第二章 旅路 その5
早朝、馬車の車輪は静かに街道を踏み締めていた。馬の蹄鉄が地面を叩き、車輪がゴロゴロと回転する音が長閑に響き渡る、牧歌的な光景だった。
しかし馬車の天幕の中では、身も凍る程の空気が乗っていた。物静かであることだけは野外と変わらないが、包み込む空気に明確な温度差がある。
そんな雰囲気を作り出しているのは、もちろんサムエルとフランシスの二人である。サムエルの頬には強く抓られた痕が残り、フランシスの首筋には三本の細長い腫れが斜めに刻まれている。昨晩の喧嘩の傷跡が顔のあちこちに生々しく残っていた。そして何より二人の頑なな態度も、昨晩からずっと引き摺っていた。
昨晩から唯一違うのは、フランシスがきちんと女物の衣服を纏っていることだ。サムエルと喧嘩をしたとしても、女装するという案は認めているらしい。
案外、律儀なところがあった。
それでも二人の態度は軟化しない。
こうなると一番割を食うのは、板挟みのテファーヌである。先程までは、あっちに話しかけてはこっちに水を向けたりと色々と手を尽くして仲を取り持とうとしていたが、ついに諦めて今はフランシスの傷口を手当てに勤めていた。
薬草から絞り出した傷薬を染み込ませた布を、フランシスの首筋の引っ掻き傷に宛がう。
「……あちっ」
「あっ、顔を背けないでください」
傷口に染みるのだろう、渋面を作って逃れようとするフランシスの肩を掴み、無理矢理布を押し当てる。
「て、テファーヌ、もう少し丁寧に……」
「我慢してくださいっ。あれだけ暴れ回って喧嘩した後で身体が汚れているんですから。傷薬をよく塗り込まないと化膿してしまいますよ」
テファーヌはちょっとばかり強気に言って、再び布を押し付ける。薬草から滲み出た緑色の液が、赤く腫れている傷口を濡らす。
「はいっ、これで終わりですっ。……次はサムエル殿ですね」
「手当はいらない。この程度の傷、傷の内にも入らん」
サムエルは拒否したが、テファーヌはずずずいっと傍に寄って来る。その手には薬草と布切れが握られていた。
「そうはいきませんよ。ちゃぁんと看護してあげますから」
そう言って微笑んでいる割には、笑顔に感情が乗っていない。それどころか、背後に怒りの炎が静かに燃えているのが見える。
「……もしかして、怒ってるのか?」
問いかけた瞬間、テファーヌの額に青筋が浮かんだ。
「……ええ、その通り、怒っておりますとも。お互いに協力しなければならないという時に、お二人共まるで子供のような有様。私達は商人の子供達を装うのではなかったのですか? そんな傷だらけの顔をしては、目立つだけではないですか。これでは先が思いやられます」
声は小さく平静そのものだが、それ故に静かに立ち上る怒りのオーラが見て取れる。微笑みは崩さず、しかし決して怒気は隠さない。
そして何の前触れもなく、サムエルの頬のひっかき傷に傷薬が塗布された布切れがぺたりっと貼られた。氷のような冷気を感じたかと思うと、今度は急激に熱を帯びる。
「あっ、いってぇっ」
柄にもなく悲鳴を上げてしまった。
「フランシス様も、サムエル殿も猛省してください。私達は確かに、今まで異なる世界で暮らして来たかもしれません。それ故に常識も物の考え方も違います。だからこそ歩み寄り受け入れなければ、私達の目的は達せられません」
「……」
フランシスは天幕を背にしながら押し黙り、サムエルも頬から傷薬の染み込んだ布切れを引き剥がし、無言を返答とした。
「サムエル殿、竜を殺すことを生業とする貴殿には、拝竜教は理解しがたいものかもしれません。しかしフランシス様にもうご家族はなく、故に、パナリオン公国のを背負って立つ貴族としての立ち振る舞いが求められるのです。……拝竜教に対する信仰も貴族としての務めです。その真摯な行いを侮辱することだけは、今後どうかお止め頂きたい」
「余計なお喋りが過ぎるぞ、テファーヌッ」
フランシスの鋭い静止の声が飛ぶ。
短いながらも、強い言葉。フランシスの瞳にも、テファーヌに負けないほどの怒りが宿っていた。
「……申し訳ございません。しかし、サムエル殿は信頼に足る人物。今後のことも考え、お話しておくべきでは?」
この二人のやり取りに何か秘められた意図がある。そのことに気付くサムエルだったが、しかし読み取ることはできない。
「家臣が出過ぎたことを申すな。それは僕が決めることだ。これ以上減らず口を叩くのであれば、お前はもう不要だ」
フランシスが急に立ち上がったため、馬車の荷台が揺れる。それはフランシスの揺れ動く心情を現しているようでもあった。
「……口が過ぎました。……どうか、ご容赦ください」
テファーヌが片膝をつき、首を垂れて許しを請う。栗毛色の三つ編みの髪が首元から力なく垂れ下がった。
「よいっ。僕は馬を見ているっ」
フランシスは荒い足取りで天幕の外に出ると、馬車の端に腰かけて足を外に投げ出す。その背中はしばらく話しかけるなと言っていた。
テファーヌはフランシスの背中を寂しそうに見つめてから、サムエルに向き直る。先程の怒りは消沈し、いつもの優し気な微笑みを取り戻している。
「先程はサムエル殿にも出過ぎたことを申しました。私も謝らなければなりません」
テファーヌが頭を下げようとしたので、サムエルは片手で制した。
「いや、昨日のことは、俺にも非がある。それにさっきお前が言ったことは正論だ。これから首都に乗り込もうって時に、顔に傷を作ったのは愚行としか言いようがない。大きな目印を抱えたようなものだ」
「しばらくすればその傷も癒えましょう」
「ああ、そう願おう。この引っ掻き傷、いつまでも男前のこの顔に残しておくわけにはいかないだろう?」
頬の三本筋を指差し冗談めかして言うと、テファーヌが口元に手を当てて、ぷっと小さく吹き出した。
「ええ。その通りです」
ひとまず、天幕の中の空気は少しだけ軽くなる。
「……あの、サムエル殿。失礼を承知でお聞きしたい。……何故、拝竜教を毛嫌いされる? そもそもなぜ、竜を信仰するのではなく、竜と戦う道を選ばれたのだろうか?」
「何だよ、突然」
神妙な顔をして質問してきたテファーヌに驚き、少し身を引いた。
「……昨晩、サムエル殿が拝竜教を罵る姿は、どうにも普段の冷静なサムエル殿とは違う雰囲気を感じました。きっと、何か、サムエル殿の心を乱す何かがあるのだと。……私達が歩み寄るため、互いのことを深く知りたいのです。……どうか、差し支えなければ教えていただきたい。無論、返礼としてこのテファーヌ・デュ・ゲクランの半生を包み隠さずお教えします」
サムエルは目を伏せる。
自分のことを話すのは趣味ではない。
そもそも過去など断ち切るもので、いつまでも引き摺るものではない。過去は人の固定観念を縛り、型を作り、檻となる。過去について話せば話すほど、自分を覆う過去の殻は視界を埋め、厚みと重量を増して枷となっていくような気がする。
だから今まで自分の昔話をしたことはなかった。過去を知っているのは、直接現場を見ていた師のギデオンのみだ。
「……自らの過去を騙るのは、女々しい行為と俺は思っている」
ゆっくりと口を開くと、テファーヌの顔が落胆に染まった。
そんな子供のように分かりやすい反応をされると、こちらも困ってしまう。
サムエルは頬を掻きつつ、言葉を続ける。
「……だが、まあ、テファーヌには、色々と迷惑を掛けてしまった。その罪滅ぼしということでなら、簡単に話そう。何も面白くも珍しくもない話だが……」
「か、感謝いたしますっ」
テファーヌの顔がパッと華やかに色めく。
「俺は、このパナリオン公国が出身地だ。ここからずっと北の方にある霊峰の麓に広がる、名前もないほどの小さな村だ」
どうやって話すべきか。散々言葉に迷いながら、一つずつ紡いでいく。
「その村の人々は、数は少ないながらも熱心な拝竜教の信徒の集まりだった。儀礼を一つも欠かしたことはなかった。……でも、あの日、……拝竜教の聖火祭の日に、竜に襲われて、何もかも変わってしまった。ただそれだけだ。鎧殻士師の中には俺みたいな過去を持つ奴はいくらでもいるし、こんな悲劇は他でもある。俺だけが特別というわけではないさ」
カラコロと鳴り続ける馬車の車輪が回る音に混じって、郷愁に満ちたサムエルの声が響いた。
「……そ、そう、でしたか……。し、しかし、竜が、人里を襲うなど、聞いたことがありませんでした……」
テファーヌの眼が信じられない物を見るような眼になった。
「そりゃそうだ、竜が降りてきたら近辺の村は壊滅状態だ。話を伝える人間なんてほとんど残らん。それに、首都や大都市は竜が住むような田舎からは外れたところにあるんだから、竜の被害に合う可能性も低い。しかもこの国は拝竜教を国教と定めている。竜の悪口を言えば即座に背教者扱いだろ? だから、竜の脅威も広まらんわけさ」
サムエルは口端を持ち上げて、揶揄して笑う。
テファーヌは完全に押し黙ってしまい、再び沈黙が馬車の中を支配した。
その時、天幕の外で馬車に腰かけるフランシスも静かに聞き耳を立てていたことに、サムエルもテファーヌも気づかなかった。




