断章Ⅱ 孵卵
胎動する竜の卵は、巣の奥で目覚めを待っていた。まだ距離はある。それでも竜の心音は重低音でサムエルの腹を打つように響いている。
「こ、これって……」
「ああ、孵化する直前だ。全くこれには驚きだ。君は、鎧殻士師になるべくしてこの世に生を受けたのかもしれんな」
ギデオンは躊躇いもなく竜の卵に近づいていく。
一方、サムエルの足は根が生えたように動かない。当然だ。村を焼き尽くした竜の子供が今すぐ覚醒しようとしているのだから。恐怖が根を張って、動きを封じてしまう。
「さあ、どうした少年? これが我々鎧殻士師が纏う鎧の正体。君が求めた力だ。欲するか?」
卵が放つ朧げな赤い光がギデオンの表情を微かに照らす。薄く笑っているようだ。しかしその瞳は相変わらず死んだように暗い。赤く照らし出されるその顔は、まさしく悪魔のような笑顔だった。
唾を呑み込もうとしたが、口の中が乾いてる。唾液が出ない。
躊躇いと恐怖が鉛のような重みとなって、全身を包んでいる。
真綿で首を絞められるように呼吸がし辛い。いや、うまく呼吸が出来ていない。全速力で走り終えた時のように、呼吸が荒く乱れている。
「……その程度だったか? 君の覚悟は?」
悪魔の嘲笑が聞こえる。
しかし神である竜を倒すならば、彼のように人の身を捨て、悪魔となり果てる必要があるのではないか。
神に祈ったところで、父さんも母さんも村の人々も助からなかった。ただ、無残に焼き尽くされただけだ。
ならば、俺が望むのは、悪魔だけでいいはずだ。
自分を鼓舞する。
ここまで来て、逃げることは許されない。
足の裏から伸びた恐怖の根を、強引に引き剥がす。ブチブチと草の根が引き千切れるような幻聴がした。
一歩。二歩。一度、歩き出した足は止められない。
視野の中心に置かれた竜の卵が少しずつ大きくなり、その全貌が明らかになる。
形状は、確かに卵だ。だがその表面はバラの茎針のような棘に覆われ、波打つ海面のような荒れ模様だ。黒に近い赤の色合いからすると鋼鉄のようだが、しかし人の手では決して作り得ない生物的なフォルムを持っている。そして何より、洞窟内に轟く胎動の音と赤黒い光は神秘性を湛えている。
「君が力を望むなら、得ることが出来る。しかしそれなりの試練が待っている。……そら、これを使うといい。私の予備の武器として持って来ていたが、丁度良かった」
ギデオンが差し出したのは、片手剣。短い柄に、小さな鍔、そこから伸びる腕と同じくらいの長さの刀身。あまり使用されていないのか、刃は綺麗だった。それ以外に特筆すべき事柄が何もない、どこにでもありふれた剣だ。
恐る恐る受け取る、
右手で持つだけならば、重くもなく軽くもない。今のサムエルには少々長く感じる刀身だが、大人が持てば取り回しやすい長さだろう。
「さて、私は君の助太刀は一切しない。殺すか死ぬか、二つに一つ。だが、君が今まで敬虔に守って来た拝竜教の掟のような、面倒なルールとやらは何もない。ただ、勝てばいい」
そして、ギデオンはサムエルからスッと離れて、闇に消えた。
洞窟の内の足音の反響音から考えると、今の言葉通り、サムエルに何か起こっても助けに行くには遠い距離に移動したようだ。そこで傍観しているつもりなのだろう。
一体何が起こるのか、そんなことは考えなくてもすぐに分かった。
ピキィッ。
最初の変化は音だった。小石の破砕音のようだった。
一度聞こえたと思ったら、その音は連鎖し重奏する。洞窟の壁を叩きまわっている。
ピキ、ピキキ、パリンッ。
ようやく目に見える変化が起こる。卵殻を突き破り、翼の先端が現れた。卵殻の粒子が周囲に飛び散りサムエルの頬にも付着した。だが拭う余裕は無い。
それからは瞬く間に過ぎ去る。卵殻の衣を全て脱ぎ去り、この世に生まれ出たのは竜の赤子だ。村の残骸の中で目にした、あの鎧のような体表はまだない。身体の一部に鱗のような模様は見受けられるが、まだ薄い膜のようだった。四本の足と一対の翼、その姿こそ間違いなく竜だが、大きさは小鹿程度でしかない。
足の裏で卵の破片を踏み砕きながら、竜の子は歩き出す。だが覚束ない。まだ生誕したばかりで、脚の動かし方も翼の広げ方も分かっていないようだ。時折、地面に足を取られ、転倒しそうになっている。そんな動作には、産まれたばかりの小鹿が初めて四つ足で歩行しているような愛くるしさすらあった。
竜の子の喉から、まるで親を求めるような甲高い唸り声が発せられる。
発声方法もまだ理解していないのだろう。かつてサムエルが聞いた、山鳴りのような竜のいびきとは比べものにならないくらいか細い。
「……こやつはまだ生まれたばかり。竜鱗もまだ未完成だ。君の持っている片手剣の刃でも十分傷つけることが出来る。どうだ?」
サムエルの背中にギデオンの問いかけが降りかかる。
試されていると理解した。
サムエルは改めて剣の柄を握り直し、竜の子に歩み寄る。
竜の子が再びか細い鳴き声を上げる。親が近くに来たと思っているのだろうか。
サムエルは剣をゆっくりと振り上げ、そして止まった。否、止めてしまった。一息に振り下ろせば、確実に竜の子の頭を割るだろう。まだ鱗は育っていないのだから、濡れた紙のように容易く切り裂ける。それなのに、なぜか躊躇ってしまう。
まだ竜の子は、何もしていない。何の罪も犯していない。人間どころか、虫一匹の命すら奪っていない清い存在だ。その点からすると、多くの豚や鹿の肉を喰い、羽虫を潰して来た自分ん方がよっぽど罪深いと言える。親の罪を赤子に連座させてよいのだろうか。
葛藤が、サムエルの手を制止した。
自分の中に罪悪感が芽生えたことに、サムエルは驚いた。
なぜ、躊躇うっ。
未だ、胸の内に残る憎悪が叫びあげる。
思い出せ、無辜な村民が惨たらしく殺されたことを。生きながら炎に焼かれた、その無残な死に様を。親を、故郷を奪った竜は、一匹残らず屠ると誓ったのではなかったか。
葛藤が手の震えとなって表出し、その震えは更に剣先にも伝わった。
畢竟、この世は弱肉強食。祈りは何の意味もなく、感情は如何なる未来も照らさない。力こそが未来を切り開き、力こそが優劣を決める。親や村人が死んだのは、力ではなく信仰を選んだからだ。
力ある者だけが生きることを許される。
だから、生まれたばかりの赤子よりも、それを殺すことの出来る力を持った自分こそが正しいのである。
憎悪から組み立てられたそんな理屈はサムエルの骨子となり、震えていた両手を支え、力を与えた。
そして、自らの過去を断ち切るように、一閃。
遅れて、鮮血の華が刹那に咲いて散る。
まだ声の出し方も知らない竜の子は、断末魔の声すら上げられずに逝った。
舞い散る赤黒い花弁がサムエルの全身を濡らす。決して消えることのない、子殺しの烙印を押すように。
乾いた拍手が洞窟の中に響く。
「おめでとう。君は試練に合格した。さあ、その報酬である竜の血を一口飲むといい。それだけで君は、我々鎧殻士師の力を得ることが出来る」
竜とはいえ赤子の命を奪ったため、どこか空虚になったサムエルの意識の中に、ギデオンの言葉が鮮明に入り込んだ。
諾々と従い、竜の骸の前に跪いた。
竜の子の額に刻まれた刃の傷が、逃れようもなく視界に映っている。その斜めの裂傷からは、人間とそう変わらない色の血が蜜のように溢れている。
熱に浮かされたような意識の中で、その傷跡に口付ける。まだ生温かく生命の余韻に溢れていた。鉄の臭いが鼻腔を付き、口の中には塩辛さが広がる。
嚥下すると血の味が喉を通り、腹の中に伝わっていくのを感じた。
不思議なことに竜の血は燃えるように熱く、その熱が喉と腹だけではなく全身に広がっていく。高熱を感じ取った身体が激しく発汗するが、流れた汗はすぐに気化してしまい、白い霧となってサムエルの姿を朧げにする。
ギデオンは一口で良いと言ったが、それ以上は飲みたくても飲めなかった。
身体の内側から焼かれているような感覚。肉体が変質し、魂すらも変化しているようだ。
「……グ、……アァ……アアッ」
竜の持つ力。それは魔力のようなものか。竜以外の生命体は持たない特別な力が体内で暴れ回り、定着していくのを感じる。
まず感じたのは聴覚の変化だった。明らかに鋭敏になっている。早くも竜の骸に集っているハエの羽音すら聞き取れるほどだ。次に視覚。少し眼球に力を入れただけで、洞窟内の小石の模様が見えた。それ以外にも様々な感覚が常人を超えた能力となっている。
五感が強化されたのは間違いなかった。いや、五感だけではない。全身から溢れんばかりに力が涌いて来る。いつまでもどこまでも全力疾走できるような気がした。こんなに身体を軽く感じたのは初めてのことだった。
「これで君は竜の力を身に付けた。さあ、竜の忘れ形見である、あの卵の殻に意識を向けてみるといい。そして想像するんだ。自分が纏う鎧の姿を……。イメージが出来たら、『鎧殻孵卵』と唱え。……これは別に他の言葉でも構わないし、そもそも言葉も必要ないのだが、我ら鎧殻士師の間で共通に使われる、いわば決まり文句のようなものだ」
ギデオンの指示通り、まずは意識の糸を周囲に散らばっている卵殻へと飛ばした。
最初は大きめの破片がピクリと動いただけだった。
しかし二度、三度と何度も意識を集中させる内に、動かせる卵殻の破片の数が増えていき、やがてその大きさにも囚われなくなった。コツが掴めると、形状も大きさも千差万別の破片を思うがまま操れるようになる。
気付けば、卵殻の破片をコウモリの群れのように洞窟内を飛ばしていた。
鎧の姿を心に思い描いてから、そして、告げる。
「――――鎧殻孵卵」
空中で渦を巻くように飛んでいた卵殻の欠片が、一挙にサムエルの全身に集約する。欠片の一部は篭手に、一部は脚絆に、一部は兜に、一部は目庇に、それぞれが一個の鎧を構成するための部品となって、サムエルに装着される。
奇妙なことに、卵殻が鎧となって全身を覆っているにも関わらず、その重みは全くと言っていいほど感じなかった。むしろどこか心地よいほどだ。母親に抱かれているような、そんな穏やかすら感じる。
そうか、竜の力を得たことで竜の意識の一部も受け継いでしまったのだ。竜にとっては卵の殻こそが、親からの抱擁と同義なのだ。
何かもが、ただの人間であった時とは異なる感覚。
神を殺すため、悪魔になったのだと悟る。
まさしく、サムエルは自らを囲っていた殻を破って孵化し、もう一度この世に生を受けた気分だった。
「……誕生日おめでとう。鎧殻士師サムエル」
闇の中から拍手と共にゆっくりと現れたギデオンは、相変わらず感慨のない表情だった。
だがその切れ長の双眸から、ほんのわずかだが人間らしい生気の光が覗いていた。その光はまるで値踏みをするかのように、サムエルに注がれていた。




