ユーフォリア/愛を取り戻したかった男の話
彼は慎重に車を走らせていた。砂利道はひどく車体が揺れ、彼の隣でうつむく体をも揺らす。
不自然なほど上下する首にぎょっとし、必然的に車は速度を落としていったが、幸いなことに後続車はなかった。
うだるような暑さの中、広がる平野と青空を映しながら、彼は蝉の鳴き声だけを耳に目的地へと向かう。
彼がその場所のことを耳にしたのはいつのことだったか。都市伝説のひとつとして聞いたようにも思われるが、はっきりとは覚えていない。ただ、そこはまさに楽園であり、失ったものを再び取り戻せる場所だということだけは記憶に焼き付いている。
――失ったもの、それは生涯を共にするはずだった伴侶。
二人の新居へ続く道には、途中、長い階段があった。
その日、重い荷物を手に彼女は階段を上がり、そして足を滑らせた。打ちどころが悪かったこと、あまり人の通る場所ではなかったこと、それぞれの要因が彼女を彼の手から永遠に奪い去る。
彼が彼女を見つけたときにはすべてが遅かった。散乱した荷物と、奇妙にねじ曲がった身体。そしてコンクリートに染み付いた、見慣れない濁った色。
何をすればいいのかわからなかった。救急車を呼べばよかったのだろうか。それとも警察を呼べばよかったのだろうか。既に息のない人間の今後をどこに伝えればいいのか、混乱する彼には判断がつかなかった。何が起きたのか理解できないまま、彼は彼女を自宅に留めておくことに決めた。もしかしたらただ意識を失っているだけかもしれない。汗ばむ手に伝わる冷たい体温を無視した淡い期待を抱いて。
――がくん、と車が大きく揺れた。どうやら何かに乗り上げてしまったらしい。
彼はひとつ舌打ちを漏らして外に出た。
ドアを開けた途端、空調の利いた車内からは考えられないほどの熱気が彼を襲う。微かに漂う甘い香りと強い日差し、そして騒がしい蝉の声に顔をしかめながら、彼は乗り上げてしまったものを確認した。
子供の大きさほどある木の板――否、それは看板だった。
今の出来事が原因か、大きく割れてしまっている。
罪悪感よりも苛立ちを覚えつつ、向かおうとしていた先に目をやると、そう遠くはない場所に家屋が見えた。
人のいる道を離れて数時間、やっと彼は目的地に辿り着いたのだった。
聞いた話が本当かどうか不安を感じながら、彼は助手席のドアを開く。
目を見開いたままの彼女と目が合った。
血の気の失せた頬に指を滑らせて、それから強張った身体を抱え上げる。硬直した体は本当に運びにくい。
腕の中の彼女を見下ろすと、落ちくぼみ、瞳孔が分らなくなるほど濁った目が何かを訴えかけてきているように見えた。
その光のない視線を受け止めきれず、彼は彼女の瞼を閉ざそうとした。が、硬直しきった瞼は彼の指に従うことを拒み、結局彼が彼女の視線から逃れることはかなわなかった。
甘い香りがする。近くに花の色は見えないし、咲き誇るような時期ではないとも思うが、依然として彼は微かな香りを感じていた。
それは人の住む方向へ歩みを進める度に強くなるような気がして。
疑問を感じつつも、彼女の重みで痺れていく腕がそれを後回しに考えるよう訴えていた。
彼の向かう先から一人、彼と同じかそれより少し年上に見える女性が歩いてくる。
この先が本当に彼の望みを叶える場所ならば、ここで彼が何を手にしていようと見過ごされるだろう。しかしそうでなければ。
一瞬の緊張、だが近付く女性に彼は自分と同じ姿を見る。
互いの顔が確認できるほど近付いたとき、女性の方から彼に声をかけてきた。
「新しく越して来たの?」
「ええ、話によるとこちらは楽園だとか」
「私? お散歩していたのよ」
「私の住めるような場所はありますか」
「確かに散歩には暑い時期ね」
「…………」
「あまり広くはないけれど、あなた達が住むのにちょうどいいおうちがあったはず。この村の人はよく引っ越すものだから空き家が多いのよ。大丈夫、勝手に住んでも誰も怒らないから」
たった今来た道を振り返り、女性は彼を導くように歩き出した。
あとに続く彼の姿を見て微笑ましげに目を細める。
「私にもそんな時期があったのを思い出すわ」
「…………」
「息子ができてからはそれどころじゃないけれどね」
「……息子さんが、ここに?」
「ひとりで留守番できるかどうか訓練中なの」
他愛もない、平凡な会話。
噛み合っているようでそうでないようなやり取りを繰り返し、やがて二人は小さな一軒家に辿り着いた。
まだ新しいのか、白い壁は塗りたてのように美しい。
くすんだ赤い色の屋根が彼の脳裏に何かを連想させたが、甘い香りに痺れた頭でははっきりと何かを想像することができなかった。
小さな家に相応しい小さな門を通ると、足下を埋め尽くすようにシレネの花が植えられていた。
開花時期が過ぎてしまったせいか風に揺れる白い花の数は多くない。
甘い香りの源はこれかもしれないと彼は思った。
「私達のおうちはあそこ。サルビアがちょうど時期を迎えたところでね。すぐに分かると思うけれど」
女性の指さす先にある家もまた、そう大きくはない。
空色の屋根はこれから彼が住む家と違い、明るい色合いだった。
彼の場所からサルビアの花は見えないが、あの鮮やかな赤い色と目の前の女性が結びつかない。
もっと清楚な花を選びそうな印象だが、と考えて、そんなことはどうでもいいことを思い出す。
なんのために、なぜこの場所に来たのか。その理由を思い出し、彼は女性にひとつ質問する。
「幸せですか?」
返ってきたのは言葉ではなく、晴れやかな笑顔だった。
ああ、と彼は息を吐いて胸の内の希望が確かなものに近付いたことを喜んだ。
しばらく立ち話をしてから、やがて女性は帰って行った。
彼は改めて新しい住まいを見上げ、ドアの前に立った。
両手が塞がっているため、行儀悪くも足でドアを開く形になる。
そういえば鍵は、と考えたが、この場所に来るような人間が今更他人の財産に興味を持つとも思えない。
彼は靴のまま室内へ入り、すでに敷かれてある絨毯の上に彼女を横たえた。
抱きかかえたままで腕が強張ってしまっている。曲げたり伸ばしたりを繰り返すと乾いた音が鳴った。
動かない彼女のそばに座り、彼は思い出したように額の汗を拭う。
気温が高い割に思ったほど汗が流れていなかったため、暑さによる不快感はあまりない。
それよりも、ここに来てからずっと感じ続けている甘い香りの方が不快だった。
喉の奥に粘り着くような、脳に直接張り付くような、それなのに振り払い難い香り。
彼はせめて喉にまとわりつく不快感だけでも消してしまおうと、重い腰を上げて台所へと向かった。
用意されていたかのように置かれているガラスのコップを取り、蛇口をひねる。
無人の家でも水は流れるのか、と水を満たしながら無意識に思った。
矛盾した行動と思考に苦笑しつつ、ひと息に飲み干す。
小さなため息をついてから、ひとつあくびをかみ殺した。
気持ちが落ち着いたせいか、今度は睡魔が襲ってくる。
横たわったままの彼女の横に自分も身を横たえると、聞こえないはずの息の音が隣から聞こえた気がした。
――生と死を越えた先、なくしたはずのものを再び得ることができる楽園。
面白おかしく噂されるこの場所に辿り着く者が望むのはただひとつ。
永遠に失われてしまった人間のいのち。
***
ふと彼は目を覚ます。
寝起きでぼやけた視界に映る天井は明るい。
電気をつけた覚えはないし、まさか朝が来てしまったとも思えない。
未だはっきりしない頭を叩き起こしたのは彼以外の人間の声だった。
「おはよう」
ああ、と声にならない声が喉に詰まる。
体を起こした彼は先ほどまで確かに動かなかった人間が目の前に座っているのを見た。
自然と嗚咽が漏れる。そんな彼を心配する声は彼女のそれ以外のなにものでもなかった。
「寝ぼけた?」
くすくす笑い。
以前彼女自身がよくやっていたように、目の前の彼女も彼の頬をつついた。
残る体温と感触が、これは夢ではないということを物語っている。
しかしそれだけでは安心できず、彼は自分で自分の左手をつねった。
鈍い痛みがじわりと広がり、さらに彼の涙腺を刺激する。
どうしたの、という一言で、ほとんど反射的に体が動いた。
抱き締めた彼女はおずおずと彼の背中に腕を回し、子供をあやすように頭を撫でる。
偽物ではない本物の温もりを確かに感じ、やがて彼は声をあげて泣き出した。
――それからの生活は幸せそのものだった。
色のなかった日々が突然鮮やかになり、彼は忘れていた心からの笑顔を思い出した。
新しい住人のことが小さい村に広まるのはあっという間のことで、すぐに村の様々な住人が彼ら二人を訪ねた。
この家まで案内してくれたあの女性が、やんちゃ盛りの息子を紹介しにやってきたこともあった。
飛ぶように過ぎていく日々の中、彼らを含めたすべての住人が同じ喜びを分かち合い、かつて自分達の身に起きた不幸を忘れ、これ以上ないほどの幸せを噛み締めながら生きていた。
***
彼らがここに住み始めてからはや数ヶ月が経った。
はやく進んでいるように感じられるものの、思っているよりは進んでいない時間だったが、少しとして満たされていないときはなかった。
しかし、風が肌を冷たくなぞり始める頃、彼は微かな違和感を覚えるようになっていた。
それは主に彼女に関することで、ふとした瞬間に露わになるものだった。
例えば、以前の彼女なら彼の言うことすべてを肯定することなどなかったし、彼の望むことすべてを叶えようとはしなかった。
基本的にマイペースだった彼女が彼に合わせるために自分を犠牲にすることなどなかったからだ。
また、彼女と外に出るだけでひどく疲れることも気になっていた。
精神的な意味ではなく、体力的な意味でだ。
それについて、彼女に相談すると「私は疲れないから」と返される。
彼女が疲れないということがなぜ彼の疲れに関係するのか、まったく意味が分からない。
何か重要なことを忘れている気がした。
それが何かを突き止めようと、彼はあえて彼女を試すことを決意する。
それによってこの短い幸せの時間がすべて失われるとしても。
「明日の朝ご飯は何にする?」
いつも通り聞いてきた彼女のその微笑みが恐ろしいと感じたのは初めてだった。
そう感じる自分と、これからの会話を考えて、その残酷さに吐き気がする。
「君の作った卵焼きが食べたいな」
この『彼女』は気付いているだろうか。
彼がここに来て、そして『彼女』と再び暮らし始めてから一度も卵料理を口にしていないことを。
「分かった。じゃあ楽しみにしていてね」
咄嗟に声が出なかった。彼女は知っているはずだ。
彼はアレルギー体質で卵料理が食べられないことを。
そう、彼女は知っているはずだ。
『彼女』でなく、彼女は。
では、これは誰なのか?
浅い呼吸を繰り返して、自分を見つめる彼女をまっすぐ見つめ返す。
そもそも彼はなぜこの場所に来たのだったか?
「君は……」
彼女は首を傾げて、少し笑った。
彼女以外の誰でもない優しい笑み。
なぜだか泣き出したくなって、彼は顔を歪める。
本当はずっと分かっていた。忘れている振りをして、最初から何もなかったと思いこませていただけだ。
彼は喉の奥を締めあげる痛みをあえて飲み込むように、ひとつ、深く息を吸った。
吐き出したのは息ではなく、彼が目をそらし続けた現実。
「君は死んだはずだ」
彼自身戸惑いながらも口にした言葉に対し、彼女は首を横に振る。
その震える目元から涙は流れなかった。代わりに今まで聞いたことがないほど静かな声で彼に訴える。
「駄目だよ。それを言ったらもう戻れなくなる」
その尋常でない様子に気圧されるが、彼はもう一度同じことを今度ははっきりと言った。
もう戻れない、その意味を理解した上で。
「君は、死んだはずだ」
視界が歪む。奇妙に入り混じる世界の中に悲しげな彼女の姿が映った。
目眩に似たものを覚えて足がふらつく。
ここに来たときから気になっていた甘い香りを久々に感じた。
目が覚めるように視界がはっきりしていくと同時に、突然部屋の中が暗くなる。
照明が消えたのかとも思ったが、そうではないことを彼は漠然と感じ取っていた。
室内の雰囲気が今までとまったく違う。
まるで最初にここに来た時のように、どこか寂しげな空気が流れていた。
はっと彼女のことを思い出し、その姿を探そうとして部屋の中を見回す。
まだ暗闇に慣れていない視界の隅に何かが映った。
そこに何があるのかよく分からないが、小さいものでないことだけは分かった。
ややあって、彼はそれが何かを理解する。
月日が経つにつれ麻痺してしまったのであろう嗅覚が、おぼろげに、しかしはっきりと強い腐臭を訴え始める。
崩れかけ、体の至る所で白いものが動く『彼女』がそこにいた。
彼は震える手で自らの顔を覆おうとし、その手に付着している『彼女』の一部にとうとう悲鳴をあげた。
無我夢中で家を飛び出し、すっかり色をなくしたシレネの花を踏むことさえ躊躇わず彼は走り出した。
村から出るまでの間に何人もの住人を目にする。
すべてを知る前は当たり前の光景だったが、夢から覚めた今は違う。
彼らがそれぞれ何を抱きかかえているのか、理解したくはなかった。
「そんなに急いでどうしたの?」
聞き覚えのある声。息子と暮らすあの女性だ。
そちらに目を向けてしまい、彼は心の底から後悔した。
「この時間は星が綺麗ね。あなた、今日は彼女さんと一緒じゃないの?」
人のいい笑顔を浮かべた女性が大切そうに抱えている、骨と乾燥した皮だけになった『息子』。
――自分も同じ幻覚を見ていたのだ。村中に漂うこの甘い香りに騙されて。幸せとはほど遠いものを幸せだと信じて。
彼は声にならない声をあげ、訝しげに自分を見つめる女性に背を向けて力の限り走り出した。
いつまでも覚めることのない狂った夢から逃げるように。
彼ら村の住人が信じて疑わない幸せの世界から逃げるように。
――その後、彼はどこ行ってしまったのか。
村の住人達は、シレネの咲く家に独り残された若い女のことを哀れみ、誠実に見えた男の裏切りを悲しんだという。