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第三章 遺児 その3

 サムエルが馬宿を出て行く足音を聞き終えてから、フランシスはゆっくりと瞼を開き、そっと立ち上がって身体に纏わりつく干し草を払った。パラパラと足元に落ちていく。

 村を襲った竜を殺しに行くのだろうと察してはいたが、制止することが出来なかった。拝竜教の教徒としてあるまじき行為であったかもしれないが、フランシスの頭の中にはサムエルの叱責の言葉が渦巻いていたため、とても引き留められなかった。

 サムエルに打たれた頬を手で触れた。すでに痛みは引いているはずのなのに、未だに、じん、と熱を帯びているようだ。

 誰かから頬を叩かれ、一喝されたのは初めてのことだった。『溶けない雪山』でフランシスをそのように扱う人物は誰一人としていなかった。

 故に、サムエルの言葉を引き摺ってしまう。

 命あっての物種、自分は決して間違ったことは言っていないと思っている。

 今更嘆いたところで何も変わらないのだから、少しでも前を向くべきだ。

 ただ少しでも村人を元気づけ、励ましたかった。それだけのことなのに。

 無論、フランシスとて自分の食すパンや干し肉が、神の加護によって降って涌いたものではなく、百姓の苦役によって作られているということぐらい理解している。貴族とは、そうした百姓の汗によって支えられているということも。

 だからこそ、落胆する百姓達に声をかけて激励するのは貴族の義務だと思った。

 無残な灰の山と化した牛舎や種籾の倉庫の周りで嘆く村人の姿が思い起こされる。あの姿が瞼の裏に張り付き、あの怨嗟の声は耳にこびり付いて離れない。思い出すだけで胸が苦しくなり、掻き毟りたくなる。

 やはり悲嘆にくれる村人の前で、余計なことを言うべきではなかったのだろうか。言葉にしない方が、慰めになる事もあるのだろうか。

 結局、自分は民の苦労を知識として知っていても、肌で感じたことはなかったのだ。『溶けない雪山』の山頂で呑気に暮らし、麓で何が行われているかなど伝聞で知るだけで、自分の目と耳で学ぼうとはしなかった。

 そんな箱入りの生活に、サムエルは腹を立てたのだろう。

 あの時のサムエルの形相を思い出し、怖くなる。

 本気の怒気というものが、あれほど恐ろしいとは誰も教えてくれなかった。

 いや、他人の怒りだけではない。この世の中には自分の知らないことで満ち満ちている。

 城の中では決して知り得なかったことばかりだ。

 正直なところ、恐怖はある。自分が信じていた常識や理念というものが、音を立てて崩れていくのではないか。それは、これまでもこれからも当たり前に存在すると思っていた大地が、突然消失してしまうことと同義だ。

 そんなことを考えてしまうと、眠れるはずもなかった。

 サムエルの後を追うようにして、静かに眠るテファーヌを残して馬宿を出た。


 満天の星空を眺めて目を細める。

 『溶けない雪山』の頂上にいた時よりもずっと低い場所に立っているはずなのに、あの時よりも星を近くに感じるのはなぜだろう。

 空を見上げなら歩いていると、水音が耳朶を打った。

 そうか、この近くに小川が流れているのだ。田畑の灌漑用水や生活用水として使われているのだろう。

 そのことに気付くと、無性に全身が痒くなった。馬宿の干し草に身体を横たえていたせいだろうか、あるいは長い野外生活のせいで虫に食われたのだろうか。一度、痒みを意識してしまうと余計に掻き毟りたくなり、冷たい川の水で全身を洗いたいという衝動に突き動かされる。

 村は寝静まっているようで、泣き声も聞こえない。これならば誰かに見つかる心配もないだろう。

 フランシスは我慢できなくなり、村から少し離れた小川の下流に向かう。

 穏やかな清流の川は、夜空の月を映し出す鏡のように美しく、吸い込まれそうだった。

 何度か、周囲の様子を伺う。

 村からは離れているし、竜が住まうという樹海の入口にほど近いここならば、誰かが通りすがるという可能性もないはずだ。

 自分を納得させるように言い聞かせ、女物の衣服を脱ぎ捨てた。着慣れていない服装のせいで全身が窮屈だった。頭の白頭巾も脱いで、自慢の金髪を月下に晒す。

 裸になってから、ゆっくりと川に入り込んだ。ジャボジャボと足が沈んでいき、膝のあたりで止まった。両手で水を掬い上げて肩に掛ける。ぱしゃんっ。


「ひやっ」


 思った以上に冷たく、変な声が出てしまった。だが痒みがすっと引いていくので心地よい。

 何度か肩や背中にバシャバシャと水をかけていたが、段々億劫になり、ついには全身を川に横たえた。肩まで水に浸かる。冷たい、だが、長旅の疲れで火照った身体には丁度良かった。

 しばらく、何も考えずに、川水に裸体を晒し続けた。

 全身の体温がゆっくりと下がっていくのを感じる。

 だがサムエルに打たれた頬だけは相変わらず熱かった。


「…………本当に、あいつは……」


 水に濡れた指で頬に触れながら、またサムエルのことを考える。

 何もかもが自分と違う少年。宗教観も、剣の腕前も、生き方も、立場も。そんな人間と出会ったのは初めてのことだ。喧嘩をすることも多いが、それでも、彼のことは買っているつもりだった。無論、口にはしないが。

 最初こそ、叔父に加担した鎧殻士師の力を借りるなど論外と思っていたが、あの技量には利用価値があると認めざるを得ない。

 鎧殻士師としての技量はもちろんのこと、世界を放浪しているだけのことはあり、知識量も多く幅も広い。そんなサムエルのことを信頼し始めている一方で、恐ろしくなることもある。

 どこかサムエルには危ういところがある。竜や拝竜教の話をすると、時折ゾッとするほどに憎悪に燃えた瞳をする。未だ、竜の炎で燃え盛る故郷の村の渦中に立っているかのように。サムエルの瞳を覗き込むと、自分よりもよっぽど復讐に憑りつかれているように思えるのだった。

 濡れた前髪から水滴が垂れ、川の水面に波紋を作った。ぴちょん。

 その音と同時に、目の前に広がる樹海の茂みがガサガサッと揺れて、そして、ぬっと人影が現れた。まるで散歩から帰って来たかのような軽い足取りで、その人物は川辺に立つと、フランシスと視線を通わせた。

 互いに、しばし無言。


「……おう、水浴びか?」


 サムエルが片手をあげて問いかける。


「~~~~~~ッ」


 フランシスは声にならない声を上げて、弾かれるように立ち上がった。その時の勢いにより、今まで穏やかだった川の水面が激しく乱れて、ガバンッと大きな水音が夜の静寂を叩く。


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