


----------


翌朝、空は曇っていた。


タロはリードを引かれながら、いつもより少し遠回りの道を歩いていた。

飼い主はスマホを見ながら歩いていた。途中、道端の看板の前で立ち止まり、なにかを調べている。


その間に、タロはゆっくりと首をめぐらせ、例の建物を見た。


洋館。灰色の壁、重たい扉、雑草の生い茂る庭。窓はすべて閉ざされ、カーテンの隙間も見えない。


ここが、においの中心。


タロは慎重に歩を進め、門の前で立ち止まった。人間の目にはただの古びた家。でもタロの鼻には、明らかな異常が届いていた。


(……ここだ)


においの層が違う。古い建物のカビ臭さ、ホコリ、猫の毛、そして——あの甘いにおい。


チョコのようで、少し焦げたにおい。


(リュウ、確認した。ここだ。確実に、ここから出てる)


(……見えるか? なにか)


(いや、壁が高い。門も閉まってる。人間が入らない限り、俺たちにはわからん)


タロはしばらく耳を澄ませた。

風が庭を通り抜ける音。その中に、小さな音があった。

“にゃ……”という、細く消えそうな声。


(聞こえた。猫だ。中にいる)


(クロか?)

(違う声だ。若い。小さい)


庭の奥に目を凝らす。塀の隙間から見える。

毛がまばらになった猫の体。地面に伏せて、動かない。


(……死んでる)


甘いにおいと、死のにおい。そのふたつが交差して、タロの鼻腔を満たす。

目の奥が、かっと熱くなる。


(これ以上、黙ってはいられん)


タロは身体をひねった。ぐっと力を入れて、リードを持つ飼い主の手を引く。

老いた足に負担がかかる。腰に鈍い痛みが走る。でも、それでも引いた。


「えっ、ちょ、タロ!? ちょっと、どうしたの、急に!」


飼い主の声。けれど、止まるわけにはいかない。


門の前まで飼い主を引っ張り、その場に座り込む。じっと門の内側を見つめる。


飼い主が不審そうに視線を向けたとき、ちょうど風が吹いた。毛が舞う。動かぬ猫の死体が、塀の内側にあることが、はっきりと目に入った。


「……え? ……猫? これ……」


スマホが取り出される。カメラが向けられる。

その指先が、ためらいがちに「110」の数字を押した。


どこかで、仲間たちの声が重なった。


(よくやった)


その日の夕方、あの屋敷にパトカーが止まり、数人の警察官が門をくぐっていった。

人間たちの世界がようやく、わずかに反応した。


だが、おじいわんたちは知っていた。

これは終わりではない。ようやく、「始まった」のだと。


----------


屋敷に警察が入ったのは、通報から1日後だった。


タロの飼い主は事情聴取を受け、警察は写真を確認し、現場の状況を「猫の死体が不審」と判断。近隣でも類似の通報が増えていたことから、対応は早かった。


門が開けられ、制服の人間たちが足早に中へ入っていった。

老犬たちは、各自の位置からそれを見ていた。


(入ったな)

リュウの声。

(ようやく、だ)


(私たちは……ここまでか)

ベスのつぶやきに、しばし沈黙が流れた。


(人間の事件か)

ゴンがつぶやいた。


翌朝にはニュースになっていた。


「住宅街の空き家、詐欺グループのアジトに」

「特殊詐欺で使われた“かけ子”の若者たちを保護」

「内部では猫の死骸も……虐待の可能性」


保護されたのは、20歳そこそこの青年たちだった。

警察の発表によれば、本人たちの意思で詐欺に加担したわけではなく、金に困っているところを「バイト」として勧誘され、そのまま逃げられなくなったという。


「毎日電話して、だまして、振り込ませて……でもそれ以外は、誰とも話せない日々だった」と青年は語った。


部屋には監視カメラがあり、携帯は取り上げられ、誰にも連絡が取れなかった。

さぼれば電気ショック、食事は出るが。外には出られない。

チョコレートは案件1件が完了するとともにもらえる成功報酬だった。


そんな中、彼のもとに現れたのが、猫たちだった。


鉄格子の隙間から、ふらりと現れて、物欲しげな目で彼を見ていたという。


「他になにもないからさ……たまっていたチョコレートをあげたんだ」


彼はそう語った。

猫に毒になると知らず、それを分けた。

猫は喜んで舐め、そして、翌日には姿を見せなくなった。


彼はそれを何となく寂しく思い、次の猫にも、また次の猫にもなつくようにと与え続けた。


「ここに来るってことは、俺と話したいってことだって……」


その告白を、タロたちはテレビ越しに聞いた。


人間にはわからない。犬たちには伝えられない。

でも彼らは、においと声と、目に見えない繋がりで、その話が“本当”だと感じ取っていた。


その夜、テレパシーの回線が静かに開かれた。


(……悲しい話だったな)

ベスの声はどこか乾いていた。


(罪は罪だ)

リュウが短く返した。


(でも……あいつも、閉じ込められてた)

ゴンが低く言う。


(猫と友達になろうとして、殺してしまった)


クロはまだ入院中。回復はしているが、完全ではない。


事件は終わった。警察が動き、メディアが取り上げ、人々がざわつく。

だが、老犬たちのなかには、静かに消えない火が灯っていた。


それは、「ただ友達になりたかっただけなのに」と言っていたあの青年と、根の深いところでつながっている気がしてならなかった。


----------


クロは帰ってきた。

痩せた体で、タロの横にぴたりと寄り添い、時折眠ったふりをしながら、ゆっくり瞬きをする。

あの甘いにおいは、もう鼻の奥には残っていない。ただ、静けさがある。


事件は人間の手で「解決」されたことになった。

けれど、犯人のところまで連れて行ったのはタロたちだった。


老犬たちはまた散歩道に戻った。

その日、公園の隅に自然と4匹が集まっていた。

テレパシーは交わさない。ただ、それぞれの目にわずかな光が宿っていた。


タロは立ち上がり、飼い主と歩き出した。

風が毛を揺らし、遠くで木の葉がささやく。


誰にも気づかれないまま、町はまた静けさを取り戻す。


老犬たちの知恵、やる気、おもいやりが伝われば幸いです

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