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黄金竜の約束  作者: 霧原真
第1章 来たれ、愛しき竜よ!
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6.インガ来訪

「ところであなた――ううん、ルシアン、お腹は空いてない?」


 何気ない調子で、わたしは問いかけてみる。


「お腹が空く――ええと?」


 ルシアンは不思議そうな顔で問い返してきた。

 空腹という概念がわからないのだろうか。

 やはり、彼は異界の存在、もしくは精霊に類するものなのだろう。


 こちら側の普通の動物は――人間も含めて――食べ物から栄養を摂って生命を保っている。魔法を使える生き物でも、普通の動物に近いものは食べ物を食べないと生きてはいけない。

 一方、精霊のように『精気』が凝り固まって生まれ出た存在は、普通の食事をすることはない。世界に漂う魔力を吸収することによってその存在を維持しているのだ。

 異界の存在は、動物よりもむしろ精霊に近い。あちらにいる限りは、わたしたちのような形で食事を摂ることはないのだという。あちら側の世界では、こちら側とは比べ物にならないほど魔力が濃く、呼吸をするだけで自然に満たされるからだ。


 けれども、あちらから来たものたちがこちら側でも食事を摂らないかといえば、そうではないらしい。こちら側の薄い魔力では、ただ呼吸しているだけでは不充分なので、食事を摂って魔力――彼らにとっての生命の源――を、補っていく必要があるのだ。

 彼らが必要としているのは、食べ物そのものではなく、食べ物に宿っている『精気』なのだという。もしかしたら、魔力を多く含んでいるなら霧や霞なんかでも充分なのかもしれないけど、どうも『食べるために用意されたもの』から摂取するほうが効率がいいらしい。


 彼らの消化器官がどうなっているかは、あまり考えないことにしている。

 竜や精霊は用を足したりしない。うん、きっと、たぶんそう。


 もっとも、ひんぱんに向こう側に『里帰り』して魔力を補充できていれば、こちらで食事を摂る必要はあまりなくなる。そういった事情もあって、わたしは必要のない限りはアンベルを向こう側に戻すようにしている。


「えとね、魔力が空っぽで物足りなくて、何かを取り入れなくちゃっていう、そんな感じのこと。それをお腹が空くっていうんだけど、どう、大丈夫そう?」

「そういえば……ちょっと足りてないような気がします。でも、まだしばらくは平気じゃないかなと」

「そう」


 どうやら緊急に食事を用意する必要はなさそうだ。

 でも、何を食べさせたらいいんだろう。

 アンベルはめったにこちらで食事を摂ることはないが、山猫の姿にふさわしく、肉が好きだ。

 〈塔〉にいた頃に知り合いだった竜はお酒がめっぽう好きで、たおやかな外見にふさわしくない酒豪ぶりを発揮していたっけ。

 ルシアンは……どうなんだろう。やっぱりお酒がいいんだろうか。

 わたしはお酒が飲めないわけではないけれど、普段からたしなむわけではないので、ほとんどうちには置いていない。薬として使うための薬草酒や、特別な日のために取っておいた葡萄酒、消毒に使う蒸留酒が少しずつ置いてある程度だ。お酒を欲しがられても応えられそうにない。

 パンとお茶と果物、その程度で済むならいいんだけど。それならうちにも……


 ……あ、もう、食糧が切れかけてるんだっけ。そういや、今日は兄嫁のインガが食べ物を持ってきてくれる日だ。


 うわ、まずい。


 うちには今、ルシアンがいる。ルシアンを見たら、インガは何と思うだろう。

 船が上陸した気配もないのに、突如現れたよそ者。纏っている衣装は、丈の合っていないわたしのローブ。

 うわああ、怪しすぎる。

 どうしよう。また姿隠しの魔法をかけるべき?

 ううん。どっちみち、ルシアンがここにいることは、いつまでもごまかせるものじゃない。なにか言い訳――というか、わかりやすい説明を考えておいたほうがいい。

 どう言えば、一番怪しまれないで済むだろうか。


 と、そうやって考え込んでいる真っ最中に。


「アルヴィラ、来たよー!」


 外へと続く扉の向こうから、呼びかける声が聞こえてきた。

 インガの声だ。

 ええっ、もう来るなんて。いつもは来るの、もっと遅い時間じゃなかった?


《姿隠しの魔法であれを隠すかね?》


 アンベルがわたしの顔を見上げて問いかけてくる。


《いいえ。ああでも、軽い目くらましを。ローブがまともなのに見えるよう、ちょっと調節してくれたら》

《了解》


 さて、どうする? インガに納得してもらうには何と言えばいい?

 腹をくくって、わたしは扉を開けた。

 

 わたしと同年配の背の高い女性が、右手に手籠を下げ、扉の前に立っていた。

 その足元には幼い男の子が隠れるように立ち、インガの服の裾をぎゅっと握りしめている。兄さんとインガの末っ子、ハーコンだ。


「こんにちは、インガ。ハーコンも来たのね」

「こちにわ、アーヴィ」


 幼い子供は母の裾を握りしめたまま舌足らずな口調で挨拶すると、はにかんだような表情でにこりと笑いかけてきた。

 ふわふわと柔らかな巻き毛は燃え立つ炎のような明るい赤。兄さんや私と同じ色を受け継いでいる。


「なんだか今日はあたしから離れたがらなくてねー。連れてきちゃった。アルヴィラ、元気だった?」

「前に来てくれてからたった五日じゃない。変わりなく元気にしていたわ」

「そかそか、ならよかった!」


 朗らかにインガはそう言うと、にかっと笑いかけてきた。

 明るくて気さく。インガはいつもこんな感じだ。幼い頃は一番仲のいい遊び相手だった。


「じゃあ、お邪魔するね」


 元気よくそう応えて、インガは大股に家の中に歩み入る。


「あらっ! お客様? 珍しいなあ」


 わたしが説明するのを待たず、インガは手にしていた手籠を食卓の上にぽいと置くと、ルシアンのそばに歩み寄って、しげしげとその姿を眺める。


「ねね、あなたアルヴィラのお客様?」


 遠慮なんてかけらもなく、インガはあっけらかんとルシアンに問いかけた。

 一方のルシアンはインガの勢いにのまれたのか、びっくりしたような表情を浮かべて、ぽかんと彼女を眺めている。

 あ、ルシアンのローブ、寸法がまともになっている。ううん、まともに見えている(・・・・・)。材質や形は元から着ているものと同じままなんだけど。

 さすがアンベル。いい仕事してるなあ。ほとんど時間なんてなかったはずなのに。


「あー! そかそか、アルヴィラの知り合いの賢者さん? そんな感じの恰好だし。

 船が着いた様子はなかったけれど、賢者の人なら空飛んできたって不思議じゃないか!」


 ううん、賢者でも普通は空なんか飛べない。〈空間転移〉の魔法によって、一瞬にして遠距離を移動することはあるけれど。

 ……なんて説明をする間もなく、インガは勢いよく話し続けていた。


「ようこそヴィルゲン島へ! アルヴィラはすんごくまじめに賢者やってるよ。島の子供たちはみんな、ちゃんと文字が読めて算術も得意になってきてるもんだから、生意気になっちゃって困る、なんて、苦情を言う奴まで出てきちゃうくらいさ!」


 なんだろう。たしかにそのとおりなんだけど、褒められてるんだか、けなされてるんだか。


「そうなんですか」


 おっとりとした調子で、ルシアンは笑顔で相槌を打つ。

 あれ、意外と如才ないのかも。きっと混乱しているだろうに、落ち着いた態度で応対している。


「ねこ!」


 母親にくっついていたハーコンが、嬉しそうに声をあげて、わたしの足元に控えているアンベルのそばにしゃがみこんだ。


《!》


 声ならぬ声で、アンベルが悲鳴のようなものを漏らす。


《相手してあげてよね、アンベル。邪険にしないで》

《……子供は苦手なのだが》

《まあそう言わないで》


 とは言うもの、たしかに小さな子供が手加減もせずに動物を触りまくるのはよくない。アンベルなら子供に傷を負わせるような心配はないけれど、他の普通の猫でも同じことをするようになっても困るし。


「ハーコン、猫はね、無理やり触られるのは好きじゃないの。嫌がってたら離したげてね」


 ハーコンはわたしを見上げると、琥珀色の目を大きく見開いてこくりと頷いた。わたしが頷き返すと、嬉しそうな様子で小さな手をそっとアンベルに伸ばす。


「ねこ、いいこ、いいこ?」


 ああ、素直な子だなあ。

 赤い髪に琥珀色の瞳。目や髪の色はわたしや兄さんと同じだけど、性格はインガに似たんだろう。頑固で偏屈なところのある兄さんとはずいぶん違う。


《いや、こうやたらと動物などを触りたがるのは、むしろ叔母である主譲りだろうと。はぅあっ!》


 アンベルが素っ頓狂な声を上げた。

 見た感じ、ごく優しくそっと撫でているようだけど、どこか変な場所にでも手があたったんだろうか。


《あっ、そこは……ひゃひゃっ》

《どうしたの?》

《……くすぐったいのだ》

《あらら》


 別に不快なわけではないらしい。放っておいてよさそうだ。

 そうやってわたしが猫と子供にかまけている間にも、インガはどんどんルシアンに話しかけていた。


「ねね、ここにはどんな用事で? どれくらいいるの?」

「えっと……」


 ルシアンが助けを求めるような視線を向けてきた。


「ああ、インガ。この人はルシアン。ちょっと急なお客様だったの。見てのとおり、〈塔〉の人なんだけど」

「そうなんだ」

「このところ、なんだかお天気がおかしいでしょ。それとほら、あの遺跡で、また昔みたいに魔力の変動があったらしくて。だからその調査のためにって」

「なるほどね!」


 適当に本当のことを混ぜ込みながら、しれっと嘘をつく。いやいや、天候がおかしいのも、遺跡で魔法の力が働いたのも、たしかに事実なんだし。


「滞在期間は……今のところ、ちょっとわからないかな。調査の進み方次第で変わってきそうだから」

「そかそか。ってことは、食べ物、いつもより多めに持ってきたほうがいいかな。若い男の人だもんね。いっぱい食べるでしょ?」

「ああうん、そうね。そうしてもらえるとありがたいな」

「それにしても、ルシアンさん、アルヴィラと親しいの?」

「え? いえ、そんなによく知ってるってわけじゃないんだけど」

「え、そうなんだ。いやね、アルヴィラ、女ひとり暮らしなのに、若い男の人がひとりだけで訪ねてくるなんて、なんかさ、そういう仲なのかなって」

「ち、ちちちがうって!」


 思わず声が裏返ってしまった。


「そうなんだ?」

「〈塔〉はその……適材適所で人材を選ぶの。この仕事には彼が向いてると判断されたから派遣されてきたわけで、決してそういうのでは……」

「ふーん?」


 さすがに苦しい言い訳だっただろうか。

 〈塔〉はたしかに能力に合わせて仕事を割り振るが、その〈塔〉と言えど、男女ふたりきりの組み合わせを選ぶことはそう多くはない。性の絡む厄介事は、賢者といえどもなかなかまぬがれることのできないものなのだ。


「まあそうか。アルヴィラ、〈塔〉を離れて五年だもんね。その間、特にそんな感じの人が来ることもなかったし、第一、五年前ならルシアンさん、まだ子供よね。若そうだもん」

「そうそう、そうなの。だから私もいろいろ戸惑ってて」


 ……ひやひやするなあ。

 ぼろを出さないうちに、早く帰ってもらったほうがいい。それはわかってるんだけど、インガはおしゃべり好きだから、適当にあしらうのも難しい。

 いつもなら頼れるアンベルも、子供に撫でられてすっかり蕩けちゃってるし。


「あのね、インガ。そんなわけで、わたし、今日はルシアンさんとちょっと仕事の話がしたいの。だから」

「ああうん。そうよね。今日はこれくらいで帰るね」


 インガはあっさりと言った。

 インガはおせっかいで世話焼きだけど、わりとこちらの都合を尊重してくれる。そういうところが、ほんとうにありがたい。


「あ、それから、もし手間じゃなければお願いしたいんだけど、至聖所の祭司様に連絡してくれないかな。今日は教室の日だけど、〈塔〉の用事を優先したいので、教室はお休みしたいって」

「いいよ! うちに帰る途中、ちょこっと立ち寄っていけば済むしね。けどアルヴィラ、〈塔〉の用事って大変なの? 教室休みにするなんて珍しい」

「うーん、大変かどうかはまだよくわからないけど、ちょっと込み入ったことになるかもしれない。その辺りも含めて、丁寧に打ち合わせしたいの」


 納得してくれただろうか。

 インガはけっこう勘がいいから、あんまり下手なことは言えない。けれど、インガをうまく味方につけておけば、村で気まずいことになったりはしないはずだ。村長の気さくで明るい妻は、村人たちから慕われているから。


「うんうん。あ、でね、夕ご飯、なんならうちに食べに来る?」

「ありがとう。でも、今日はとりあえずいいかな? 早目に仕事を進めてしまいたいし。落ち着いたらそのうちお願いするかもしれないけど」

「あー……、そうだね。うちもそのほうが助かるや。でも、必要になったら遠慮なく言って。どうせアルヴィラ、あったかいご飯をきちんと用意するつもり、ないでしょ?」


 うう、見透かされてる。

 ほんとうのところ、食事はインガのお世話になってしまったほうが楽だし、第一、そのほうがずっとおいしいだろう。けれど、ルシアンの食の嗜好がよくわからないし――とんでもないゲテモノじゃないと受け付けない体質だとか、そういう可能性だってあり得るのだ――食卓の作法だって、きっとぜんぜん知らないだろう。

 それに、インガは兄さんの妻。つまり、インガと夕食をともにするということは、兄と一緒に食事をするということでもある。インガや子供たちはいいけれど、兄と同じ食卓を囲むのは――正直、すこし気づまりだ。


「そっか、わかった」


 インガはそう応えると、アンベルと(アンベルで?)遊んでいるハーコンに「帰るよ」と声をかけた。


「じゃあ、アルヴィラ、ルシアンさんとしっかりね!」


 にっこりと笑いながらインガはそう言うと、息子の手を引いて立ち去る。


 うーん……

 インガの笑顔が妙に意味深だったような気がする。

 その……やっぱり、なんかちょっと失敗してしまったんだろうか。妙な噂が立たなければいいけど。


 一抹の不安を抱えつつ、わたしは兄嫁を見送った。


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