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第四章 死闘 その4

 『溶けない雪山』の斜面を登る赤と黒の線は尖塔の途中で三度交差し、閃光を散らしながら、更に上へと駆け上がった。ついにその勢いは頂上に到達する。流石の鎧殻士師らも尖塔の壁という足掛かりを失ったため、それ以上の高みには届かない。これより先は、翼を持つ竜でなければ辿り着けない天空の領域だ。

 よって、二人は足場の狭い尖塔の頂上に降り立ち、向かい合う。尖塔の屋根は正方形の板の上に円錐を乗せたような形状をしている。二人は正方形の対角線上の頂点に立っているため、その間には一角獣の角のような円錐があった。

 そしてその円錐の先端には、パナリオン公国の国章である竜が描かれた旗が、地上よりも幾分強い風を受けてはためている。

 強風に煽られる旗に描かれた竜は、まるで生きているかのように揺らめていた。


「……楽しいなあ、サムエル。生きているとは、まさしくこういうことだ……。こういう戦いこそ、私が望んでいたものだ。……ああ、私は、今、ようやく生きていることを実感できる」


 兜によって表情を覆い隠すギデオンが、熱い吐息を混じらせながらと呟いた。

 今まで聞いたことがないほどに、ギデオンの声には感情が込められていた。空っぽだったギデオンの心に、今、何かが満ち満ちている。


「……初めてお前を見た時から、ずっと、この日を待ち望んでいた。燃え盛る村の中で、お前の眼を見つけてから、ずっと……」


 サムエルも、ギデオンの空虚な瞳が自分を見つめる時だけは、何かを待望するような光を放っていることに気付いていた。師弟関係が続いた五年の間、日に日に剣の腕を磨いていく自分を物を言わずに見守っていたギデオンの姿を知っていた。

 恐らく、自分とギデオンは似たような境遇だったのだろう。竜の炎に全てを奪われた。ただ自分には復讐心が残り、ギデオンには何も残らなかった。空っぽだったギデオンは満たされる何かを求め続け、ようやく見出したのが戦いの喜びだった。

 きっと、それだけのことだ。何かが掛け違っていれば、サムエルもまたギデオンと同じようになっていたのかもしれない。あるいは、ギデオンが傍にいてくれたからこそ、自分はギデオンのようにならなかったのかもしれない。

 せめてギデオンが信仰心でも持っていれば、このような狂気に陥ることはなかったのかもしれない。拝竜教の教義こそを是とし、それを戒めとして生きていくことも出来ただろう。

 復讐心も信仰心も持たないギデオンは、憐れむに値する男だ。ならば、介錯は自分が努めなければならなない。

 覚悟を新たに、剣を握り直す。

 自分の戦い方は全てギデオンから学んだもの。紛い物に過ぎない。だから常に先を読まれ、攻め手に欠けている。この男を倒すには、決定的な何かが足りていない。

 ではどうするかと自問する。

 答えは、嫌でも視界に入る旗に描かれた竜が言う。拝竜教を国教と定めていることを標榜する、竜の国章が叫ぶ。

『自らの殻を破れ』

 それはフランシスの声だった。単なる幻聴だ。昨晩、宿屋の一室で掛けられた言葉が、竜の口を借りて語られただけのこと。

 そう、結局、それしかない。今までの自分の剣技がギデオンから盗んだものだとしたら、そんな自分自身を打ち破らなければならない。自明の理である。

 自分が諭したはずの言葉を、フランシスによって教えられるという皮肉に、思わず兜の下で唇を歪めた。


「……何だ、その、構えは?」


 ギデオンが驚きを滲ませた声で問う。

 サムエルは剣を握った右手を脇の下に持って行き、空の左手を前に翳す、刺突の構えを取っていた。


「これは、あんたも見たことがない構えだろう? お貴族様の試合で使われる、主に突きを主体にした構えだ」


 わざわざ言葉にして教える。

 無論、そんなことをせずとも、百戦錬磨のギデオンならば一目で看破できるだろう。動きが直線的で読みやすい、所詮は貴族の道楽と言っても過言ではない構え。

 しかし、だからこそギデオンには有効だ。獣らしく不規則な動きをする竜との戦いに明け暮れていた鎧殻士師にとって、気風が高く直線的な人間らしい攻撃こそが最も不慣れである。

 ギデオンの白銀の兜から歯ぎしりの音が鳴った。

 真剣勝負の舞台で貴族の剣術を持ち出されて侮辱されたと感じたのかもしれない。どうであろうと、ギデオンの心を僅かでも乱すことが出来たのならば成功と言える。しかし無論、このような小細工だけで勝てる程甘くない事は理解している。

 むしろ、戦いはここからである。


「……どのような戯れをしようと、私はお前と全力で戦うのみだ。加減は出来ぬぞ」


 ギデオンが戦斧を持ち上げる。天に向かって高々と振り上げられた戦斧の平たい刃は眩く煌めき、朝焼けの空に半月のように刻まれた。


「真剣の立ち合いは俺も望むところだ。一度、あんたと思いっ切りやり合いたかった」


 サムエルもまた、刺突の構えを解かずに答えた。

 嵐の前の、一瞬の静けさ。

 そして一陣の旋風が国旗を一段と激しく靡かせた瞬間、二人は寸分の差もなく同時に動いた。

 サムエルが狙うは、兜と胴体の鎧の繋ぎ目。紙一重の僅かな間隙だ。一般的な兵士が纏う板金鎧は全身を金属の板で覆っているため、首や脇などの関節部分も保護されている。だがその分重量があり、機動性は低い。対して鎧殻卵の鎧は、多数の部品から構成されており、軽量で関節部分の機動性が高い反面、そこが弱点でもある。

 故に、そこを突く。

 言うまでもなく鎧殻卵の弱点などギデオンは把握済み、易々と喉を突かせはしないだろう。

 だからこそ、この一手を用いる。

 ギデオンの不意を打ち、先んずるために。

 そして、自分の殻を破るために。


「――――鎧殻、孵卵ッ!」


 既に戦闘の前に唱え終えている文言。

 鎧殻卵は既に孵り、サムエルの全身を覆ってる。

 だがあえて、再び、この言葉を叫ぶ。

 自分の殻を解き放つために。

 その時、サムエルの全身から、鎧が弾け飛ぶ。爆裂するかのように四散する無数の鎧は、目くらましであり、攻撃である。赤黒い篭手が、兜が、目庇が、面甲が、数多の鎧の部品が空に撒かれ、その勢いを周囲に撒き散らした。それは赤黒い花弁が舞い散る一幕のようにも映る。鎧殻卵の一部は塔の屋根に衝突し壁面を砕き、また一部はギデオンに襲い掛かった。

 自らの殻を破り、再びこの世に生まれ孵ったサムエルは、宙を飛ぶ卵殻を率いながら、生身一貫で白銀のギデオンに肉薄する。ただ、刺突に構えた剣を携えて。


「……な、ッ、にッ」


 ギデオンの声が驚愕の色に染まる。白銀の兜までもが愕然と目を見開き、慄くように見えた。

 鎧を解き、身軽になったサムエルは、より素早く、影を追い越すほどに迫る。

 白銀の鎧が視界に占める割合が大きくなる。

 突き出した剣の切っ先は、まるで吸い込まれるように白銀の鎧の首元に向かっていた。

 その時、サムエルの鎧の爆散を受けて破損した尖塔の屋根から、竜の描かれた旗が風に乗って飛び去った。鎧殻士師の戦いを見届けた竜が、その場を立ち去るような光景。誰もそれを目にすることはなく、国旗は風に吹かれて揺らめきながら地表へと舞い降りる。


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