2.その日、遺跡で
遺跡は夢で見たものとほとんど同じだった。石柱は傾き、石畳は夏草に埋もれ、木々の枝の重なりが濃い影を落としている。
あの一件の直後にはこの遺跡を訪れる人も多かった。けれどもその後、特に変わったことが起こらなかったせいか、今ではすっかり寂れてしまい、もとのように荒れ果てた姿をさらすようになっている。
遺跡に竜があらわれたあの一件も、今となってはもう遠い昔の出来事。わたしが八歳のときだから、そう……かれこれ十九年になるだろうか。
あ……なんか、まともに時間を数えたら落ち込みそうになった。
十九年……十九年ね……
生まれたばかりの赤ん坊が立派な大人になって、自分自身の子供のひとりふたりは持つようになるくらいの年月。
その、なんというか。
年月の経つのって、ほんとうに早いよね……
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あのとき、本当は何が起こったのか、実のところわたしははっきりとは覚えていない。
突然、まぶしい光が差し込んで、思わず目を閉じた。
次に目を開くと、目の前に金色の竜がいた。
驚いて見上げるわたしを、竜もまた、じっと見下ろしていた。
わたしは、ただぽかんと――ひたすらぽかんと、竜の姿を見ていた。
それは竜のほうでも同じだった。
竜はとりたてて何もしてこなかった。
空中で羽ばたきながら、ただわたしを見下ろしていた。
竜はわたしに問いかけてきた。
――呼んだのは、あなたか?
あれは耳に聞こえる言葉だったのか。それとも、心に伝わる思いだったのか。
今となってはそれすらも定かでない。
わたしは応えなかった。いや、応えられなかった。
ただ呆然と、竜を見上げるばかりだった。
すると竜は、かき消すようにすっと消えた。
そう、まるで空中に溶け込んでしまったかのように、跡形もなく消え失せてしまったのだ。
幻を見たのだと思った。
本当は何も起こらなかったのだ。わたしが見たと思ったものはただの幻覚、空想の産物なのだろうと。
だってわたしは、今までもたまにそういう変なものを見ることがあったから。
ごく幼いころは、そのことを素直に周りの人間に話していた。けれども、たいていの場合、まともに扱ってもらえなかった。
――何かと見間違えたんだろう。でなかったら幻を見たとか。そんなものがお前に見えるわけないじゃないか。
その程度ならまだよかったのだけど。
――もしかして自分に魔法使いの才能があるとでも言いたいのか? そんなことがあるものか。人の気を引いて特別扱いされたいだけだろう。ほらをふくのもたいがいにしろ。
そんなふうに言われるのは、さすがにつらかった。
そうじゃないのに。本当に見たのに。
でも、証明する手段なんてわからなかった。
後になって知った。実際には、あれは『魔法使いの才能』そのものだった。
〈視る力〉、もしくは〈境を超える力〉。
妖精や精霊や幻獣、そういった『人の世とは異なる領域で息づく者たち』を見分ける力のあらわれだったのだ。
でもあのころ、幼いわたしがつたなく語る事柄をそういった事象として捉えてくれる人はいなかった。
もしかしたら、至聖所の祭司なら理解を示してくれたのかもしれない。
けれどもそのことを思いつくよりも先に、わたしは自分が間違っているのだと――いや、間違っていないにしても、こういったことは人に話すべきことではないのだと――思い込むようになっていた。
だから竜を見たあのときも、わたしは誰かに話したりせず、その記憶を自分の中にしまい込んだ。
そのまま何事も起こらなければ、きっとただの白昼夢で済ませていただろう。
でも、遺跡での出来事から数日後、異変が起こった。
いきなり大勢のよそ者が島にやってきて、島民を片っ端からつかまえては質問してまわったのだ。
――この島のあたりで巨大な魔力が動くのが観測された。最近、なにか変ったことが起きたのではないか。
そう、たとえば――
天地を引き裂くような光が差し込んできたり、とか。
竜とかグリフォンとか、そういった強大な幻獣が姿をあらわしたり、とか。
ここで初めて、わたしは自分の見たもののことを、よそ者たちに話した。
よそ者たち――〈塔〉の賢者たちによる調査団は、わたしの話に真剣に耳を傾けて、遺跡をいろいろと調べてまわった。
遺跡だけではない。竜を見たというわたしのこともいろいろと調べた。
書物を音読させてみたり、水晶のかけらを握らせてみたり。あるいは幼いころからのわたしの様子について、いろいろと両親に尋ねてみたり。
結果、わたしにはいわゆる『魔法使い』の素質があることがわかった。
〈塔〉で学んで賢者になるべきだと、調査団の人々はわたしと両親に告げた。
そしてしばらくして、島の遺跡についても、〈塔〉の調査団は結論を下した。
遺跡にはたしかに大きな力が働いた形跡があった。
おそらくほんの一瞬ではあるが、異界に続く扉が開かれて、大いなる幻獣――そう、わたしの見たあの黄金の竜――が顕現したのではないか。
だが、その力は今ではすっかり鎮まっている。少なくとも当面は同様の現象が起こることはないだろう。
であるからして、特別な警戒を敷く必要はない。だが、この遺跡がどのような性質を持つものであるのかについては、継続的な調査を行っていくべきである。
〈塔〉の人々は遺跡の調査を終えて帰途についた。
そしてわたしもまた、彼らと一緒に〈塔〉へと旅立った。〈塔〉で賢者になる教育を受けるために、故郷の島を後にしたのだ。
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わたしは目の前にある石碑を見つめる。
例の一件によって、この遺跡は〈塔〉によって調査すべき対象となった。
けれども最初の数年間、型どおりの調査が行われた後は、さほど注目されることもなく放置されている。
石碑に刻まれた文字が古代北方文字であることはかなり早い時期に判明した。碑文の内容自体も、今ではほぼ解読されている。
碑文の内容から、この遺跡がどのようなものであったのはだいたいわかっている。
かつて、この場所に異界から竜が顕れた。竜はこちらの世界で数年間過ごしたのち、やはりこの同じ場所から異界へ帰っていった。
残された人間は悲嘆に暮れ、竜を偲んだ。そして石の社を築き、碑文に竜との思い出を刻んだ。
碑文の文末はこう結ばれている。
――わが竜よ。
世界の壁を隔ててなお、私はあなたを慕う。
私は願う。いつの日か再び、あなたと相まみえんことを。
ゆえに、私はここに告げる。
来たれ、愛しき竜よ!
……なんというか。
これってどうやら恋文――というか、逃げた恋人に対する思いを臆面もなく綴った嘆きの手紙なんじゃないだろうか。
いかにもありがちな異類婚姻譚。異界の存在と人間が結ばれるものの、何らかの理由で相手は異界に帰ってしまうという、あれだ。
賢者であるわたしは、異界の存在がこの世界にまぎれこむのはあり得ることだと知っている。だから、この碑文をたわいもないおとぎ話として片づけたりはしない。
けれども同時に思う。
異界に去った相手と再会するのは、まず無理だ。世界の境界は簡単に越えられるものではないのだから。
この碑文を刻んだ者はそのことを承知していたのだろうか。
そして不思議なことがある。
碑文に使われている文字は古代北方文字だ。文章自体も古代北方語で書かれている。
でもあの日、わたしが碑文を読む手掛かりに使おうとした文字――祭司の祈祷書に使われている文字は、古ケルサス文字なのである。
ふたつの文字は多少の類似性はあるが、明らかに別個のものである。音韻自体には共通の要素がないわけではないのだが、文字の形だけを見て正確な音韻の対照関係がつかめるものではない。
なのにあの日、わたしはこの石碑から文章を読み取った。
――ヴェーニ ディレークテ ドラーコ
今のわたしならわかる。これは魔法言語ともいわれている古ケルサス語だ。
そして、この文章の意味は、「来たれ、愛しき竜よ」。
そう。解読された文章の最後の一節にきちんと対応している。
どうしてこんなことが起きたのかまったくわからない。だが、あのときわたしは古代北方文字を古ケルサス文字として認識し、古代北方語で書かれた文章を古ケルサス語に置き換えて読み取ったのだ。意味すらまったくわからないままに。
わたしは石碑にそっと触れて、碑文を指先でたどる。
碑文の写しなら何度も読んでいる。いまさら新しい発見があるとは思っていない。
それでも、実際にこうして実物を見てみるのはなかなか感慨深いものがあった。
碑文をたどる指が、最後の文字列に行き着く。
「来たれ、愛しき竜よ、か……」
声に出してわたしはつぶやいた。
そのときだった。
石碑が内側から強い光を発しはじめる。
「え……?」
光はどんどん強くなり、奔流のようにあふれ出してくる。
とてもじゃないが、目を開けていられない。
あわててわたしはまぶたを閉ざす。
「これって……」
まるであのときと同じだ。
十九年前、巨大な黄金の竜が目の前に出現した、あのときと。
閉ざしたまぶたの上からも、なお焼けつくような光が感じられる。
輝きは頂点を極め、そして徐々に引き始めていく。
(まさか……まさかまさか)
また、竜が姿をあらわしたのだろうか。
当惑と、そしてそれを上回る期待を抱いて、わたしはおずおずと目を開く。
けれども。
(ああ……)
竜はいなかった。
空に羽ばたく存在の兆しはなく、ただ夏の朝の太陽が明るく輝くばかり。
二割の安堵と、八割の落胆。
空から視線を落とし、わたしはため息をついた。
そして何気なく真横に首を向けて――ぎょっとして硬直した。
人間が地面に倒れ伏している。
わたしの左側、ちょうど五歩ほど離れたあたりに、見たこともない人間が素っ裸でごろりとうつぶせに横たわっていたのである。




