序章 教義に散る
「時々、山から下りてくる唸り声は、山鳴りなんかじゃなくて、竜のいびきなのよ。でも怯えなくていいの。いびきが聞こえるってことは、まだ寝ているってことだから」
霊峰と名高い山脈の麓に広がるサムエルの住む村では、そんな言い伝えがある。
サムエルが初めてその山鳴りを耳にしたのは七つの時だった。その時は泣きながら家に逃げ帰り、母親からこの村に伝わる竜の話を聞かされた。
「竜は神様の化身。人間がいい子にしていれば、ずっと山の奥で眠っているわ。でも人間が悪い子になったら、目覚めて山から下りてくる。そしてその大きな口から火を噴いて、人間に罰を与えるの。でも、今、いびきが聞こえたってことは、竜が眠っている証で、人間がいい子にしている証だよ。でもサムエルが悪い子になると、いびきがピタリと止まってしまうかもよ。ほらっ。今にもっ」
サムエルの母親は話の最後に、おどけて耳に手を当てた。
その瞬間、サムエルは今まで恐怖の対象だった山鳴りが、今度は聞こえなくなってしまうことに怯え、「今日の夕飯の準備、僕もお手伝いする」と山頂にも届くように願いながら両親に向かって叫んだのだった。
この村で生まれた子供は、皆、竜の話を聞かされて育つ。
山の麓に広がるこの小さな村にとって、竜とは畏怖と畏敬と信仰の対象だった。
ここ、パナリオン公国では、竜を信仰する宗教『拝竜教』を国教と定めている。そしてパナリオン公国広しと言えども、この村ほど敬虔な地域は他になかった。小さい村でありながら、拝竜教の立派な教会を建てており、安息日には村人総出で礼拝を行っている。
そんな村の信心深さに影響され、サムエルも自然と敬虔な信者として育った。
毎朝の礼拝を欠かしたことはなく、安息日には足繁く教会に通った。拝竜教の教義は全て読み込んで自分の糧とし、村を挙げての例祭にも進んで参加した。
しかし、その日だけは違った。
サムエルが十一歳となった年の聖火祭の日。
聖火祭は年に一度行われる、拝竜教の教徒の祭りである。村の中央の広場に枯れ木を組み合わせたやぐらを作り、その足元に次々に松明を投げ込んで大きく燃えあがらせる行事だ。天をも焦がさんばかりに立ち上った火柱を、竜の吹いた聖なる炎に見立てることで、あらゆる災厄を焼き尽くすと信じられていた。
祭りの数日前から、燃やすためのやぐら作りに村の若者が駆り出されるのが伝統だった。
サムエルも枯れ木の収集に赴くこととなっていたのだが、その年は偶然、隣村に行商人が来訪していた。
このような辺鄙な田舎の地に行商人が訪れることは数年に一度のことであり、信仰心と同じくらい少年らしい冒険心も持っているサムエルにとって、洒脱的な都の珍品を持って来る行商人は興味深い存在だった。
ちょっと迷ったものの好奇心には勝てず、集めた枝木を放り投げて駆け出してしまった。
いつもは真面目に祈祷しているのだから、今日くらい怠けたっていいだろう。
そんな自己弁護をして枯れ木集めの仕事を抜け出して隣村に向かうと、行商人の広げる品々を心行くまで眺めた。
「……おや、日も暮れたのにまだ仄かに明るいね」
行商人の元に集まっていた隣村の誰かが口にし、周辺を見渡した。
サムエルも頭を上げた。確かに夜空には星々が散りばめられ、丸い月が上っている。それにも関わらず、未だに西から茜色の光が自らを誇示していた。
「あれは、夕日じゃないぞ。火の手じゃないのか?」
その言葉は、サムエルの顔から血の気を奪った。
脱兎の如く駆け出して、来た道をそのまま戻る。
帰り道は、茜色の光に続いていた。
まさか、聖火祭の最中に何かあったのか。火の粉が建物に降り注いだのか、あるいは火のついたやぐらが倒れたのか。
事故の原因はいくらでも考えられる。
両親、友人、村の人々の顔が思い浮かぶ。
誰も怪我をしていませんようにと、祈りながら足を走らせる。疲労が憎い、脚が思い通りに動かないのが憎い。呼吸が苦しいのが憎い。聖火祭を抜け出した自分が憎い。
何かも憎みながら、我武者羅になって走り続ける。
そうして見えた光景に、サムエルは視界を閉ざしたくなった。
そこには炎の大海原が広がっていた。
家屋を燃やす炎は風に煽られて波のように揺れており、時折吹き上がる火の粉は飛沫のように散った。炎は近場にある万物を呑み込んで、生き物のように姿形を変えながら更に大きく膨れ上がる。それはまるで、炎の津波だった。
この炎の海の中心に、主がいた。
大木のような四足を持ち、それに支えられた長い胴体。背中から広がる両翼は空を覆い尽くし、扁平な頭部には垂直の瞳孔を持つ琥珀色の双眸が輝く。炎の中心地に立ちながらも熱を感じているように見えないのは、身体の表面に無数の鱗が一部の隙もなく敷き詰められており、それが炎の熱気を寄せ付けないためだ。
それこそが竜。炎の化身のように、当然の顔をしてそこに立つ。
まさしく、神だった。これまでこの村が讃えて来た、神そのものだった。
しかしその神は素知らぬ顔で、自らを崇め奉っていた信徒達を踏みにじっていた。その口元から滴る赤い血は、信徒の命を喰らった証拠だ。口内の牙には、まだ肉片と思しき薄桃色の物体が付着している。
神は、ただ空腹を満たすためだけにこの地に降り立ち。感謝も、謝罪もなく、本能のままにその牙を人間の血で染めたのだ。
敬虔な両親や村人に訪れた神からの祝福は、こんなものだった。
「――――ッ」
サムエルの口から、悲鳴は出ない。怨嗟の声も出ない。
内に渦巻く感情はとても声などでは表すことは出来ず、獣の如き咆哮が口を突いた。
なぜ、自分ではなく、彼らなのだ。
竜の炎は悪を罰するためだったはず。村人の誰もが信心深かった。今日だって、竜を崇める感謝祭のために準備をしていたはずだ。なぜ善である彼らが贄となり、聖なる炎で焼き尽くされねばならなかったのか。もし罰を与えられるとすれば、怠惰な自分だけのはずだ。
この世の理不尽に対する怒りが、サムエルの中から恐怖を振り払う。
神の理不尽を目の当たりにしたことで、サムエルの信心が、今、憎悪に昇華した。
武器も勝算もない。ただ憎悪だけを手にして、サムエルは神に向かって飛び出す。炎の熱気が皮膚を焦がすのも構わない。
嗚呼、しかし無情にも神はサムエルに気付き、まるで欠伸でもするような緩慢な動きでその口を開いた。人間の血に塗れた故か、あるいは元来のものか、竜の口内は炎よりも鮮やかな赤に染まっていた。
炎に照らし出された口には、二つの黒い穴が縦に並んでいた。恐らくは一つが胃袋に通じており、もう一つは炎を生み出す聖なる臓器に繋がっている。
ここで、自分は炎を浴びるのだろう。
全てを悟ったサムエルだが、走る足を止めなかった。神への反逆心だけは、死ぬ直前であろうと絶対に忘れたくなかった。サムエルは自らを殺す炎の中に飛び込む決意を固めた。
その瞬間。
竜の横面に、大砲の砲弾の如き速度を持った黒い影が衝突する。そのぶつかった衝撃が突風となって周囲に広がり、家屋を犯していた炎が怯えたように揺れ動く。サムエルが願った神への一撃が、想像もしない形で叶った。
竜の顔はサムエルから逸れて夜空を向き、吐き出された炎は天だけを焦がした。
思いがけず命を拾ったサムエルは、竜の横面を叩いた何かの正体を確かめるため目を凝らす。
その何かは竜に不意打ちを食らわせた直後、夜空に身を躍らせた。滞空中の刹那の時に姿勢を整えて、見事、サムエルの前に降り立つ。曲芸を思わせるほど綺麗な着地は、音もなく静かだった。
「……無事か?」
その何かは、鎧を纏った人間であった。掛けられた声がくぐもっているのは、頭部が兜によって完全に覆われているせいだ。
頭部だけではなく、頭から手足の指先まで白銀の鎧によって守られていた。鎧の騎士。かつて行商人から、竜と戦う鎧姿の武人がいるという噂話を聞いたことがあった。その時は、人の身で竜に敵うはずがないと鼻で笑ったが、今、眼前にいるのは間違いなく本物だ。
だが想像していた鎧姿とはかなり違う。
城の兵士が纏うような鎧は、数枚の金属板を加工して繋ぎ合わせた板金鎧が一般的だ。しかし目の前の鎧は小さな金属板や金具を何十枚と隙間もなく組み合わせて形作られている。とはいえ、その装甲の数は決して過多ではない。人間の動きを邪魔しない程度の数に抑えられ、また関節部の装甲は薄く、腰回りには反りの入った金属板が使われるなど、人体の形状に沿った造りがなされている。
「……遅くなってすまなかった。彼らを助けられなかった」
白銀の鎧騎士は謝罪の意思を示す。しかしその声には感情が込められていない。この程度の地獄などいくらでも見て来たと言わんばかりに。
「しかし、君は強い。よく竜に立ち向かった」
無骨な賞賛の声は、傷ついたサムエルの心に深く隅々まで染み渡った。憎悪で握り固めていた拳も、いつの間にか解けている。
「そう、今、君が見たように、竜は神ではなく所詮は血に飢えた獣の王だ。王ではあっても神ではない」
サムエルに背中を向けながらそう言い切った鎧の騎士は、右手に持っていた武器を構える。
それは槍のように長い柄。先端には半月状の両刃斧が備わっていた。戦斧と呼ばれる武器である。
体勢を立て直した竜がその双眸に怒りを宿して、鎧の騎士を睥睨する。ようやく竜が人間の存在を認識した瞬間だった。
しかし今度は逆に人間である鎧の騎士が竜の存在を無視して、背後にいるサムエルに向かって、静かに語りかけた。
「よく見ておけ。……神でないものは殺すことが出来る。竜に対し畏怖も信心も抱く必要は無い。……人は竜に勝てるのだ」




