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黄金竜の約束  作者: 霧原真
第1章 来たれ、愛しき竜よ!
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5.あなたの名前は

 幸いというべきか、道中誰にも会うことなく、わたしたちは庵にたどり着いた。

 扉を開くと、わたしは目には映らない青年に向かって声をかける。


「さあ中へどうぞ。入ったら声をかけてくれる?」


 少し間をおいて、声が聞こえてきた。


「入りました。お邪魔いたします」


 礼儀正しい挨拶をつけて、青年は報告してきた。

 扉を閉めると、わたしは安堵のあまり大きく息をもらす。

 そのわたしの足元では、アンベルが露骨にため息をついていた。


《主をひとりにしておけば、家の中の片づけなぞろくにしないだろうと思ってはいたが……やはりか》

「そうかしら、言うほどひどくはないんじゃない? そりゃまあ、今朝の朝ごはん、片づけずに出てきちゃったけど」


 きちんと完璧に片づいているなんて、わたしだって思っていない。けれど、いちおう定期的に掃除しているし、出したものはなるべくすぐしまうように気をつけていたつもりなのに。


《食卓のありさまに加えて、脱ぎ捨てた服は畳まず椅子に引っ掛けたまま、寝台の敷布はぐちゃぐちゃのまま。やれやれだな》

「……ごめんなさい」

《細かいところをおざなりにすると、だんだん他のところもどうでもよくなってきて、結局だらしない生活を送ることになるのだぞ》


 お猫様のおっしゃるとおり、ではある。あるけれど、その……ついうっかり後回しってことだってあるでしょう?


 ああ、いけない。使い魔のお小言に気をとられていないで、さっさと姿隠しの魔法を解いてしまわないと。

 こういう地味な魔法を維持し続けるのも、実はけっこう疲れるんだから。


 わたしは目を閉じて気を凝らし、右手をさっと一振りする。

 再び目を開くと、わたしのすぐ真横にあの青年が立っていた。相変わらず素っ裸で。

 ……うううん。やっぱり裸でそばに居られると落ち着けない。早いところ何か身に着けてもらわないと、ゆっくり話を聞くどころじゃない。


「とりあえず着てもらうものを探すわね。ちょっと座って待っててくれる?」


 そう声をかけたものの、大きな問題があった。

 わたしはひとり暮らしだ。そう、今この家にあるのは、わたしの服だけなのだ。

 この村には仕立て屋も古着屋もない。島の女たちが織った布、あるいは男たちが本土に渡ったときに買い求めてきた布を、自分たちの手で縫い上げている。出来合いの服が急に欲しいと思っても、簡単に手に入るものではない。


(予備の典礼用ローブが一番ましかな)


 寝台の脇に置いてある長持を開けて、底のほうに畳んで押し込んであった黒いローブを取り出した。

 これなら幅にも丈にもゆとりがあるし、男女差もあまり問題にならないはずだ。


 でも、実際に着せてみると、ゆとりなんてぜんぜんなかった。

 わたしが着たなら完全に足首まで隠れてしまう裾丈なのに、彼が着ると脛がにょっきりとあらわになっている。胴回りもぱつぱつで、かなりきつそうだ。

 青年は一見ほっそりしているように見えるが、それなりに上背があるし、体格もけっこうしっかりしている。片や、わたしはどちらかといえば小柄だ。そのわたしの身丈に合わせた服では、どれほどゆったりしたつくりのものであっても、やはりかなり無理があるらしい。

 急場しのぎとしては最善の選択をしたつもりだが、さすがにこれではみっともない。後でアンベルを使いに出すなりして、ちゃんとした服を手に入れなくては。


「どう、着心地?」

「ちょっと窮屈です。それになんだかちくちくします……すみません、せっかくお借りしたのに、文句をつけるなんて」

「ううん、あなたの言うとおりだから。大きさ、ぜんぜん合ってないし。それに、本来はそれ、下着を着た上に着るものなの。それを直接肌の上につけてるんですもの。着心地なんていいはずがない。ごめんなさいね。でも、しばらくはそれで我慢してもらえる?」

「はい……」


 すまなさそうな様子で頭を下げる青年。

 ごめんね、ほんとうに悪いなとは思うんだけど、裸の相手と差し向かいではどうにも落ち着けないから。


「じゃあ、あらためて、あなたのことを聞かせてもらいたいの」


 わたしは青年を食卓の前に置かれた椅子に腰かけるよう促すと、もう一脚の椅子を書物机の前から引き寄せてきて、青年と差し向いになるように座った。

 猫に姿を変えたアンベルが、ひょいと食卓の上に飛び乗ってわたしの横手に座り込む。


 さて、何から聞いていけばいいだろう。

 聞きたいことははっきりしている。

 どこから来たのか。何をしに来たのか。そして、何者なのか。

 けれど、いざ向かい合ってみると、何とも切り出しにくいものだ。


「名前とかそういうの、まったく覚えてないって言ってたけれど、そうね……あそこに来る前、どんなところにいたかは覚えている?」

「あそこに来る前……ですか」


 青年は眉をしかめて考え込む。


「……すみません。はっきりしないです。ただ、ぼんやり覚えているのは、ここよりも暖かくて明るい場所だったような気が――なんだろう、空気の感じとかがこことは違ってたような――そんな気がするのですが」

「ほかに覚えていること、ある?」

「そうですね……」


 長く考え込んだ末に、青年は独り言のようにつぶやいた。


「……困ったな、やっぱり何も……思い出せない……」

「でも、あなたとわたし、こうして話ができているわけでしょう? 曲がりなりにも言葉が通じていて、意思を伝えあうことができる。それはたぶん、あなたが今までそういった経験を他の誰かとの間に持ったことがあるからだと思うのだけど」


《そうとは限らぬぞ》


 横合いからアンベルが言葉を差し挟んできた。


《われらの世界の力あるものの中には、生まれながらにして知恵と言葉を具えているものもいる。ただ、そういったものたちはおのれが何者であるかも生まれながらにして知っているわけだが》

「そうよね。だからやっぱり、『記憶を失っている』状態なんだと考えたほうがいいかなって思うの」


 アンベルに言葉を返すと、わたしは青年のほうに向きなおる。


「とりあえず今言えることは、あなたは普通の人間ではないってことかな」


 遺跡にいきなり湧いて出たこと。魔法をかけようとしてもかからないこと。どれを取っても普通とは言えない。

 彼が現われたときにほとばしったまばゆい光は、強い魔法が動いたときに起こる現象そのものだ。

 そう、あの光は十九年前、遺跡に竜が姿を現したときにわたしが見たものとそっくりだったではないか。


「普通じゃない――ですか」


 青年の表情がこわばる。


「あっ、その、変な意味じゃないから。ただ、そういうものなんだって前提で考えないと、いろいろ間違えてしまいそうで」

《いろいろごちゃごちゃと理屈を並びたててはいるが、実際のところ、こうだと思うところがあるのだろう、主よ》

「え、ええ、まあ、ね。でも、証拠が足りないし、断定するのは危ないかなって」


 言い訳するように応えると、アンベルは軽く鼻を鳴らして、あきれたような声で言った。


《〈塔〉の教育の成果というやつか。証拠を積み重ねて正解を得ようとする態度は悪くはないが、明らかに答が見えているのに保留し続けるのは、あまり賢明とは言えんな》

「そんなつもりでは……ないのだけど」

《われは学者ではないから、益体もない理屈などどうでもよい。直感で言ってしまうぞ。そこのものはわれと同じ世界に属するもの、その中でも特に力ある種族であろうよ》

「うん。たしかにそう考えるのが一番つじつまが合うんだけど……」

《そして顕現した場所はあの遺跡。あそこはもともとどのような場所であったかな?》


 まるで〈塔〉の教官のような口調だ。アンベルとは〈塔〉にいた頃からの付き合いだから、故意に真似ているのかもしれない。


「その昔、竜がこちらの世界に現れて、またあちら側へ帰って行った場所……」

《主の研究の主題であったな。主よ、あそこがどのような役割を果たす場所だと推測している?》

「こちらとあちらをつなぐ門が築かれやすい場所なんだと……あっ」


 突然、閃いたことがあった。


《どうした?》

「わたし、あのとき、声に出して読みあげたんだった。『来たれ、愛しき竜よ』って」


 その言葉を聞くや、アンベルは勢い込んで叱りつけるように言った。


《それを先に言いたまえ!》

「でも、でもでも! ただつぶやいただけなのよ。しかも現代語で。魔法言語でもなければ碑文に使われていた言語でもない、魔力すらこめていない、ただのつぶやきなのに」

《自覚がないだろうが、主の『声』はとりわけよく『響く』のだ。あちら側に》

「そ、そうなの?」

《そうだ。だからと言って、単なるつぶやきがいついかなるときでも世界を隔てる垣根を貫いて届くわけではなかろうが。条件が整いすぎたのだろうな》

「条件……?」

《場所、能力ある者の呼びかけ、そしておそらく、このものの側にも何かあったのではないか》


 彼の側にってどういうこと? そう聞き返しかけてわたしは気づく。

 魔法を受けつけない体質。それに、とんでもなく見目麗しい容姿。


 ――そうか、もし彼が竜ならば。そう考えればすべて納得がいく。


 塔にいた頃、わたしは竜――正確には、竜が人の姿を取っている存在と顔見知りだった。

 彼女は強い魔力を具えていて、とても賢く、とても美しく――なんというか、神々しいような存在だった。

 彼女と召喚者との関係は、普通の魔法使いと使い魔の主従関係とはぜんぜん違っていた。対等な友人関係というか、伴侶というか、そんな感じがしたものだ。


 改めてわたしは青年を眺めてみる。


 ――とんでもなくきれいだけど、神々しくはない、かな。


 その身の内に宿している力は決して弱いものではなさそうだ。けれども青年はどことなく頼りない。無垢で素直、まるで卵から孵ったばかりの雛鳥か何かのよう。


「あの……」


 おずおずと青年が言葉をはさむ。


「漠然とですが、感じていることがあります」

「あら?」

「記憶がすっぱり抜け落ちていますが、ぼくは生まれたばかりではないはずです。少なくとも、ここに来る前、何かはっきりした目的を持っていた。それだけは間違いないと思うんです」


 青年は考え考え、時々口澱みながら、訥々と言葉を連ねる。


「ぼくは何かを探さなくてはならなかった。そのために何事かを強く願った。何を探そうとしていたのか、どんな願い事をしたのか、そこはさっぱり思い出せないのですが。でもたぶん、それでここに来てしまったのではないかって」

「何かを探しに?」

「ええ、そうです」

「うーん……」


 術者による召喚によらずに、異界の存在がこちら側にやってくるのは、ほぼ不可能なはずだ。

 特に、強大な力を持つ者ほど、自分の属さない世界から強く拒まれるのだと言われている。力あるものたちのうちでも竜は最強最大、神々にも匹敵する力を秘めている。

 もしこの青年が本当に竜ならば、自分の力でこちら側に渡ってくるなんて、ちょっと考えられないのだけど。


「強引に世界を隔てる垣根を越えようとして、運よくこっち側にたどり着いたはいいものの、無理がたたって記憶が飛んでしまった。そういうことなのかしら」

《さてな。あまり事例のないことゆえ、われにも確たることはわからん。ただ、この者がこちら側のものではなくわれらが世界の存在であるのは、ほぼ確実であろうな》

「なるほどね……」


 竜であるかどうかはさて置くとしても、青年は普通の人間ではなく、こちら側の存在でもない。

 ああ、これ、〈塔〉に報告すべき案件だ。

 大きな魔力が動く出来事、あるいは、異界の存在が関わっているような出来事は、すべて〈塔〉に報せなくてはならない。賢者の間ではそう定められている。

 そもそも異界の存在が関わるような大事、わたしなんかではとても手に負えない。さっさと塔の賢者たちに任せてしまったほうが賢明だ。


「アンベル、これ、〈塔〉に委ねちゃったほうがいいと思う」

《われも同じ考えだ。ついては主よ、この件に関する報告をしたためて、われに託すがよい。急ぎ届けてこよう》

「そうね。ああでもアンベル、行って帰ってくるとなると、そこそこ時間かかるわよね。向こうからの返事ももらわないといけないし。だったらその前にちょこっと、やってほしいことがあるんだけど」

《ほう?》

「彼の服、どこかで見繕ってきてくれない? そう、本土の港町でいいかな。お金は預けるから」

《そうだな。たしかに服は必要だ》

「あの、ぼくはこのままでもいいのですが。なんなら何も着なくても」

「それは……あなたがよくても、わたしが困るわ」

「あ、はい」

「それと、ええと、あなた。

 呼びかける名前がないと、不便でしょうがないわね。かりそめのものでいい、何か名前があるといいのだけど」

「名前……ですか」

「ええ。でね、何か希望の名前はある? こう呼んでもらいたいという」

「うーん……」


 青年は首をかしげて真剣な様子で考え込む。

 その表情を見ていると、何か無理難題を押し付けているような気分になった。


「すみません。何にも思いつきません」

《無茶を言うな、主よ。生まれたてのようにすべてを忘れ去っておるのだ。名前なぞ、そうそう思いつけるものではない。主が決めてやればよい》

「え、わたしが?」

「そうですね。ぼくもできればお願いしたいです。あなたに」

「かまわないの? わたしが決めても」

「ええ。だって、たとえ記憶があったとしても、ぼくにはわからないと思うんです。この辺りの人たちの間で、変に思われないような名前なんて」

「ああ、そうね。たしかにそのとおりだわ」


 けれども今度はわたしが困ってしまった。

 名前……名前ね。何て呼ぶのが似合うだろう。

 わたしは青年の姿をしげしげと眺める。


 見るほどに美しい姿をしている。均整の取れた体つき、精悍さとやさしさが混じり合った、端正な容貌。光り輝く金の髪に、緑柱石を思わせる緑の瞳。

 光り輝く――そう、青年は光り輝くようだ。髪の色だけではない。その全身が――纏っている魔力の色合いが、まるで太陽の輝きのよう。


「……ルシアン、というのはどうかしら」

「ルシアン、ですか?」


 青年は問いかけるようなまなざしをわたしに向ける。


(ルシアン)とは。ふむ、安直よな》

「安直で悪かったわね!」

「ルシアン――ルシアンですか。悪くないです。いえ、とてもしっくり来るような気がします」

「ほんとう?」

「ええ。不思議ですね。なんだかすごく……自然な感じで」

「じゃあ、いいかしら。あなたの名前はルシアンで」

「はい。ぼくの名前はルシアン」

「仮の名前だけどね」


 そう、これは仮の名だ。真の名ではない。

 もし彼がほんとうに竜ならば、真の名を魔力あるものに知られることは致命的な事態となる。

 力あるものにとって、名前は実体として感知できるものだ。真の名を知られることは、相手に支配されるのと同義であるとすら言える。

 そして仮の名であっても、それなりの影響力を及ぼすことができるのだという。

 だからこそ、できれば彼自身に名前を選んでもらいたかったのだけど。相手を縛り付けたり、支配力を及ぼすのは、わたしの望むところではないから。


「ああ、なんだかほっとしました。名前がないってのはずいぶん落ち着けないものなんですね」


 青年は嬉しそうにつぶやいて、にこりと微笑みかけてきた。

 その表情はその仮の名前にふさわしく、明るく光り輝くようだった。



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