8.おいしいってそんな感じ
食卓の上にはインガが持ってきた手籠がそのまま置かれていた。わたしは椅子から立ち上がると手籠を手に取り、ルシアンに話しかる。
「ところでルシアン、そろそろお腹、空いてない?」
「どう……でしょう。ちょっと物足りなくなってきたような気もしますが」
「ええとね、〈塔〉への報告書を書くにあたって、できれば、あなたの食べ物の好みなんかも知っておきたいの。それなりにお腹が空いているようなら、軽い食事を用意してみようかと思うのだけど」
「あ、ならぜひ」
「じゃあ、用意するわね」
壁際に据えつけてある食べ物の棚の前に移動して、わたしは手籠の中身を確かめた。
雑穀の混じった丸いパンが四個に山羊乳のチーズがひと切れ、陶器の器に入っているのは豆と野菜の煮付けのようだ。
(前にもらった杏の蜜煮、まだ残っていたはずよね。それとやっぱり葡萄酒も出そう)
昔馴染みの竜を思い出しながら、わたしは棚の下のほうに入れてあった秘蔵の葡萄酒を取り出す。
ルシアンはおそらく竜だ。すべての竜が酒好きとは限らないかもしれないけれど、お酒を気に入る確率は高いのではないか。
ナイフでパンとチーズを薄く切り、平皿の上に盛り付ける。それとは別の皿を用意して、杏の蜜煮、豆の煮物を少量ずつ取り分ける。
(お酒は後で出すとして、とりあえずこのあたりで様子を見てみようか)
食べ物をよそおった器と水を継いだコップを盆に載せて、わたしは食卓へと運んだ。
「召し上がってね。お口に合うものがあればいいんだけど」
目の前に並べられた食べ物を、ルシアンは物珍しそうに眺めまわす。そしておっかなびっくりといった様子で、まずパンに手を伸ばした。
パンを手に取ったのはいいが、そこでルシアンの動作が止まる。パンの両端をちんまりと行儀よくつまんだまま、問いかけるようなまなざしを私に向けてきた。
「ちぎって、そして口に入れて噛んで」
わたしがそう声をかけると、ルシアンは軽くうなずいて言われたとおりの動作をする。
ちいさな切れ端をちぎり取り、ゆっくりと口元へと運ぶ。そこで一瞬躊躇して、でも次の瞬間、思い切ったように口の中に頬張る。
神妙な顔つきでもぐもぐと口を動かしていたルシアンだったが、やがて笑顔がぱあっと顔一面に広がった。
「どう、おいしい?」
「はい!」
わたしの問いかけに、ルシアンは笑顔で答えた。
「不思議な感じ――満たされて、身も心も元気になれる、そんな感じです。たぶんこれが、食べ物がおいしいっていうことなんですね」
「そうそう、おいしいってそんな感じ。ああ、よかった。でも、何か変だと思ったらすぐに言ってね。ここにあるものは、こちら側の人間にとってはごく普通の食べ物だけど、あなたにとってはよくないものがあるかもしれないし」
「そうですね。気をつけます」
「とりあえず、パンは大丈夫そうね。ほかのものも試してほしいけど……慎重に、少しずつね」
「はい」
ルシアンはちびちびと皿の上のものを口に含んで咀嚼する。
新しいものを口にするたびにルシアンの表情はころころと変わった。
チーズは普通。豆の煮付けはさほど気に入らなかったのか、神妙な顔つきになっていた。そして杏の蜜煮は……
「これ、おいしいですね!」
最初のひと口を飲み下すや否や、ルシアンは満面の笑みを浮かべて言った。
「気に入ったようね」
「はい! 今まで食べた中で一番おいしいです」
「あなたの好きなものが見つかってよかったわ」
たしかにインガの作った杏の蜜煮はなかなかにおいしい。杏を蜂蜜に漬け込んでから、ゆっくりと火を入れたものだ。ただ、おいしいには違いないが、蜂蜜はまとまった量を手に入れることがちょっと難しいので、なかなかに贅沢な食べ物でもある。こればかりを大量に要求されてはわたしも困ってしまう。
だが、目の前の青年の幸福そうな顔を見ていると、こちらまで頬が緩みそうになる。
ルシアンが蜜煮を食べ終わるのを見計らって、わたしは声をかけた。
「でね、もうひとつ、試してもらいたいものがあるの。少し待っててね」
使い終わった皿を盆に載せて、食物棚の前へと移動する。
そして棚の脇に取り出しておいた酒瓶の栓を抜いて、ゴブレットに葡萄酒を注ぎ込んだ。
食卓のそばに戻ると、期待に満ちた目で見上げるルシアンの前に、そっとゴブレットを置く。
「最後の一品よ。どうそ召し上がれ」
ルシアンは目の前に差し出されたゴブレットを興味深そうに見つめている。
「少しずつね?」
わたしの言葉にこくりとうなずくと、ルシアンはゴブレットを持ち上げて口元へと運び、用心深く最初の一口を含んだ。
「わあ……」
ルシアンは呆けたような表情を浮かべ、感嘆の声を漏らした。
「すごい……」
そうつぶやいて、ルシアンは葡萄酒の入ったゴブレットをじっと見つめる。
どうしたんだろう。おいしかったにしては反応が大きすぎる。なにか、よくない点でもあったんだろうか。
「どうしたの、大丈夫?」
不安になって、思わずわたしは問いかけた。
「え、ああ、大丈夫です。ただ、びっくりしたんです。あんまりおいしいので」
そう応えると、ルシアンはうっとりしたような表情で続けた。
「さっき、最後に食べたのも、すごくおいしかったんですが、これは……なんでしょう。あったかくて、とろけるようで……すごいな」
「気に入ったのね」
「ええ、とても!」
極上の笑みを浮かべて、青年は力強くうなずく。
(なんて嬉しそうなんだろう。それにしても、竜というものは、みなお酒が好きなんだろうか)
そう言えば、古い伝説にもあったような気がする。
酒好きの竜。酒を飲みすぎて酔っ払って骨抜きになって、ついには英雄に討ち果たされてしまう、そんな竜の話が。
(でもあれは、こちら側にいる『亜竜』の話だと思っていたんだけど)
ひとくちに竜といっても、二種類のものがいる。
ひとつはこちら側の世界で見かけることのできる、普通の動物に近い生き物だ。それなりの魔力と知性を具えていて、見た目もあちら側の竜とよく似ているが、生命の在り方がまるで違っている。あちら側の竜と区別をつけるために、『亜竜』と呼ばれることが多い。
もうひとつは、あちら側の世界にしかいない竜。神のごとき力を具えた、精霊に近い存在である。亜竜に対して、『真竜』と呼び分けている。
(真竜であれ亜竜であれ、竜はみなお酒が好き。そういうものなんだろうか)
ルシアンはおそらくあちら側の存在で、竜――真竜――と縁のある存在だろう。〈塔〉時代に知り合いだった竜も、当然のように真竜だ。
ふたりがそうだったからと言って、すべての真竜にあてはめてしまうのは危険だろう。けれども、そう考えたくなるほど、ルシアンも昔馴染みの竜も、お酒を喜んで飲む。
「おいしいなあ……」
溜息をつきながらそうつぶやくと、ルシアンはふた口目もあっという間に飲み下し、さらに続けてゴブレットを口元へと運ぶ。
(慎重に少しずつって言ったのに)
咎めるべきだろうか。だけどルシアンがあまりにも嬉しそうなので、わたしはただそのまま様子を眺めていて。
気づけばルシアンは、ゴブレットの中身をすっかり飲み干していた。
「ふわぁ……」
気の抜けたような声をルシアンは漏らした。
「すご……なんらか、くらくらしてる……」
「えっ?」
とろんとした瞳。ろれつの回っていない口調。
わたしは慌てて椅子から立ち上がってルシアンのそばに駆け寄り、その肩をゆする。
「ちょっと、大丈夫?」
「え、あ、はい。だいじょうぶ。でも、なんかねむたくて……」
そう応えるルシアンの顔は、すっかり赤らんでいる。
どう見てもこれは……酔っ払っているとしか思えない。
(でもちょっと待って! あちら側の存在がこちら側のお酒に酔う、そんなことってあるものなの?)
あちら側の存在がこちら側の食べ物から吸収するのは、食べ物に宿った『精気』そのものだ。口にするものによって吸収の効率が変わることはあるだろうが、こんなふうに人間と同じように酔ってしまうなんて。
昔馴染みの竜の印象が強すぎたのかもしれない。竜は酒に強いもの、そんな先入観があったのはたしかだ。
「あー……」
呆然と眺めているわたしの目の前で、ルシアンはちいさなうめき声をもらすと、がくんと食卓の上に突っ伏した。
カラン、とちいさな音をたてて、手にしていたゴブレットが食卓の上に転がる。
そしてそのまま、ルシアンはすうすうと静かな寝息を漏らし始めた。