第005話 対象不備02
厄介なことになったと頭を抱えたくなる。彼が本当に記憶喪失なのだとしたら転生魂魄特別措置法への対策だろう。ここ最近は大抵転生特典の異能を使用させて半ば強引に侵略的異界転生体被害防止法を適用して駆除していたが、彼は言語に関する転生特典すら得ていないので異能を取得しているかも怪しい。それに仮に異能を取得していたとしても彼が記憶を取り戻さない限り、自覚なく異能を行使したとしても侵略的異界転生体被害防止法を適用出来ないので手の打ちようがないことは間違いなかった。
俯いて自分の世界に没入してしまってる転生者の左手にそっと右手を重ねると彼は顔を上げ、こちらへと意識を向ける。そんな彼の目を柔らかくみつめながら囁く。
「安心してください。きっと大丈夫ですよ」
彼は言葉の意味は理解出来なくともなにかを感じ取ったようで、重ねられた私の右手の上に左手を重ねて『ありがとう』と返した。
それに微笑みで応え、もう一度「大丈夫ですよ」と繰り返す。数十秒そのままの状態が続き、手を退かすに退かせなかった私は眉をハの字にして困ったように左手人差し指で頰をかいて見せる。彼は慌てたように『すいません』と重ねていた手を退けてくれた。
ちょっと気まずい雰囲気になり、ふたりして沈黙する。そんな妙な雰囲気にくすぐったさを覚えたようにして私は控えめにくつくつと笑うとつられるようにして転生者の彼も笑ったので少しは打ち解けただろうと胸を撫で下ろす。
「もう少ししたら治療師の先生が来ますからそれまで横になって休んでいてください」
両肩をそっと押して横になるよう促す。彼は抵抗することなくこちらに身を委ねるようにして身体をベッドに預ける。意識を取り戻したばかりで本調子には程遠い彼は横になるとすぐに眠たげにまばたきを繰り返す。そんな彼のお腹を軽くさするように手を添える。
「今はゆっくりとおやすみなさい」
柔らかく微笑みながら告げると彼はほどなくしてすうすうと寝息を立て始める。そんな彼の体温を手のひらに感じていると私の方も睡魔に誘われ、いつの間にやらまぶたを落としていた。
「おい、エル。起きろ」
という声とともに少々乱暴に肩を揺らされて目を覚ます。かすむ目をこすり、口元に手を当ててあくびをかみ殺しながら声の主へと顔を向ける。
「おかえり、ユール。先生呼んで来てくれた?」
「もう治療も終わってる。先生にはさっき帰ってもらったよ」
「ちょっと、なんで起こしてくれないのよ」
「いや、あんまり気持ちよさそうに寝てるからさ」
「その割には随分と乱暴な起こし方された気がするんだけど」
「わるかったよ」
「それで先生への謝礼はどうしたの?」
「俺の方で立て替えておいたよ」
「いくら?」
「別にいいよ」
「で、いくら?」
「あー、いや、金はいいよ。ただ他の形で返してもら」
「あのさ、そういう小狡いことやめてくれる? 不愉快なんだけど」
「いや、俺は」
「なに、身体で払って欲しいの?」
「そういうことじゃねぇよ」
「じゃあ、なに?」
「頼むから話をさせてくれよ」
長くわざとらしいため息をついてみせる。
「私はあんたと会話する気はないの、わかる?」
「わかんねぇよ」
これ以上ここでわめきたてられても面倒だと彼の腕を掴んで部屋の外へと連れ出し、そのまま玄関ホールに向かうと突き飛ばすようにして距離を取り、両腕を組んで少し高い位置にある彼の目を睨みつける。
「金額は聞かない。後日、相場の3倍の額を払うから今日はもう帰って」
「金額の問題じゃねぇよ」
何度となく食い下がり続ける彼にはなにを言っても無駄だと悟り、方針を変えることにする。くしゃりと表情を崩して声を震わせながら弱々しくうめくようにしてつぶやく。
「ねぇ、なんで私を困らせようとするの?」
「困らせたいわけじゃ」
それでも言い募ろうとする彼を黙らせるように目尻に涙を溢れさせ、軽く握った手で彼の胸板をとすんと叩く。
「帰って。お願いだから帰ってよ……」
尻切れるように言って、その場にへたり込む。そんな私へと手を伸ばして来る彼を拒絶するように語気を強めて「触らないで!」と声を張り上げると彼はびくりと硬直し、わずかに躊躇ってから無言で屋敷を出て行った。