3.殿下の付き人
どうしてヴァーノン様は私を知っていて、私はヴァーノン様を知らないのか。
イレール殿下の素朴な疑問に、私は返答に窮した。
いやだって、私も人間だから全ての人を知っているわけでもないし……かといってそのヴァーノン様とは接点がないもの。知らない方が当然なのよ。
でも、向こうは私の事を知っている。公爵令嬢ということに加え、自分が仕えるイレール殿下の婚約者、もしかしたらパーティの時にどこかの御子息と私に関する噂話をしていたのかもしれない。
私は良しくも悪しくも社交界では目立っているから……。
私がイレール殿下と婚約していることは暗黙の了解となっている。だからパーティに呼ばれても、私をダンスに誘う人はほとんどいないの。
見合い相手を探すために、見境なしに社交界に出ることもない。出たとしても、ダンスに誘うのは主催者からの接待で。
それが嫌で全ての招待をお断りしようとも思ったこともあるけれど、お父様に全く社交界に出ないのも、引きこもりと噂されて見聞が悪いと宥められた。
だからパーティーに出ても壁の花。
イレール殿下が社交界に出るようになってくれれば、そんな事はなくなるけれど……それを教えてしまえば、心優しい殿下を悲しませてしまうかもしれない。
憶測で話してはならないし、その根拠を話すのも気が引ける。
うーん、どうやって話そう……。しどろもどろになっていると、コンコンコンとノックが三回響いた。
「どうぞー」
イレール殿下が返事をすると、ゆっくりと扉が開かれた。
入ってきたのは一人の騎士。
少しだけ寝癖が残ったような黒髪を後ろで一つに括り、獣のような金の瞳を持った精悍な顔立ちの青年だ。青を基調に白の縁取りがされた騎士服に身を包んでいる。これは近衛の騎士服だわ。
見慣れない顔ねぇ。誰だろう。
まぁ、騎士なんていちいち気にしても意味がないのだけれど。
そう思いながら入ってきた彼を見ていると、きびぎびとした所作で、イレール殿下のすぐ側まで来た。
「ご歓談中失礼する。殿下、そろそろ時間ゆえ……」
「ヴァーノン、ちょうどよかった! あのね、今ちょうどお姉さまにヴァーノンのお話をしていたところなの!」
イレール殿下が騎士の言葉を元気よく遮った。
なるほど、この人がヴァーノン様。私はすっと手元の扇で口許を隠した。なかなかのハスキーボイス。耳元で話されると、甘い声に腰が砕けるかもしれない……
「私の話?」
「そうなんだ。ヴァーノンはお姉さまを知っていたけど、お姉さまはヴァーノンを知らなかったから、どうしてってお話をしてしてたんだよ」
おおっと殿下ー! そんな無邪気に本人の前で言わないでほしいですー! うっかりどこかでご挨拶とかしてたら気まずくなってしまうじゃないですかー!
恐る恐るでヴァーノン様を見ると、彼は少しだけ眉をしかめて視線をそらした。一度明後日の方を見て視線を戻したヴァーノン様と視線がかち合う。
「……殿下はもう少し、物事を考えながら話されることを学んだ方が良い」
「え? ぼくおべんきょう不足?」
「いや……」
ため息をついたヴァーノン様。
それから姿勢をただし、左胸に手を当てる。騎士の礼だ。
「挨拶が遅れて申し訳ない。私はセーヴル青雲騎士団所属、ヴァーノン・ベルレアン。イレール殿下の護衛役兼指導役を務めさせていただいている者だ」
あ、良かった。本当に初めましてみたい。やっぱりどこかで私のことを一方的に見かけたタイプね。
私はゆったりと立ち上がり、ソファーから離れて、ヴァーノン様の側に立つ。ドレスの裾をつまんだ。
「アンリエット・エマ・ムーリエと申します。ヴァーノン様におかれましては、イレール殿下に良き指導をしていただいているようで、お礼申し上げます。これからも良き師として、導いて差し上げてくださいませ」
「勿体ないお言葉。私は騎士として当然の事をしているまで……それに、アンリエット様の方が身分が高いので様付けも不要です。ヴァーノンとお呼びください」
「ふふ、イレール殿下は私にとって弟のようなものなのよ。弟が世話になっている方に挨拶するのは当然でしょう?」
あ、やっぱり身分も下なのかー。ベルレアン……どこかの片田舎の下級貴族にそんな家があったような……平民の可能性もあるけれど、第三王子につくことができるような平民って何者ってなるから、たぶん最低限貴族階級が保証されるはず。
まぁ、身分が下ってことが分かっただけでも良しとしましょう。
私が挨拶を解くと、ヴァーノンも礼を解いた。
イレール殿下もソファーから飛び降りて、とことこと私のすぐそばに来る。
私の腰くらいの位置にある頭を引き寄せた。ぱふっと殿下もドレスに頬を寄せて抱きつく。ぐりぐりと頭を押しつけたあと、上を向いた殿下と目が合う。
「ヴァーノンもお姉さまも、初めましてなのですか?」
「そうね。挨拶するのは初めてよ」
「でも、ヴァーノンはお姉さまを知っていました」
うーん、どうしてもそこに戻っちゃうのね?
私が辟易していると、ヴァーノンさんが助け船を出してくれた。
「殿下、それはまた後で詳しくお教えしよう。ムーリエ公爵の公務が終わられた。馬車の支度も整っていると、ムーリエ公爵令嬢を呼びに来た者が外にいるのだ」
「あら、もうそんな時間なの?」
お話ししていると、時間がすぎるのはあっという間ね。
私はしゃがんだ。ブラウンとイエローのドレスが絨毯の上にふわりと広がる。
イレール殿下の視線に合わせる。青い瞳に私がいっぱい映りこむ。
「殿下、お話楽しかったです。次にお会いするときは、また楽しいお話をお聞かせくださいね」
「はい。お姉さまにたくさんお話しできるように、剣のおけいこも、お勉強もたくさんがんばります」
胸の奥がきゅんとする。
あーもー、可愛いなぁ。次会うときまで頑張るよと宣言するイレール殿下。きりりっとするけれど、まだあどけなさを残すお顔のせいでとっても可愛らしい。ついつい頬がゆるんじゃう。
「それでは失礼致します」
私は立ち上がると、名残惜しいけど王宮の客間を後にした。
◇◇◇
帰りの馬車で、お父様とお話をした。
アドリアン・ユーグ・ムーリエ公爵。
私よりも濃い金の髪に、深緑の瞳。厳しい顔つきで考え方もその通り厳しいところがあるけれど、本当は繊細で傷つきやすいという、外面と内面にちょっぴり差がある人。
私のお茶会はお父様のお仕事のついで。こちらから頻繁に会いに行くわけにもいかないので、お父様が国王様とお話しされている間、私がイレール殿下のお相手をするという形をとっていた。それが昔からの慣習で、今も続いているだけ。
がたごとと馬車に揺られながら、向かいに座るお父様が私に話しかけてきた。
「アンリエット、イレール殿下とは楽しく語らえたかね」
「ええ。剣を習ったと仰ってました。大きくなったら、私を守る騎士になってくれるそうですよ」
「それは困るな……護衛騎士ではなく、お前の旦那様になってもらいたいのに」
「子供の戯れ言ですよ。心の持ちようとして騎士道に憧れているのだと思います」
ちくりと棘が刺さる。
お父様はとても繊細だけれど、繊細ゆえに神経質。この婚約は必ず成功させなければと考えている。だから私に、事あるごとに釘を差してくる。それがたまに、重たく感じる。
第一王子殿下と婚姻するわけではないのに、どうしてか王太子妃に接するような厳しさがかいま見えるの。どうしてかしら?
「他には何を話したんだい」
「社交界のお話を少し。先日伺ったクラヴェリ伯爵令嬢のお披露目パーティーに着たドレスを見たいとせがまれたので、今度お会いするときに着るお約束をしました」
「あのグリーンのドレスか。それはいい」
お父様は嬉しそうに目を細める。
「愛らしく飾っていくんだぞ」
「もう、お父様ったら。今お別れしてきたところよ? 殿下も剣のお稽古にお勉強にお忙しいのだから、次にいつ会えるのかは分からないわ」
ついさっきまで会っていたばかりなのに、もう次の話なんて。
ドレスを着るお約束はしたけれど、次会う日はいつかまでお約束はしなかった。たぶん、最近のペースから、次会うのはまた一ヶ月後じゃないかしら。
花を散らした森の妖精のような淡いグリーンのドレス。
デザインが気に入っていたから、また着れるのは嬉しい。パーティードレスは基本的に一度着たら二度と着ないから。流行をサーチして、その都度作るからね。どんなに気に入っても基本的には二度と同じドレスに袖を通すことはない。
「私の事より、お父様はどうでした? 国王様と有意義なお話はできました?」
「もちろん」
お父様が国王様と何をお話しされているのかは、私は知らない。でも、国のため、家のためになることだろうと信じているので気にはならない。
この婚約も、お父様のお仕事の一助となると信じているから苦ではないし、婚約相手のイレール殿下は可愛らしく私を慕ってくれるので不満なんてない。
そう不満なんて……ないと思っているはずなのに。
でも、ふと思ってしまった。
揺れる車窓から、沈んでいくオレンジ色の太陽を見つめる。
女性の流行は過ぎるのが早い……か。
私は今十七歳。
花も恥じらう乙女。
人生の花の時が、このままで良いのだろうかという後悔はある。
私はお国のため、お家のためと思ってこの立場に甘んじているけれど……
私のための時間は、どこにあるんだろう。