断章Ⅰ 神は、君に、どのような者であれと命じたのか。
先陣を切るギデオンの背中、そこに背負われた巨大な革袋を目印にして、サムエルは必死にその後を追った。鎧殻卵が納められ丸々と肥えている革袋は目で追いやすく、見失うことはない。だが歩くほどに山岳の傾斜が険しくなるため、疲労が蓄積していく。しかも足元には倒木が幾重にも折り重なって横たわっており、乗り越えるのも一苦労だ。呼吸が荒くなり、頬を伝う汗の量も増えていく。革袋が、ゆっくりと着実に遠ざかっていた。
「どうした? 少し休むか?」
ギデオンが足を止め、汗一つ流さない顔で振り返った。軽く揺れた黒い前髪から覗く双眼は、最初に見た時と同様に底なし沼のように淀んでいる。ずっと見続けていたら、吸い込まれて二度と視線を外すことが出来なくなる、そんな気がした。
「いいっ、大丈夫っ」
サムエルは頭を振りながら乱暴に応え、足腰に力を入れ直した。
こうやって身体を苛めていると、故郷を竜に焼き払われた出来事が遠い昔のことのように思えるが、実際にはまだ数日と経っていない。
ギデオンと竜の対決は、まさに死闘と呼ぶに相応しく、その光景は未だサムエルの瞼の裏に焼き付いている。
互いに死力を尽くした戦い。一方が生きている限り、一方は生きられないと両者が悟った上での争いは、行商人の噂話のように華々しいものでは無かった。煤と土埃と返り血に塗れた、目を覆いたくなるほどの泥臭い戦いだった。
ギデオンが戦斧を竜に突き立てても、竜はその巨体から考えられない速さで身を捩って、即座に反撃に転じる。巨木のような竜の尾が振るわれ、ギデオンの身体を薙ぎ払い、鎧の一部を砕く。
そんな一進一退の攻防の末に、最後に立っていたのがギデオンだった。サムエルが隣村の行商人から聞いた、竜を殺す鎧の騎士の話とはまるで違っていた。命辛々にようやく、勝利をもぎ取った、そんな感じだった。
鎧を脱いだギデオンを見て、サムエルは更に驚いた。
もっと屈強な身体つきの男が出てくるかと思ったが、現れたのは精悍な青年だった。しなやかな筋肉質を持っているが、それでも重装甲の鎧を着込みながら軽業師も顔負けの動きが出来るとは想像もできない。
そして何より、その目。
竜と対峙するほどの勇気と、生死をかけた戦いを制するほど精神力を持っているのだから、命への執念にギラギラと燃える瞳が見えるのではないか、と勝手に予想していた。
しかしギデオンの目は、何の執着心も持ち合わせていない死人のそれだ。
ギデオンはとうの昔に死んでいて、その死体が勝手に動いているのではないのかと、そう思わせるほどの無感情。
「……どうして、そんなに強いんですか……?」
黒炭と化した村の焼け跡の中、ギデオンに駆け寄ったサムエルは開口一番に聞いた。命を助けてくれた感謝よりも、なぜもっと早く来られなかったのかと憤るよりも、ただ純粋に疑問をぶつけた。
「……知りたいか?」
ギデオンは卵の形状となった鎧を革袋に包みながら、やはり何の感情も宿らない瞳でサムエルを見つめながら、静かに質問を返してきた。
首肯する。
「ならば付いて来い。元より、私の目的はこの先にある」
革袋を背負ったギデオンがそう言って、山を目指して歩き出す。
時折、唸り声のような山鳴りを起こした、その霊峰。竜が眠る山として、拝竜教の信徒である村人からは信仰の対象としてきた。そのため立ち入りは固く禁止されており、当然、サムエルも足を踏み入れたことはなかった。竜のいびきが発せられる山は、どこか恐ろしく人を遠ざける神聖な領域としての風格を放っている。
ギデオンはそこに向かうと言う。
微かに、サムエルの足が竦む。
「お前の村を潰した竜は、あの山から降りて来た。見るがいい、山からこの村に向かって木々が折れ、道となっているだろう? あそこを通って竜はここにやって来たのだ」
ギデオンはサムエルに向かって淡々と言葉を続けた。
ギデオンの言う通り、村の近辺に広がっていた森の一部が押し倒され、山頂まで続くうねりのある一本の道を形成していた。獣道ならぬ、竜道とでも言うべきだろうか。
「この道は、お前の村を潰した竜がいた巣穴へ続いている。そこで面白いものが見えるかもしれんぞ」
そう言うギデオンの口調には愉快さの欠片もなく、事務的に語りかけているようであった。
竜の巣穴。
一体どんなところだろうか。
拝竜教への信心が深いこの村では、竜に関する神話や御伽噺の言い伝えは豊富だが、生態に関する知識はまるでなかった。サムエルが純粋な興味からそうしたことを聞こうとしても、村人は一様に困った顔をするばかりだった。竜の生態を知ることは、神の正体を暴こうとする冒涜的な行為と捉えられ、禁じられていた。
禁忌とされていた知識を知りたい、という純粋な知識欲もあって、サムエルは山への一歩を踏み出したのだった。
あれから獣道、いや竜道を遡ること数日が経ち。ギデオンとサムエルは山頂付近にまで登り詰め、今に至る。
サムエルが足を引っ張らなければ、きっとギデオンは一日もかけずにこの山を登り切っていただろう。ギデオンの涼しげな顔を見れば、そんなことくらいサムエルにも分かった。
ギデオンの常人離れした力の秘密。それを知るためにも、サムエルは決して諦めなかった。
無我夢中で足を動かしていると、行く手を阻んでいた木々の姿が急に見えなくなった。倒木も、屹立している生きた木々もなく、頭上を覆っていた樹冠が消えたため、空が広く見える。雲一つない、快晴だった。
心なしか、空気も冷たい。喉に入る度に、チクリと針が刺さるような痛みが奔る。
「よくやった、到着だ」
ギデオンが足を止める。
サムエルは疲労困憊の身体を引き摺るようにして、ギデオンの背後ではなく横に立った。
「……これは……」
森林限界を超えたことで周囲からは樹林の姿が消え、代わりに背の低い雑草や濃緑色の地衣類が地面に繁茂している。ゴツゴツとした岩肌が剥き出しとなった急峻な崖が、壁のように聳え立っていた。恐らくはこの崖を登れば、山の頂に立つことが出来るのだろうが、ギデオンの目的は山の踏破ではない。
切り立った崖にぽっかりと口を開いた伽藍堂の洞窟がある。行商人の馬車が四台は並んで入れるほどに巨大な穴。その奥は暗闇で閉ざされている。直感的にこれが竜の巣穴と理解した。
サムエルの喉が恐怖でゴクリと鳴った。全身に伸し掛かっていた疲労感など、あっという間に吹き飛んでしまう。
「……竜の生態は、未だに解明されていないことも多い」
ギデオンが躊躇いもなく、大きく開いた巣穴の口に入って行く。その後を、慌てて追った。
「解明されている数少ないことの一つは、竜は熊のような周期を持って行動している、ということだ」
巣穴の影に足を踏み入れると、独り言のように語られるギデオンの解説が反響した。山彦のように残響を生みながら、幾重にも声が重奏する。
「……熊?」
「冬ごもりだ。……熊は秋にたらふく食事をし、冬の間は眠って過ごす。竜も同じだ。最もその周期は、熊のような季節ごとではなく、年単位だが。……個体差もあるが、大体十年から数十年の間眠り、一度目が覚めると近場の生きとし生ける者全てを食料とする。そしてまた、数十年眠るというわけだ」
「……じゃあ、山から聞こえていた山鳴りは、本当に竜のいびきだったんだ……」
サムエルは呟きながら、竜の巣穴を見回す。
これほど巨大な洞窟が自然に出来るとは考えにくいため、竜が自ら掘ったのだろう。あの巨大な足と爪で、熊がそうするように穴を掘ったのかもしれない。一体、いつ掘られたのか。数年やそこらで作れるとは思えない。ならば遥か昔、ひょっとしたら山の麓に人間が集落を作る以前から存在していたのかもしれない。
地面に散乱する小石を避けて、足の置き場を探る。
「竜はこうした山頂や湖の畔など、人だけではなく野生動物すら住みにくい僻地に巣穴を構えている。先程、竜は熊と似ていると言ったが、必ずしもそうではない部分もある。……例えば、雌雄の区別がないことがそうだ。恐らく竜は一人で子を成して、子を育てる。子を産む時期については、まだ分からんが……」
そう呟いたギデオンが急に足を止め、それに合わせてサムエルも停止した。ギデオンを見上げると、その淀んだ瞳が穴の奥を睨みつけていた。
「ふむ、当たりだったな。見ろ」
ギデオンが顎でしゃくった先に視線をやった。
太陽の光がほとんど届かないはずの巣穴の最奥部が、なぜか赤く光っていた。松明もないのに輝くその赤い光点は暗闇の中で明滅を繰り返している。しかもその周期は少しずつ短くなっている。
ドクンッ、ドクンッ。サムエルの心臓が胸骨を叩く音が聞こえる。五月蠅いほどだ。耳に煩わしい。緊張が抑えられない。
静かにさせるつもりで、右手で胸を掴む。少しでも心臓の鼓動音を抑えようとした。
しかし、何かおかしい。
手のひらに伝わる心臓の鼓動は、確かにこれまでに感じたことがないほどに強く激しいものだった。しかし耳朶を叩くほどの音ではない。巣穴の中に響き渡る太鼓のような音は、サムエルの心臓から発せられたものではなかった。
まさかと目を見開き、眼前に光る点を眺めた。
そう、この心臓の鼓動のような音は、あの光から漏れている。
不気味に明滅する、赤黒い光。それを放つ正体は……。
「――ッ」
瞬間に理解し、喉まで出かかった悲鳴を唾液と一緒に呑み込む。
言葉を失ったサムエルの代わりに、ギデオンが静かに正体を告げる。
「今にも孵りそうではないか。これは君にとっては幸運だ。いや、もはや運命と呼ぶべきかもしれんな。……少年よ。あれが竜を狩る者、鎧殻士師が纏う鎧の素材。……竜の卵だ」




