6.恋人ごっこ
イレール殿下とのお話が弾むように、日記をつけ始めた。
毎日変わらない日常なので、大して書くことなんて無いのだけれど……今日は珍しく書くことが沢山あった。
まず個展の話。回廊に行ったらとても美しくて、不思議な絵があったということ。
そこでヴァーノンと会ったこと。個展に出展した画家がヴァーノンのお兄様だということを知ったこと。
その後、ヴァーノンとお茶をしたこと。このくだりはあんまり詳しくは書かなかった。
だって、今思い出すだけでも頬が火照ってしまうんだもの!
恥ずかしくて、書けやしない。
ペンを置いて、日記を閉じる。ばふっとふかふかの寝台にダイブした。枕を引き寄せて、ぐっと抱き抱える。
とくとくと心臓が鼓動してる。
なんだろう、この気持ち。
ふんわりとしたミルクのやわらかな風味が思い出される。
あのクリームの味を、ヴァーノンと共有した。
「~っ!!」
なんなの、なんなの!
なんなのこの気持ち!
きゅって胸がつまるの。胸がいっぱいでつらくなるから、私はますます枕を抱え込む。バタバタと足を動かした。
恋人ごっこ。
夢にまで見るくらい憧れた、恋人ごっこ。
それを、してもらっちゃった。えへ。
してもらっちゃった、というより、気づいたらしていたって感じなんだけど。
自分とは縁がないんだと思ってたから、恋人ごっこができただけで嬉しい。
これはあれかな、ようやく夢が叶ったから、嬉しさ余って胸がいっぱいになったのかしら。
それ以外に理由が思い浮かばないもの。
ころころと寝台を転がる。
うー、興奮して、眠れない。このままだとお肌にも悪いわ。
「誰か、誰かいる?」
寝台からむくりと身を起こして、人を呼ぶ。メイドのマリエルが一人で部屋に入ってくる。
「お呼びでしょうか」
「よく眠れるようなお茶を持ってきてくれる?」
「かしこまりました」
マリエルが一度退出した。
それからまたころころと寝台を転がる。スカイブルーのネグリジェの裾がめくれるけど、気にしない。
しばらくころころ転がっていると、トレイにティーカップとティーポットを乗せてマリエルが戻ってきた。
「お待たせしました。カモミールでよろしかったですか?」
「ええ。ありがとう」
私は枕を抱いたまま、寝台から足を下ろす。マリエルがティーセットをミニテーブルの上に置いた。
「珍しいですね、お嬢様がご自分でハーブティーをご所望されるなんて」
「うん、ちょっと日記を書いていたら、ドキドキしちゃって、目が冴えちゃったのよ」
「日記を書いていただけなのにですか?」
マリエルがティーカップにハーブティーを注ぐ。ふわりとカモミールの香りが漂った。
「何か素敵なことでもありましたか」
「素敵なこと……そうね、確かに素敵なことだったわ」
枕をきゅっと抱きしめる。
この胸いっぱいに広がる気持ちを、マリエルに伝えたいけれど上手に伝えられる気がしないわ。
ティーカップを受けとる。こぼれないように、枕は隣へ置いた。
「よろしければ、このマリエルに教えてくださいな。そんなにもお嬢様が嬉しそうにしているのは、とても気になります」
「ふふ、そう? それならそうね、あなたにだけ特別に教えてあげるわ」
「光栄でございます」
マリエルはエプロンドレスの裾をつまんだ。
彼女は私が子供の頃からお世話してくれているメイドだから、気が置けない仲。彼女になら、話してあげても良いかもしれないわ。
ティーカップをゆらゆら揺らしながら話す。
「先日、イレール殿下の指導役の騎士と会ったのは話したでしょう?」
「ええ」
「今日、偶然個展で会ったのよ。それで時間もあったし、お茶をしようということになって……」
ハーブティーを一口。カモミールの味が、口に広がる。
「女性に人気のカフェに連れていってもらったのよ。それで、男女二人で連れだって歩くなんて、デートみたいねって話になって」
あー、だめ、ほっぺがゆるゆるって弛んじゃう。
「ほら、私って恋愛とはほど遠いじゃない? デートっぽいことができるなんて思わなかったから、嬉しくて。それに彼ったら調子にのって悪ふざけするもんだから、ますます意識しちゃってドキドキしっぱなしよ」
もう一口、ハーブティーを口に運ぶ。カモミールを飲んでいるはずなのに、昼間のアールグレイの味が思い出された。
「よほど楽しかったことは伝わりました。貴重な体験ができて良かったですね」
「ええ。もう一度、彼と恋人ごっこができたら……と思ってしまったけれど、それは欲張りよね」
今日は私が絵が好きな個人として接してとお願いしたからこんな風に気楽にしていられたのでしょうけど、こんなことは滅多にないから。次に会うときは私は公爵令嬢で、あの人は一介の騎士にすぎないもの。
「お嬢様。念のためにお聞きしますが、お嬢様がドキドキするのは、『恋人ごっこ』にですか? それとも『騎士様』だからですか?」
マリエルがおかしな質問をする。
「どういうこと?」
「いえ……今のお話を聞いたところ、お嬢様が騎士様に気があるように伺われたので」
私がヴァーノンに気がある?
え、それはつまり……?
「お嬢様、恋に恋するのをやめろとは言いません。でも、恋をしておつらくなるのはお嬢様なのですから、それだけはゆめお忘れなきよう」
恋をする。
私が恋をする?
この気持ちは恋なの?
……ううん、違う。これは長年の憧れが実現したからよ。
「な、何をおかしな事を言っているの。私は恋なんてしません。イレール殿下と婚約している身で他の殿方にうつつを抜かすなんてこと、公爵令嬢としてのプライドが許さないわ」
「それでも唐突に落ちるのが恋というものですよ」
マリエルの言葉に、得たいの知れない重みがのし掛かる。
「本当の恋は理屈で抑えることはできません。お嬢様の行動が制限されているのも、旦那様が殿方との接触を極力減らそうとしているからですよ」
「知っているわよ、それくらい」
「恋は魔物です。お嬢様、お気をつけくださいね」
私はちびちびとティーカップに口づける。
分かってる。分かってるわ、それくらい。
私もダメね。浮かれすぎて、余計な心配をかけてしまったわ。そのせいでお小言もらっちゃった。
カモミールの香りと、マリエルのお小言で、浮き足立っていた心がすっかり落ち着いた。
私は公爵令嬢で、もうすでに婚約者がいる身。
他の殿方にうつつを抜かすことはできない。
それでもまだ、恋に恋するお年頃なのよ。
とくとくと静かに脈打つ胸が、恋人という響きにときめくのはやめられない。
たぶん、しばらくしたらそれも治まるでしょうけど。久しぶりの外界の刺激が新鮮だったから。
楽しかった気分が、少しだけ落ち込む。
よく分からないけれどマリエルの言葉の重みが、胸にたまった。
「マリエルは、恋をしたことがあるの?」
「ありますよ。言いませんでした? 私は旦那と恋愛結婚をしております」
今年三十になるマリエル。子供が一人いるから結婚していたのは知っていたけど、恋愛結婚だったとは。
「恋をするってどんな気持ち?」
「そうですねぇ……とても激しいものでしたよ。恋をしていた頃は四六時中、あの人の顔が思い出されて、何をするにしても手一杯になっていました。会うと彼に対する欲が顔を覗かせ、お別れすると物足りなさがおしよせてきていましたね」
「ふぅん……それなら大丈夫よ。私、ヴァーノンをそんな風に思わないもの」
「恋とは千差万別です。私の恋の形がお嬢様と同じになるとは言い切れませんから」
そういうものなのね。
まぁでも参考までになったかしら。
やっぱり私が憧れるのはデートみたいな、恋人らしいことだもの。だから別にヴァーノン自身に恋をしたわけじゃないから、大丈夫。
手元のハーブティーをくいっと飲み干す。うん、やっと落ち着いたわ。
空になったティーカップをマリエルに手渡した。枕を回収しつつ、シーツに潜り込む。
「マリエル、もう下がって大丈夫よ」
「かしこまりました。良い夢を、お嬢様」
マリエルがティーセットを手早く片付け、燭台の灯を消して出ていった。
私は一人、暗い寝台で目をつむる。
とくとくと脈打つ心臓は、カモミールのおかげですっかりと静かになった。