第二章 旅路 その1
「お呼びでしょうか、ジョバンニ殿」
『溶けない雪山』の一室、贅が尽くされた豪奢な執務室に、飾り気のない武骨な青年が扉を開けて来訪する。常人であれば執務室に入ることを躊躇うほどに質素な服装を着ているギデオンだったが、さして気にも留めた様子のない無表情でジョバンニの前に遠慮なく歩み寄る。
マホガニー製の机を挟んで、ジョバンニは重々しく唇を開く。
「……フランシス逃亡の真偽を確かめるため西方に派遣した兵士から急報が入ったのでね。呼び立ててすまなかった」
余計な挨拶は抜きにして、単刀直入に告げた。
ギデオンの眼の色に、変化はなかった。
「なるほど、先程城内に駆け込んできた飛脚は、兵士達の使いでしたか……。それだけ急いで知らせて来たということは、我々にとっては残念な事態というわけですな」
ギデオンに言い当てられ、苦々しい笑みがジョバンニの乾いた唇に上る。
「……ああ。兵士達は西方の宿場町で見つけたそうだ。金色の髪、紺色の瞳、剣を持った兵士を相手に大胆不敵な啖呵を切った少年、そして傍に仕えていた女騎士。間違いなくフランシスと、その近衛であったテファーヌ=ド=ゲクランであろうな。やはり生き延びていたわけだ」
「そのご様子だと、フランシスを捕まえられなかったようですな」
「うむ、兵士は返り討ちにあい、逃げられてしまった。だが兵士の話では、どうやらフランシスはこの私に復讐せんと『溶けない雪山』を目指しているらしい。ならば、好都合。向こうからやって来るフランシスを捕らえればよい」
ジョバンニは頭の中で新たな算段を弾き出す。
フランシスが生きているならば、それはそれで都合がよかった。生け捕りにして、拷問にでもかけ、仮に形式的にでもジョバンニに継承権を譲ると宣言させればいい。元来の後継者から家督を譲渡されればジョバンニの君主としての正統性は揺るぎないものとなり、未だ従わない貴族連中も従わざるを得なくなる。
生き延びたフランシスをどこか拝竜教の修道院にでも入れ、世俗との関わりを断ち切らせれば、反ジョバンニの旗印となることも出来ない。ジョバンニの治世は完成される。
この奸計こそが最適解に思えた。
だがまだ一つ、障害が残っている。
「……しかし派遣した六名の兵士はどれも並外れた技量を持つ強者だったはず、それを返り討ちとは、テファーヌという騎士、女と言えども侮れませんな」
ギデオンは武人として少なからず興味を持ったのか、その口振りは感心しているようだった。
しかしジョバンニは首を横に振る。
「兵士達が負けたのは女騎士ではない。……鎧殻士師だ」
これこそが、ジョバンニにとって唯一の障害だった。
ギデオンの瞳に光が走る。顎を引き、微かに驚きを見せた。
「何とっ。……もう竜伐院が動き出したのですか。……世界の均衡を乱した私に処断が下されるのは覚悟の上でしたが、こんなにも素早いとは……。少々、侮っておりましたな」
「……悲報はそれだけではないぞ、ギデオン。我らに敵対した鎧殻士師は、血のように赤黒い鎧殻卵を所有しており、自らをサムエルと名乗ったそうだ。そなたの弟子であったと言っていたようだが、それは事実かね」
ギデオンの切れ長の双眸がまるで深呼吸をするようにゆっくりと見開かれる。一瞬の驚き、次いで歓喜の色が過った。
「間違いありません。サムエルは、私の弟子、およそ五年ほど前に出会い、それからしばらく共に旅をしていました。私の戦い方もよく知っている相手です。兵士達が敗れたのも仕方ありませんな」
「そうなるとフランシスと共に、そのサムエルとやらも我が敵になる、というわけか。……彼は強いのか?」
そう問いかけると、益々ギデオンの顔に喜色が増した。普段は無表情な人間が、これほどまに感情を露わにするのは不気味ですらあった。
「……強いです。彼は竜に襲われた村の唯一の生き残りでした。当時はまた十歳ばかりでしたが、その眼には力強い復讐心を宿らせていました。私も同じ境遇にありましたが、彼ほど強い目は持っておりませんでした。それ故に興味を持ち、五年ほどの歳月を共に過ごしたのです」
まるで自分のことのように語る。
「私の弟子とは言っても、私が何か直接指導したことはほとんどありません。サムエルは常に私の傍に立ち、私の戦い方を眺めていただけです。しかし視界に収めただけで、私の技量のほとんどを盗み覚えました。……あれはまさしく、鎧殻士師になるべくして生まれた傑物と呼んでよいでしょう」
いつになく饒舌なギデオン。
これ以上好き勝手に話をさせては日が暮れると判断し、片手をあげて制する。
「サムエルとやらの強さは理解した。お主は勝てるのか?」
重要なのはそこである。
しかしジョバンニの期待に反して、ギデオンは飄々と言う。
「勝負は時の運。刃を交えて見なければ分かりません」
これだから武人というものは、とジョバンニは苦笑した。
「何にせよ。フランシスとサムエルが、この『溶けない雪山』を目指し、我ら二人の首を獲らんとしていることは事実だ。彼らの人相を城下町の門番にも伝え、警戒の網を敷かなければならん。サムエルの人相はお主しか知らんのでな、協力してもらうぞ」
「承知いたしました。では早速、城下町の門番に伝えてまいりましょう。……ところで、その捕縛した後のことですが、サムエルと一戦交えることをお許しいただけるでしょうか?」
一礼した後に、持ち上げられたギデオンの顔には、狂気の色が宿っていた。竜との死闘だけに飽き足らず、己の弟子とも戦うことを仰望するギデオンは、まさしく狂人の風体である。
伽藍洞と思われたギデオンの心に輝く、唯一の人間らしい感情の灯をようやく見つけることができたジョバンニだったが、安心するどころか恐怖を覚えた。深淵を覗き込んだ故に、深淵に潜む悪魔と目を合わせてしまったような心持だった。
「好きに、するがよい」
そう、告げざるを得ない。
ギデオンは微かに口端を持ち上げ、答える。
「有難き幸せ」




