第一章 国盗り その1
パナリオン公国の首都には、白亜に彩られた王城がある。百年前、この大陸を統一していた王国の要害として建立された城郭であり、決して自国の民の血で濡らさないという決意を表すため、城壁全体が真白に塗られたという逸話がある。
事実、この城は難攻不落の伝説を持っており、統一王国の滅亡の原因とされる内乱が起きた際にも戦火を一切寄せ付けず、白い外壁が民の血で赤く染まることはなかった。城は統一王国が滅んだ後、この地に勃興したパナリオン公国に接収され、現在は公国の象徴となっており、国内外から『溶けない雪山』と賞される。
城の壁が白いのは平和の証とされ、パナリオン公国の誉れでもあった。
――今日までは。
「……おぉ、『溶けない雪山』が燃えている……」
「炎で城壁が赤く染まっておる。あり得ない、そんなことが……」
『溶けない雪山』を取り囲む城下町は、屋外に出た多くの人影で黒く染まっていた。彼らの視線が注ぐ先は、燃え盛る『溶けない雪山』であった。伝説の崩壊を目撃した彼らの反応は様々である。呆然と立ち尽くす者、火の手を消すために水が入った桶を持って城に向かう者、逃げ惑う者。彼らに共通しているのは、顔から血の気が引いているというただ一点のみ。
『溶けない雪山』の周囲で巻き起こった百年ぶりの騒乱は、パナリオン公国崩壊の予感を覚えさせた。
そんな逃げ惑う群衆の中に、フランシス=ディエル=パナリオンはいた。乳きょうだいである女騎士テファーヌ=デュ=ゲクランが駆る栗毛色の駿馬に跨っていた。フランシスはテファーヌの細い腰に手を回してしがみ付き、しかし顔だけは背後の『溶けない雪山』に向ける。
高貴な産まれの証左である金髪を隠すため、鳶色を外套を深く被っている。フードの奥に光る紺碧の瞳は炎上する城を映していた。
「父上っ、兄上っ……」
まだ幼い少年のような声が小さく漏れる。
フランシスは未だ齢十四だったが、城に残した父と兄に向かって声を張り上げることの愚行を理解していた。
反乱を企てた叔父のジョバンニ=ディエル=パナリオンの手の者が、どこに潜んでいるかも分からないのだから。
フランシスの父親であるパナリオン公爵の誕生日を祝うと称して、ジョバンニが数十騎の手勢と共に入城したのがつい先刻前のこととは、フランシスには信じられなかった。ほんの僅かな時間で運命が大きく変わってしまったことが、未だに受け入れられない。
家督を継ぐのは嫡男のみという拝竜教の教義のため、弟のジョバンニが公爵になることを許されず、そのことを恨んで密かな野心を抱いていることにはパナリオン公爵も感づいていた。
それ故に警戒を怠ったことはなく、今回入城を許可したのも、ジョバンニの引き連れた兵士が護衛の数十騎のみだった。『溶けない雪山』には数千の近衛兵が常在しており、仮にジョバンニが僅かな手勢と共に反旗を翻したとしても簡単に鎮圧できると踏んでいた。
しかし、そうではなかった。
ジョバンニが引き連れた護衛の騎士の中には、一人の鎧殻士師が潜んでいた。城門が開かれた途端、一斉に蜂起したジョバンニの手勢と鎧殻士師を前に、近衛兵はなす術もなかった。
鎧殻士師は竜を殺すことを生業とした、全身を鎧で包んだ武士だ。彼らは『竜伐院』と自称するギルドを組織し、大陸の各所に支部を持ち特定の国家には所属していない。人知を超えた力を持ちながら、国家間の戦争などの人間同士に争いには干渉しないことを標榜し、あくまで人命を守るため竜を殺すことだけを目的としている集団である。
他国には、勇敢に竜に立ち向かう彼らを英雄視するところもあるが、拝竜教を国教とするパナリオン公国では、竜を殺める鎧殻士師と竜伐院を異端者として公式に排撃していた。
仮にもパナリオン公国の貴族であるジョバンニが異端者である鎧殻士師の手を借りたこと。戦争への不干渉を貫く鎧殻士師がジョバンニの反乱に手を貸したこと。想定外の二つの禁忌によって、この弑逆は成功してしまった。
これは、拝竜教への冒涜でもある。
叔父と鎧殻士師、二人の異端者が我が物顔で城内を歩き回っているのかと思うと、フランシスの腸は煮えくり返った。
フランシスは下唇を強く噛み、小さく遠くなっていく『溶けない雪山』を見つめる。
『溶けない雪山』を構成する三つの尖塔の内の一つ、最も高い中央の塔の先端には国旗が掲げられている。パナリオン公爵家の守り神であり、パナリオン公国の国章である竜の姿が描かれた旗は、まるで昇ってくる炎から逃れようとしているかのように翻っていた。
「……鎧殻士師……おのれ……。異端者め……」
フランシスには認めがたいことだが、鎧殻士師の腕前は竜を屠るという噂通りであった。
パナリオン公国の近衛兵が何十何百と集まろうとも、鎧殻士師の一振りによって屍の山が築かれた。それだけの武人が一人いればジョバンニには十分だったのだ。
脳裏に、あの姿が思い起こされる。
神をも恐れぬ傲慢さを持ち、剛腕を振るって屍山血河の覇者となった、その鎧の主。夥しい量の返り血を浴びながらも、その鎧の色は決して霞むことはなく、戦場の中で一番星のように輝いていた。
炎を照り返す白銀の瞬きは、憎らしいほど眩かった。
彼の者の両手には神殺しのための武器があり、羽虫を叩き落すかのように軽々と振り回して、近衛兵を板金鎧ごと叩き潰していた。
金属がガラス細工のような脆さで破壊され、その下にあった兵士の肉体が砕け散った。腐った果実が地面に落ちた時に発する、汁気を帯びたような音がフランシスの耳から離れない。
あの武器で神である竜を殺しただけでは飽き足らす、拝竜教の敬虔なる信徒達をも殺したのだと思うと、憎悪の火種が益々盛んとなった。
白銀の鎧に身を包み、戦斧を握った、あの鎧殻士師。そしてその傍らで高笑いする叔父ジョバンニの姿が想起されると、『溶けない雪山』を焦がす炎にも負けない憎悪の大火が、フランシスの胸中で燃ゆる。
「……必ず。このままでは……。せめて、一矢だけでも、報いて見せる……」




