ノロワレ
検問の警備員が合図をすると、タクシーは日野大橋を抜けて多摩川を越えていく。
立川の空は広い。
抜けるような青空と河川敷の桜。川面を泳ぐのは何の水鳥か。
釣り人の姿もちらほら見える。警戒区域に入ったとは思えないほど風景はのどかだ。
「お客さん、立川は初めてかい?」
60過ぎくらいの運転手は屈託なく話し掛けてくる。
「いや…まあ十年ぶり…くらいかな」
後部座席に深く座る男がフードの奥で唸るように低く答えた。
「へえ!じゃあアレが出来た頃だねえ」
運転手がそう言って顎をしゃくる方向は、かつて昭和記念公園があったところだ。
いや、今もある…にはあるのだが。
タクシーが向かうその先には、白い柱状の構造物が天に向かって果てしれぬ高さで伸びていた。雲間から垂れ下がる糸のような、その柱の根本は巨大な円錐形を成しており何かの虫の卵を思わせる。
「『図書館』か」
フード越しにチラリとその異様な構造物に目をやり、男がつぶやく。
「そうそう、あたしらが子供の頃は図書館ていったら本を借りたり読んだりするところだったんだけどね…」運転手がため息をつく。「今となっちゃアレの呼び名だよ」
運転手の語りはもはや、後部座席の客の答えを待たない。
「突然あの『図書館』が地下から生えてきたってニュースを見たときはぶったまげたもんだが…結局収まる形に収まったと言うか。もはや風景の一部だね」
タクシーは街なかの大通りに入る。
「ごらんよ、街も平和なもんだ。というより、前より人が増えてるかもね。あの『図書館』めあての観光客やら、『図書館』の研究機関やら…あと」
赤信号でタクシーが止まり、その前の横断歩道を何人かの学生が横切った。
全員私服だが、校章と思しきバッジを皆思い思いのところに付けている。
十字の剣に菊の紋。
「…図書館内部を探索する冒険者とかさ」
「あれらはまだ冒険者じゃない」
重い口をようやく開いた客の男がそんな言葉を挟んだ。
「でも『図書館』の中に入っていく酔狂な連中の仲間だろ?いずれ本職になろうってんだから、あたしらにゃ大した差はないよ」
ひょいと肩をすくめた運転手はアクセルを踏みこみつつ、客の様子を伺う。
「おっと悪い…お客さん、ひょっとして冒険者さんだったかい」
「まあ…似たようなもんだ」
「こりゃ失敬。まあ、あたしらにとっちゃ図書館に入るなんて考えもよらないことだからさ」バツが悪いのか運転手の喋りが早くなる。「何でも噂によると、図書館に入った人間には呪いが降りかかるっていうじゃないか。病になったり、手足を失ったり…中には人間の姿を失ったヤツもいるとか」
客の男は沈黙したままだ。
「たしか冒険者の言葉で…『ノロワレ』って言うんだっけ?」
「その門の前で降ろしてくれ」
男は運転手の言葉には答えず、指示を出す。
車は石造りのアーチの前で止まった。
「8640円だね」
金の受け渡しを終え領収書を懐に入れた男が車外に出ると、強い突風が吹いた。
まともに風を受け、かぶったフードがバサリと外れる。
ドアミラー越しに客を見送っていた運転手が、ひっと息を呑んだ。
男の頭部があるべき場所に―――虎の頭が生えていた。
その金色の目と運転手の目がミラー越しにかちあい、運転手の口が声なき言葉を形作った。
『ノ・ロ・ワ・レ』
タクシーは急発進で路上に走り出した。幸い路上は空いている。
「…事故んなきゃ良いんだが」
タクシーを見送った虎頭の男は改めてアーチに向き直る。
その向こうにそびえ立つ建造物はいくつかの塔を持ち、最も高い塔の天辺に紋章が輝いていた。
十字剣に菊。
『立川冒険者養成専門学校』
そう彫り込まれた金色の看板を一瞥し、虎頭の男はアーチをくぐりぬける。
「今日から俺が教師か…」
虎の頭を一振りして、男は校舎へ歩き出した。