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わんこがおしえてくれたこと

子供のころに隣の犬に手をかまれて大けが

いまでも傷はあるのですが

そこから良いことが起こるように考えてみました

[僕の話]


リビングの隅


僕がこの家に来たのは、まだ体も小さくて、毛もふわふわだったころ。

見たことのないにおい、声、床。ちょっと怖かったけど、それよりうれしくて、しっぽがちぎれるほど振った。

リビングの隅にふかふかのクッションが置かれて、そこが僕の場所になった。


一番よく遊んでくれたのは、家の中で一番小さい人間だった。

僕と同じくらい元気で、走って、転がって、何度も笑った。

クッションのまわりにはおもちゃがどんどん増えて、まるで僕たちの秘密基地みたいだった。


でもある日、僕はやりすぎてしまった。

いつものように遊んでいたとき、はしゃぎすぎて、僕の歯が子どもの手にスパッと当たった。

子どもが泣いた。手から血が出た。

その瞬間、空気が変わった。大人たちが叫び、僕は抱き上げられ、リビングから連れ出された。


次の日から、僕の場所は庭になった。


そこにはクッションもおもちゃもなかった。

夏は熱いままへーへーするだけ、冬は毛布が湿って冷たかった。

雨の日は、ただじっとしている。誰も来ない。声も聞こえない。

餌はもらえたけど、それだけだった。


一日の中で人間と接するのは、散歩の時間だけ。

飼い主さんが無言でリードをつけて歩き出す。僕は何も言わずついていく。

走りたい気持ちはあるけれど、引っ張るとまた嫌われそうで、足並みを揃えた。


そんな日々が、二年つづいた。


ある日、リビングの窓が開いて、子どもが庭にやってきた。

僕は興奮したけど、吠えなかった。跳びつかなかった。

しっぽを振るだけにして、そっと、静かに近づいて、鼻先で手をつついた。

子どもが笑った。


それから少しずつ、一緒に遊ぶ時間が増えた。

ボールを投げてくれたり、小枝でひっぱりっこをしたり。

僕はもう、かみつかない。距離もわきまえる。

子どもも大きくなって、背が高くなっていた。


そしてある日、飼い主さんが言った。


「また、中に入れてあげようか」


僕は静かについていった。

リビングの隅には、前と同じようなクッションが置かれていた。

ずいぶん小さくなっていた。僕が大きくなったのか。

でも、前と違う。僕は今、ちゃんとわかっている。


この場所を守るには、どうすればいいか。



[俺の話]


はじまりの職場


大学を出て、俺は会社に入った。自分は役に立てる。そう思っていた。

配属されたのは営業企画。スピード感のある部署で、毎日が勝負だった。

提案、会議、客先訪問、資料作成。忙しさも楽しさだった。


「これは違うと思います」

「こうした方がインパクトがある」

上司にも、顧客にも、対等に意見をぶつけた。

自信があったし、成果も出ていた。


ある報告会。若手が発表した新規企画があまりに雑で、思わず手を挙げた。

「それじゃ通らない。去年の案件の蒸し返しだ」

部長がやんわりフォローしたが、それも否定した。

「そこまで庇う意味ありますか?価値のない案件ですよ」

「俺が彼に進めさせているんだ」

「・・・」


その日は終わった。でも、静かに波が立っていた。


一週間後、人事から呼び出された。

「異動ね。新規事業開発室。好きに企画してくれていいから」

そう言われて、大部屋の真ん中に机が与えられた。

位置的にいつも誰かの視界に入る。


最初の数ヶ月は、手を動かした。

世の中を調べ、資料を作り、何度も上に提案した。

でも、誰も見なかった。返事は、「今はタイミングじゃない」ばかり。


半年で気づいた。自分のポジションは「提案の場」じゃない。「放置の場」だった。


そのまま二年が過ぎた。

俺は静かになった。

誰とも争わず、意見も言わず、ただ、日々を流していた。


春のある日、実家に久しぶりに戻った。

玄関を開けてすぐ、ふと気づいた。

あの足音がしない。小さくて、元気で、爪が床にあたるちゃっちゃっという足音。


「わんこ、去年の冬にね」

母が言った。

俺は何も言えなかった。ただ、うなずいた。


リビングの隅には、昔と同じ場所にクッションだけが置かれていた。

あいつの匂いもそのままだったが、気配はもうなかった。


あいつがリビングに戻ってきた時を思い出した。

手を見れば、あいつがつけた傷跡がうっすら残っている。


子どもの頃、無邪気にじゃれあって、手をかまれた。

血が出て、泣いて、大人たちが騒いで。

あいつは、それから庭に出された。


あの日から、俺はなんとなく遠ざかっていた。

いつもぽつねんと庭に座っていた。

悲しそうでもあり達観したようでもあり。


リビングに戻ってきた日を思い出す。

成長した俺のそばに、また寄ってきてくれた。

飛びかかってこなかった。ただ、静かに、そっと。

自分のことをよく分かって、やさしくなっていた。


あいつは、ちゃんとリビングに帰ってきた。

何も言わず、落ち着いた顔で。

それを許されたんじゃなく、時間をかけて、変わったからだ。


涙が出てきた。

あんなに小さくて、ただ遊びたかっただけのやつが、

あんなにちゃんと、大人になってた。


なのに俺は――。


その夜、実家のソファで眠れずに考えた。

あいつは、もういない。でも教えてくれた。


静かになるのは、あきらめることじゃない。

守るべきものをわかって、噛みつかずに進むことなんだ。


俺も、もう一度ちゃんと歩こう。

吠えずに、走らずに。

でも、止まらずに。

静かな再出発に向けてチャンスを待とう。


そんなとき、突然元の部署に呼び戻された。


「異動だ」

たったそれだけ?とは思ったが、

部長のその声に、俺はただ「はい」と答えた。


戻って数週間。俺は目立たない位置で、ルーティンの仕事をしていた。

そんなある日、後輩が話しかけてきた。


「新規提案出せって言われてるんですけど、ちょっと見てもらえませんか」


出された資料は、情報が薄くて、論点もふらついていた。

でも、面白い切り口が一つ、混ざっていた。


「これ、どこまで調べた?」

「グーグルとエックスをしこたま見ました

 あとChatGPTとGrok

 完璧です」

俺は笑った。「じゃあまず、そこからだな」


数日間、俺は後輩と一緒に動いた。

関係部署に話を聞きに行き、外部データを洗い、過去事例も調べた。

伝手をたどってお客になりそうなところに話を聞き

比較的低料金の簡易コンサルも使った。

いろいろな人の話をまとめながら

夜遅くまでホワイトボードの前で案を練り直し、戦略を精緻にした。


「上に出す前に、根回ししよう」

部長をエレベーター前で捕まえて

謙虚な態度で簡単に事前の説明をした。


プレゼン当日、壇上に立った俺と後輩。

後輩が主に話し、俺がサポートする形で進めた。


質疑応答も分担し、過去の俺のような「刺す言葉」は使わなかった。

静かに、相手の意図を汲み取りながら必要なことだけを伝えた。


発表が終わると、部屋がしんとした。

部長が少し間を置いて言った。


「これ、前に進めよう」


後輩が笑っていた。俺も、少し笑った。


噛みつかなくても、前に進める。

静かに、でも確かに。


あの庭の時間は、無駄じゃなかった。

あいつの記憶が、今の俺を支えている。

これまた世の中であるあるかもしれません

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