「わたモテ」の描写とリアリズム
自分は路線変更後の「わたモテ」という作品をかなり高く評価している。最近の「わたモテ」は何気ない女子高生の日常を、ちょっと百合百合した感じ(友情の範囲内だが)で描いている。
「わたモテ」は描写が丁寧だというのが定評なのだが、描写が丁寧というのは、文学とか小説にとっても重要なので、色々と思う所がある。
例えば、いまさっきアマプラにある「寄生獣」という実写映画を見ていた。原作は名作漫画「寄生獣」だが、実写映画は凡庸な出来だ。
では何故凡庸なのか。主人公の右手が急にパックリと割れて、化物になるシーンがある。この時、主人公が「うおおー」と驚くのだが、そういう事態になった時、そんな風に「声」は出るのだろうか。自分の感じだと、本当に驚いた時は「………」と固まってしまうのではないかという気がする。あるいは一瞬間を置いてから、小さく「あっ」と言うとか。
あるいは、これは人それぞれ、考える反応は違うと思う。ただ、ああいう通俗作品においては、キャラクターの反応とか、感情の表出は類型的だ。青山七恵の「ひとり日和」なんて作品も、通俗的場面が連続していたので、娯楽物だけの問題ではないだろう。
こういう場面に関する議論は百出するだろう。それぞれにイメージするものは違うからだ。しかし、そういうものを「考えているか否か」という事は作品の根底部分に関わってくる。通俗作品ではこの事が深く考えられていないので、びっくりした時は「うわあー」と叫び、悲しい時「ヒック…」と泣く。この通俗表現を逆手に使うという高度な方法もあるが、それはトリッキーなやり方なのでちょっと置いておきたい。
「わたモテ」では、すっと読み飛ばせるが後から印象に残るコマというのがたくさんある。例えば、田村ゆりという女の子が「ふっ…! ふふ…」と笑う場面がある。(正確には笑いをこらえる)
この場面で田村は、どうしてそんな表情をしたのか。田村は主人公のもこっちと並んで、学校の廊下を歩いていたのだが、もこっちが転んでしまう。それを前の方にいるキバ子(キャラ名)が馬鹿にする。もこっちはそれに大して「うっせーキバ子… 歯矯正すんぞ……」とぼそっと呟く。
田村はキバ子が好きではない。そして、田村はもこっちが好きなので、もこっちがキバ子に敵意を現したというのは、田村にとって思わず嬉しくなるような事だった。しかし、それは「敵意の表出」なわけだから、そこで「わかるーキバ子最低だよね!」と言えば、キバ子と同じ嫌な奴になってしまう。田村はそこまで悪い子ではない。しかし、思わず、もこっちの反応を見て「ふっ…! ふふ…」と笑ってしまった。その後、もこっちに「え? 笑ってる?」と聞かれるが、田村は「笑ってないよ」と照れつつごまかす。
この時の「ふっ…! ふふ…」という田村の表情には、そういう、(嬉しいけれど、抑えなければならない)という感情がはっきりと現れている。この作者はそういうものを描くのが非常にうまい。(最近特にうまくなった) この箇所を読んだ人はきっと、自分が一度はそういう表情をしたとか、友達の誰彼がああいう表情をした事があるとか、そういうものを思い出すのではないだろうか。
この場合、谷川ニコは突飛なものは描いていない。普通の女子高生の場面を描いているのだが、「普通の女子高生の会話」というのも、「どう描くのか」という事に大切なポイントがあるのであって、それが問題でないなら、ストーリーの変化の面白さや、突如として驚かせるような突飛な仕掛けで読者を愉しませる他ない。読者を愉しませると一口に言っても、様々の方法論がある。
(ショーペンハウアーは小説について、「小説家の課題は大きなできごとを物語るのではなく、小さなできごとを興味深くさせることである。」と述べている。また、小説は「内面生活を多く、外面生活を少なく描く事により気品が高まる」とも言っている。これを「わたモテ」に適用してもいいのではないか)
こうして考えると、「わたモテ」の描写がうまいというのは、作者が人間をよく観察している、あるいはよく想像して描いているという事になるだろう。逆に言えば、人は普通、人をよく見ていない。自分を観察しておらず、他人をも観察していない。だから、場面を想像する時、類型的な描写になってしまう。
この問題をもう少し考えるならば、「リアリズム」とは何か、という事になる。「わたモテ」は、今は普通の女子高生の交流を描いた「リアリズム作品」になりつつある。しかし、「わたモテ」のように繊細な描写の漫画はあまりない。という事は、リアリズムは現実を描くものであるのに、現実とは我々の見る所いくらでも広がっているのに、そういうものをきちんと描いたものは非常に少ないという事になる。
立川談志の理論なども取り入れて自分なりに考えると、次のようになるのではないか。「多くの人は存在としてはリアリズム的に生きているが、類型的・通俗的な物の見方をする」 彼らに受ける作品としては、「君の名は。」「シン・ゴジラ」と言った、「夢を見させる作品」でいいわけだ。しかし、彼らが、彼らの認識範疇に則って世界を見ているという事柄と、彼らが「実際には」リアルな存在として生きているのは違う事柄だ。
「わたモテ」の10巻で、ネモというキャラクターが、暗い日陰で壁に背中をもたせかけながら、パーカーに手を突っ込んで、もこっちを待ち受ける場面がある。ネモは、もこっちを見かけると「や」と短く挨拶する。
説明してもわかりづらいだろうが、「や」の一言、ネモがパーカーに手を突っ込んでいる姿、背を壁にもたせかけている感じ、明るいキャラクターのはずのネモが、もこっちをずっと薄暗い廊下で待っていたという事実…そこから、あの一コマを見た読者は戦慄を覚えたと思う。しかし、あの場面は十分に現実にあり得る。
こうしてトータルとして考えてみると、どういう風に考えられるだろう。現実というのは、非常に多くの情報を放っていて、それは「わたモテ」の一コマ一コマが、分析するに値するのによく似ている。しかし、現実を見る僕らはそれらをついつい類型的な視線に落とし込んでしまう。わかりにくいものより、わかりやすいものの方を好む。
芸術は、現実を写し出すわけだが、そこで、作者は現実の中に何を見出していくのかが問題となっていく。もう少し言えば、認識が創造に至るようなポイントというのがあって、我々は、優れた芸術表現を見ると、現実の中にそんなものがあったのかと改めて驚く事になる。つまり、見逃していたものを再発見する。
中井正一によれば、ターナーの絵が現れて始めて、ロンドンの霧はただ鬱陶しいものではなく、美しいものだと再発見されたらしい。ここで、芸術家はただ「自然」に忠実であるわけだが、それはある観点からすれば、我々が自然に忠実でないからこそ、芸術家の表現に価値があるという事になる。
「リアリズム」は、通俗的な作品を内側から突き崩していく。人間に対するリアリズム、ただ認識する、ただ観るという事柄が、人間は実は「ただ観る」という事さえ満足にやっていなかったのだという事を我々に認識させる。そこにリアリズムの力があるのではないかと思う。我々が当然だと思っていた事がある点から突き崩されていく。そこに異常なもの、突飛なものがあるわけではない。むしろ、我々が当たり前のものを見なかったから、芸術家は我々に改めて「当たり前」を教えてくれたに過ぎない。
「わたモテ」という作品は普通の青春群像劇になった感じがあるが、同時に非凡な作品にもなっている。この作品が非凡なのは、我々の平凡な人生が決して平凡なものではない事を、ごく自然な描写によって教えてくれるからと言っても良いかと思う。その場合、我々は、我々の平凡さの中にある非凡さを発見するだけの力がないために、波瀾万丈の物語や出来事を期待する。ショーペンハウアーにならえば、想像力とは、非凡なものを生み出す力ではなく、平凡なものを豊かに見せる事にある。そうなった時、僕らは僕らが想像よりも「豊か」であった事に気づく。
リアリズムというのは、平凡なものに視線を注ぐが、その結果は平凡なものとはならない。なぜなら、我々は平凡故に、非凡なものを求めるからだ。そして、平凡な我々をしっかりと見ていくと、我々は決して平凡ものではないという事が証左される。田村ゆりや、ネモのような人物は現実にはきっといるだろうが、それを描き切るのは並大抵な事ではない。この薄い線の中に、芸術家の見えない努力が横たわっている気がする。