12.再び、遺跡で(後)
「ルシアン、大丈夫?」
蒼白な顔色で呆然としているルシアンに、わたしはそっと声をかける。
「アルヴィラさん……」
ルシアンは震える声でわたしの名を呼んだ。
「さっきのひと、あなたを知ってたみたい」
「ええ……」
「どう? 何か思い出した?」
「いえ……でも、ぼくは彼を知っている。とてもよく。それは間違いない」
「彼はあなたに帰るようにと言っていたわ」
「はい、でも」
「わたしに、あなたをもとの世界へ帰すようにとも」
「ええ」
「ギルサリオン」
わたしはそっとその名を口の端にのぼらせた。
ルシアンはぴくりと体を震わせ、表情をこわばらせる。
「これがあなたの本当の名前。そうなんでしょう?」
「わかりません……」
そうなのだろうか。ルシアンは明らかにこの名前に反応しているように見える。
あの男は言っていた。魔力を込めて、彼の名を呼べ、と。
さっきは、ただ普通にこの名前を口にしただけだ。けれど、もし、魔法を働かせるときのように〈力〉を込めていたならば。
ぼんやりとではあるけれど、何が起こるのか、見当はついている。
あちら側の力ある存在は、名前によってその存在を規定される。真の名を呼ばわるのは、その本質に呼びかけるのと同じ。失っていた名前を与え直すことにより、彼はおそらく、自分自身の本質を取り戻すはずだ。
《ギルサリオン》
魔力をこめて、わたしはその名を呼ばわった。
「アルヴィラさん?」
ルシアンは表情を歪めてわたしを見つめ返し、そして――変化が訪れた。
光が湧きあがる。
ルシアンの内側から光が滲み出て、後光のように彼を包み込む。
ルシアンの表情がさらに歪む。苦しそうな、いや、泣き出しそうな表情にも見える。
「アルヴィラさん、離れて!」
鋭い声でルシアンはそう叫ぶと、自らも後ずさった。
「え?」
「ぼくから離れて。お願いだから!」
意味のわからないまま、わたしはルシアンの言葉に従う。
その間にも、ルシアンの内側から発する光は、その量を増していった。
どんどん光は強くなり、同時にルシアンの輪郭はどんどんぼやけていき――ついに、光の中に溶け込んでしまう。
光はふわりと宙へと浮かびあがってゆく。
空に浮かんだ光の塊はなおも膨れ上り、ひときわ強く輝いた。
思わずわたしは目をつむる。
この感覚には覚えがある。
そう、同じなのだ。
昨日、ルシアンがわたしの前に姿を現したあの時。そして十九年前、わたしの目の前に、金色の竜が姿を現したあの時と。
目をつむっていても、瞼を突き抜けて、なおも明るい光が感じられる。
光は頂点を極め、やがて、薄らぎ始めてゆく。
わたしはおずおずと目を開いた。
目の前すぐの中空に、巨大な光の球がふわりと浮かんでいる。
光はさらにやわらいでゆき、やがて、薄らいでゆく光の中から、次第にそれの輪郭がはっきりと見えるようになってくる。
ああ。
わたしは思わず感嘆の声を漏らしていた。
目の前に浮かんでいるのは、金色に輝く巨大な竜。
竜はその背の羽を羽ばたかせならが、じっとこちらを見下ろしている。
「ルシアン……なの?」
予想しなかったわけではない。ルシアンはおそらく異界の存在、それも真竜にゆかりのあるもの。だから彼が真の姿を取ったなら、それはきっと竜なのだろうと。
《アルヴィラさん》
返ってきた〈声〉は、たしかにルシアンのものだった。
でも、人間の姿だった時とは違う。直接頭の中に響いてくる、幻獣たちと会話するときと同じ、思念の〈声〉だ。
《あなたなのね》
《アルヴィラさん、どうして、あの名前を》
《だって、あのひとは言ったわ。あなたの名前を呼べって》
《でもぼくは、まだ帰れない。帰りたくない。帰ってはだめなのに》
悲痛な、そして切羽詰まった〈声〉で、竜は叫んだ。
《だめだ。戻されてしまう。お願い、アルヴィラさん。ぼくの名前を呼んで》
《え?》
《あなたがつけた名前で、ぼくを》
《わたしがつけた名前って……》
《ルシアン。その名前なら、ぼくは……》
わたしは躊躇していた。
このまま放っておけば、おそらく竜はあちら側へ引き戻されていくはずだ。
さっきの男は言っていた。もしルシアンがおのれ自身を取り戻せば、自然とこの世界から拒絶され、もとの世界へ戻るだろうと。
そして、こうも言った。もしわたしが善意の存在なら、ルシアンをもとの世界に戻してほしいと。
これまで培ってきたわたし自身の賢者としての見識も、異界のものは異界にあるべきだと告げている。
けれども目の前の竜はとても必死で、とてもつらそうで。
駄目だ。彼の願いを無視するなんて、わたしにはできそうもない。
《……ルシアン》
〈声〉に魔力を込めて、ためらいながらも、わたしはその名を呼んだ。
たちどころに変化があらわれた。
竜は再び光に包まれる。
光の中で竜の輪郭は次第に薄れてゆき――同時に光自体も小さく収束してゆく。
小さくまとまった光はふわりと地面の上に降りてゆき、やがて光の中から、裸の人間の男の姿が徐々に現れ始める。
「ルシアン」
わたしは彼のそばに駆け寄った。
ルシアンは最初、目を閉じていた。けれどもわたしの呼びかけとともに目を開き、じっとわたしを見つめる。
「アルヴィラさん」
ひどくかすれた声だった。
「大丈夫?」
思わずそう問いかけたわたしに、弱々しく微笑み返してルシアンは応えた。
「大丈夫……です」
「ごめんなさい……わたし」
何について謝ったのか、自分でもよくわからなかった。
「いえ」
そう応えると同時に、ルシアンはがくりと膝をつく。
「ルシアン!」
彼のすぐ横にしゃがみ込み、思わずその背に手を伸ばす。
「すこし……変化がきつかったみたいで……でも大丈夫。ちょっと休めば、きっと」
大丈夫とは思えない。ルシアンの声はとても弱々しくて、とても苦しそうで。
なのに、苦笑を浮かべながら、ルシアンは言った。
「すみません。どうやら、いただいた服、だいなしにしてしまったみたいです」
そう。今、ルシアンは素っ裸だった。どうやら竜に変化したときに、身につけていた服は破れてしまったようだ。
「そんなこと!」
服のことなんか気にしないで。今は、あなたのことが心配なのに。
そう言い募るわたしに、ルシアンは首を振る。
「もらったばかりだったのに、もったいないことをしてしまいました」
「ルシアン……」
わたしは言葉を失う。
聞きたいことならいっぱいある。
記憶はもう戻ったのか。さっき出会ったあの男は何者なのか。そして――これで本当によかったのか。
けれどもそういった問いはすべて、言葉にならずにどこかへ消えていって。
「あなたが無事なら、それでいい。だから……」
わたしが口にしたのは、ただ、彼の安否を尋ねる言葉だけだった。