第三章 遺児 その1
今、サムエル達は街道を少し外れた林道を進んでいた。これがとんだ悪路であり、先程から車輪が大きめの石を踏んづけて、何度も馬車が左右に激しく揺れている。尻が宙に浮いてはすぐに床にストンと落ちることを繰り返しているせいで流石に痛くなってきた。
林道に広がる木々の枝葉に天幕が引っ掛かり、布の擦れる音が馬車の中で響き渡る。
なぜ整備された街道から外れ、このような道を進んでいるのかと言うと、フランシスが道すがらに炊煙を見つけてしまったたせいである。
街道の外れの林の奥から白い筋のような煙がいくつも立ち並び、まるで手招きをするように揺れていた。その煙が全て夕餉の支度により立ち昇ったものとすればそれなりに大きな村のようで、宿場町の可能性があった。
そのことをサムエルがうっかりフランシスに告げてしまったのが間違いであり、
「よし、ならば今晩はそこに泊まろう」
とフランシスが手を打って決定する。
出来る限り人目につかない旅路を希望していたサムエルだったが、フランシスは頑として譲らず、たまにはちゃんとしたベッドで寝なければ死んでしまうとまで主張した。
結局、サムエルが折れ、絶対に女装を解かないという条件付きで宿場町を目指すことにしたのである。
「まさか、ここまで道が酷いとは思わなかったな。こんな状態では仮に宿場町だったとしても旅人は寄り付かず、さほど繁盛していないだろう。やはりこっちに来たのは失敗だったな」
馬車の床に尻を叩かれたサムエルは口を尖らせた。
すかさず馬の手綱を握るフランシスから怒りが飛ぶ。
「黙っていろっ。まともな寝屋で良質な眠りを取ることの重要さを知らん根無し草め。これから首都に乗り込む直前という大事な時期だからこそ、しっかりと眠るべきなのだ」
その主張自体はそう的を外したものではないため、サムエルも否定するつもりはない。だがやはりもう少し慎重さを抱くべきである。貴族の嫡男とは言え、常識を知らないのもいい加減にして欲しいところだ。
沸々と沸く苛立ちを抑えるにも限界に達した頃、ようやく馬車が林道を抜けた。空を覆っていた林冠の屋根が消えて、星空が顔を見せる。ガタガタと揺れていた馬車も落ち着きを取り戻していた。
三人共同時に安堵の息を吐き、そして天幕の外を見回す。
「おお、煙の方向はあっちだっ。村も見えるぞっ」
フランシスが歓声を上げて、手綱をピシリと振るった。
確かに、馬の鼻先の方角には白い煙が立ち上っており、その足元には村があった。しかし予想よりも建物の数が少なく、とても宿場町とは思えない。先程見えた炊煙の数と建物の数が合わないことが不自然だった。
サムエルは、すぐに異変に気付いた。
「フランシスッ、止めろっ」
「な、何をするかっ!」
サムエルはフランシスの手から手綱を奪い取って引っ張り、馬の足を止めた。急に馬車が制動したことで、前方に身体が倒れ込みそうになった。
「……あの煙は、炊煙じゃない。火事が鎮火した煙だっ」
サムエルはそう言い捨てて馬車から飛び降り、颯のような速度で駆けだした。二人の制止の声を振り切って、村の門を潜り中に潜入する。
その瞬間、嗅ぎ慣れた、嫌な臭いが鼻につく。眼前に広がる光景も、お馴染みのものだった。炭化した家屋の残骸からは、まるで魂が抜け去っていくかのように白い煙が上がっている。炭の山は肉の焼け焦げた臭いを漂わせている。焼死体こそ見えないが、生物が炭の中で焼け死んだことは間違いない。そして村の中心地の空き地で嘆き悲しむ群衆の黒い影があった。怨嗟と泣き声の協奏曲が村全体を覆っている。
サムエル達が見た建物は、この村の唯一の生き残り部分だったようだ。生存した建物の奥には、黒と灰の残骸が広がっていた。恐らく十棟は燃え尽きたと考えられる。単なる火事が原因ではないことは一目瞭然だった。
「……あ、ああ、旅の御方……これはどうも、……お見苦しいところを……」
無残な姿の建物を眺めていた群衆の内の一人、白髪頭の老人がサムエルに気付くと、杖で身体を支えつつゆっくりと歩み寄って来た。
「……近くの街道を進んでいたところ、この煙が見えたもので立ち寄った。……ご老人、これは一体……」
老人はいくつか歯の欠けた口を見せて、力なく笑った。
「ははっ。火の不始末であれば、どれほど救われたであろうな。……竜じゃ、竜のお怒りを買ってしまったのじゃよ」
やはりそうか。
思わず、奥歯を噛み締めた。ゴリッと音が鳴った。両手で憎悪を固く握りしめる。手のひらに爪が食い込む。だがそんなことでは、膨れ上がる感情を抑え切れない。
またしても、無辜な民を襲ったのか、お前は。自身と神と崇める敬虔な人達を踏みにじったのか。
心中で、罵詈雑言を放つ。
「怪我人はどうか?」
「おお、心配して頂いて申し訳ない。幸運なことに、誰一人として怪我した者はいなかった。偶然、村の者総出で明日の聖火祭の薪を集めていたものでな。帰ってきたらこの通りだったわけよ。お蔭で火事に巻き込まれたり、竜に食われた者はおらんかった」
老人の言葉通り、村の中央で悲しみに暮れる群衆の中に怪我を負った者は見えなかった。その近くには大量の薪が積み上がっている。
聖火祭、竜、火事。これらの要素が、サムエルの中で忌まわしい過去をより一層思い出させた。感情が苛烈な業火のように燃え上るのを感じる。
あの日の記憶が眼前に蘇った。
焼かれた故郷に、焦げた肉の臭い、そこに悠然と立つ竜の姿。あの日に感じた炎の熱さは今でも覚えている。まるで心までも焼き尽くされたようだった。
かつての記憶に併呑されそうになったところを、現在の馬蹄の音によって引き戻された。
サムエルの背後で馬車が止まり、そこから降りて来たフランシスとテファーヌが凄惨な光景を目の当たりにして息を呑んだ。
「……こ、これは、なんと……」
フランシスは白い頭巾の下で紡ぐ言葉を失った唇を、ひたすら上下に動かしている。フランシスにとって竜に壊された村を見るのは初めてのことだろう。その後ろに付き従うテファーヌも、目を愕然と見開きながら、この光景に呑み込まれていた。
「……竜に襲われたそうだ」
サムエルは端的に事実を告げる。
その時、小さな嗜虐心がサムエルの中で芽を吹く。
そうだ、『溶けない雪山』の中で育ったお前達が知らなかった、世界の真実だ。拝竜教など何ら意味を持たないということがよく分かっただろう。これがお前達の罪だ。
声にこそ出さなかったが、視線だけでフランシス達を詰る。
「……おや、行商人のごきょうだいでしたか。これは申し訳ない。村がこのような有様で、持て成しも出来ませんで。……昨晩の内に訪れて頂ければ、我が村で収穫した新鮮な牛の乳や卵、パンなどを振る舞いすることも出来たのですが……」
老人は三人の顔を順番に見た後に、歯を見せて自虐的に笑った。
流石は年の甲と言うべきか、この村の住民で老人だけは冗談を言う気力が残っているようだった。それ以外の者は、サムエル達のことを見向きもせずに、がっくりと項垂れるが、顔を両手で覆い泣き続けている。
一歩、フランシスが前に進み出た。
「そのようなことはいい。老人。村の者は無事なのか? 怪我を負った者は? ぼ……私達は少量ですが、薬を持っている。代価はいらん。遠慮なく使うといい」
途中で口調を改め、少女のような言葉遣いで申し出る。
老人は驚いたように、皺だらけの顔に埋まっていた糸目を開く。
「まさか、行商人がお代を取らずに高価な薬を分け与えると? ……お嬢さん、奇妙なことを言うものだね。何にせよ、幸運なことに、怪我人は一人も出なかったから、薬は不要だよ」
感謝をするのではなく、不振がっている口振りだ。
フランシスからすれば高貴なる者の責務として当然の施しなのだろうが、平民の眼にはそれはむしろ不気味な行いに映る。
「う、む。……それは幸いだったが、……それならばなぜ、皆、泣いている? 家屋ならば建て直せばよいではないか?」
フランシスが不思議そうに、地面に項垂れる住民の群衆を指出す。
「被害に合った建物は、村の共用の牛舎や養鶏場、それに納屋じゃった。そこには来年用の種籾も保管されておったのじゃが、今は灰に帰っておる。もはやどうすることも出来ん。故に、涙を流す他ないのでな」
老人の声は諦観のためか、砂漠の一風のように乾き切っていた。もはや悲痛さすら込められていない。悲嘆のその先の段階、あらゆる悲劇を受容するかのように空虚だった。
聞く者の心を打ち、耳を塞ぎたくなるようなほどに哀れな声色だ。
それ故に、その後に発されたフランシスの屈託のない返答は、サムエルに怖気すら抱かせた。
「なんだ、そのようなことであったが。今更、嘆いていても何も始まらないではないか。むしろ命あっての物種と安堵すべきであろう。家はまた建て直せる、畑はまた耕せばよい、家畜もまた育てればよいだろう」
元気付けようとするその物言いは力強かった。周囲を鼓舞しようとしているのは分かる。その言葉もある意味では正論であるかもしれない。しかしそれは現実を知らないからこそ、苦境に立ったことのない立場で育ったからこそできる発言である。
そのことに、サムエルは我慢できなかった。
テファーヌが止めようとするよりも素早く、フランシスの襟元を乱暴に掴んで顔をこちらに向ける。
「なっ、何だいきなりっ」
と驚き、憤ったフランシスの顔を正面に捉えながら、鋭く平手を打った。
パチンッと薪が弾けるような音が、フランシスの頬で鳴る。
「…………ぇ?」
フランシスが自分の頬に手を置き、赤く残っているサムエルの手の痕をなぞる。これまで誰かに頬を叩かれたことなど無かったのだろう。今、自分が何をされたのか、呆然と考え込むように頬を摩っていた。
初めて叱られた子供のようなフランシスを前に、サムエルは唇をゆっくりとこじ開ける。
「……百姓が種籾や家畜を失って、明日からどう生きろと言うんだ? ただでさえ一日を生きるのに精いっぱいなのに。今を生きているから安心しろだと、よくそんな無責任なことが言えるなっ! 彼らにとっては今日死ぬかっ、明日死ぬかっ、それだけの違いでしかないっ」
恐らく、産まれて初めて他人から叱責を受けた少年は、瞳を微かに潤ませた。自尊心のためか涙こそ堪えているが、零れ落ちる寸前である。それはまさしく子供の姿だった。
これが、この国を背負う者の姿なのだろうか。
貴族であるため多少世俗に疎いのは致し方ないと諦めていたが、これほど物を知らないとは思わなかった。パナリオン公国に住まう全国民に同情を禁じ得ない。
「竜に土地を荒らされ、住居も奪われ、明日の命の糧になる種籾や家畜もなくなった。再び畑を耕し、家を建て直し、作物を収穫するまでにどれだけの年月が必要になると思う? お前が竜に祈りを捧げて口にするパンや肉が、どうやって作られているか考えたことはあるか? そうだ、お前が口に入れる物は全て、竜ではなく彼らが作ったものだっ。彼らがこれまで身を粉にして働いていたから、お前達はぬくぬくと食事が出来ていたんだっ。彼らのこれまでの苦労も知らないくせに、……お前は、お前は……」
それ以上は言葉にならず、もう一度手を上げた。
フランシスが怯えて、両目を固く閉ざす。
構うものかと、手を振り下ろそうとしたが、動かない。
いつの間にかテファーヌが傍に立ち、サムエルの手を掴んでいた。
「……どうか、その辺りでご容赦を」
テファーヌの表情も沈鬱としていた。
ようやく我に返ったサムエルは、辺りを見渡す。
老人はもちろんのこと、先程まで地に伏していた村人が泣き腫らした目をこちらに向けていた。涙を流すのも忘れて、何事かと目を丸くしている。
偶然、村に立ち寄っただけの行商人の三きょうだいが突然喧嘩をし始めたのだから、素性を知らない彼らからすると摩訶不思議な光景に見えるだろう。
「……どうも、失礼した」
サムエルはゆっくりと手を引っ込め、軽く一礼。
「……事情は甚だ呑み込めませんが、きっと皆様は裕福な家庭で育ったのでしょうね。確かに、どことなく気品のある顔立ちでいらっしゃる。……ですが、お兄さん、どうか妹さんを責めないでください。妹さんの言う通り、命があっただけでも、確かに感謝すべきなのですから」
老人は皺だらけの顔をフランシスに向け、孫を慰める好々爺のように微笑んだ。
「それにこれも竜の天罰であり、私共の自業自得です。きっと、日頃の信仰が足りなかったのでしょう。これは神からの戒めと解釈いたします」
そのいかにも敬虔な拝竜教とらしい言い方に、再びサムエルの怒りが着火した。
「それは違う、天罰でなんかあるものかっ! これは理不尽だっ。ご老人、あなた達はもっと怒ってよい。このような仕打ちをする竜に対し、怒りを覚えるべきだっ」
つい、サムエルの口が出てしまう。
またもや、老人の目が驚きに染まる。
「い、いえ、滅相もない。確かに、今はこのような有様となってしまったが、元々ここの土地は豊かで、作物も家畜もよく育っていました。それは今まで竜のご加護があったからに違いありません。此度の竜の御怒りは、我らの慢心を諫めるためだったのでしょう」
今度は、サムエルの怒りの矛先が老人に向かいそうだった。
竜に襲われた直後の相手に対して、明確な怒気をぶつけないくらいの自制心は持っているため、それ以上口には出さなかったが、しかしやはり拝竜教の信徒の考え方は理解し難い。唇を固く閉ざし、怒りを飲み下すことで何とか押し黙った。
老人はサムエル達に向けて恭しく白髪頭を下げてから、無数の皺が刻まれた顔を更にクシャクシャにして笑う。
「さて、皆様。色々とご心配をおかけし申し訳ございませんでした。……この通り、色々な建物が燃えてしまいましたが、それでも屋根の残った建物はございます。よろしければ一晩泊まっていかれませんでしょうか? 大した持て成しも出来ませんが、このような日に出会えたことも、きっと竜の御導きでしょう」




