11.再び、遺跡で(前)
翌朝早く、アンベルは書字板を携えて〈塔〉に向かった。
アンベルを送り出すと、昨日に引き続いて、わたしは研究報告書の続きに取り組む。
ルシアンにはあまり出歩かないようにと声をかけ、退屈ならこれを読んだら、と、古語で書かれた叙事詩の写本を渡す。
うん、ごめん。そんなに面白い本じゃないかも。けれども、何もすることのないまま、ただ家の中に閉じ込めておくよりはましかと思って。本当は構ってあげられたらいいんだけど、今はちょっと手が離せないから。
ルシアンは食卓の椅子に腰かけて、行儀よく渡された本を読み始めた。
わたしはわたしで机に向って、報告書をまとめる作業を続けていく。
作業を進めるうちに気づいた。
ああ、やっぱりもう一度、遺跡で実物を確認しておいたほうがよさそうだ。石碑の裏側の文様の写し、ほんの少しだけど抜けている箇所がある。おおよそのところは今持っている拓本でもわかるけれど、できることならもうちょっときちんと確かめておきたい。
今から出かけようか。幸い今日は天気もいい。外での作業も問題なく行えるだろう。
「ねえ、ルシアン、わたし、少し出かけようと思うんだけど」
ルシアンは読んでいた本から顔を上げ、わたしに視線を向けた。
「行先は昨日、あなたと会ったあの遺跡。でね、どう、一緒に来る?」
「いいんですか?」
「だって、退屈でしょ? それに、あなたも自分のことについて思い出すきっかけが欲しいんじゃない?」
「それはそうです。だから僕としては、とてもありがたいのですが」
「そうよね。なら、行きましょ。あ、着ていく服はそれじゃなくて、ローブのほうがいいかも。〈塔〉の人間みたいに見えたほうが、誰かと会ったとき、面倒が少ないから」
「わかりました」
ルシアンが着替えるのを待って、わたしたちは連れ立って庵を出た。
正午を少し回ったくらいの刻限だった。夏の太陽が明るく照り輝いていて、歩くほどに汗がじんわりと滲み出てくる。
遺跡を取り巻く木立に足を踏み込んだ時にはほっとした。木陰が太陽を遮ってくれるだけで、ずいぶん涼しく感じられるものだ。それに、ここはある種の聖域のような場所、村人に会うこともめったにない。
ルシアンと連れだって歩くのは、やはり少し緊張する。もし誰かと出会ったら、昨日インガに話したように〈塔〉からの客人としてルシアンを紹介するつもりだ。でも、やっぱりなるべく人目は避けたい。わたし、ごまかしや言い訳は、あんまり得意じゃないから。
「涼しいですね」
ルシアンがほっとしたような口調で言った。
「あなたも暑さや涼しさを感じるのね」
「そうですね。林の外は暑くて、陰に入ると涼しい。そう感じています」
「前にいたところは、ここよりも明るくて暖かかった、そう言っていたように思うけど」
「うーん、そうですね。でもやっぱり、さっきまでの道はけっこう暑かったです。今こうして日の当たらないところに来てみると、ずいぶん気持ちいいなって」
「ああ、そういうものなのね」
「はい」
ルシアンはふんわりと微笑みかけてきた。
ああ、いいな。こういう表情、なんだかとてもほっとできる。
暑いとか涼しいとか、ごく他愛もない会話だ。けれどもわたしはそんな他愛もない会話ができることが無性に嬉しかった。
「さてと、わたしは奥の石碑のところでちょっと調べごとをしているけれど、あなたはあなたで自由にしてて。あ、でも、何か聞きたいことや言いたいことがあったら、いつでも声をかけてね」
「はい」
そんな言葉を交わしながら、わたしたちは木立を抜け、石柱の並ぶ奥の広場に踏み込んだ。
ふと前方に目をやったわたしは、思いもかけないものを視界にとらえ、ぎょっとして立ち止まる。
遺跡の最奥、あの石碑のすぐ前に、男性と思しき人間がひとり、石碑と向かい合うようにして屈みこんでいたのだ。
わたしたちの気配を感じ取ったのだろうか。男はゆっくりと立ち上がって、振り向いた。
島の者ではない。まったく知らない人間だ。
いったい誰、どこから来たんだろう。船が着いたなんて話、ここのところ聞いてないのに。
違う。このひとは島の住民ではないだけじゃない。そもそも、普通の人間ではないかもしれない。
そう悟った瞬間、ぞわりと、鳥肌が立った。
黒い髪、抜けるように白い肌。怜悧な印象を与える、並外れた美貌。
ひときわ目を引くのは、その紫色の瞳だ。まるで紫水晶のような、透明感のある、鮮やかな紫。こんな目の色の人間を見るのは初めてだ。
目の色だけではない。男にはどこか尋常ではない雰囲気がある。
肌がぴりぴりとするような、漏れ出る魔力の感触。
魔法の心得のある者か、あるいは、人の姿をとった精霊や幻獣の類か。
「あなたは……」
そうわたしが訊ねかけるよりも前に、向こうが声をかけてきた。
「術者だな? この場の魔力の変動は、お前の仕業か?」
「え?」
「昨日、この場所で、大きな魔力が動いた。そう、まるで異界と門が通じたかのような」
そうか、もしかして。
この男が何者なのかはわからない。でも、昨日、ルシアンがここに来た時に起こった魔力の変動を感じ取って、ここに調べにきた。そういうことなんだろうか。
「え、ええ、たしかに。でもそれは……」
わたしは言葉を返そうとした。けれども男はわたしの言葉を待たず、鋭い声をあげた。
「ギルサリオン!」
彼の視線はわたしの後ろ、ルシアンに向けられている。
男は険しい表情を浮かべて、つぶやくように言った。
「そうか、君か。君がこちらに来たのか。だがどうやって……」
はっとしたように男はわたしに視線を向け、詰問するような口調で問いかけてきた。
「お前が彼を召喚したのか、術者?」
「いいえ? わたしは……」
「嘘を言え。呼ばれもしないのに、われらが世界の垣根を越えられるものか。お前が邪法で彼を縛り、こちら側に呼び寄せた。そうなのだろう?」
「いいえ、いいえ、まさか」
「ではなぜ彼がここにいる」
「そんなの、わたしのほうが知りたいわ。彼は昨日、いきなりここに現れた。わたしが意図して呼んだわけじゃないのに」
「そんな馬鹿な話があるか!」
「でも、だって、それが事実なのよ!」
「信じられるものか。現に私は」
「あの」
激昂する男の言葉を遮って、ルシアンが声を発した。
「あなたは、ぼくを知ってるんですか?」
「知らないはずがないだろう? 何を言っている」
男はルシアンに食ってかかる。そんな男に、ルシアンは静かな口調で応えた。
「ぼくには記憶がない。どこから来たのかはおろか、自分の名前すらわからない。けれど、あなたはぼくのことを知っている。そうなんでしょう?」
「なんだって?」
「昨日、ぼくはここで目を覚ました。けれど、それ以前のことはまったくわからない。覚えていないんです。アルヴィラさんはちょうどこの場に居合わせて、記憶のないぼくを保護して、なんとかしようとしてくれているんです」
「ならばやはり、その女が怪しいではないか。それなりの力を具えた術者なのだろう。こいつが君を向こうから呼び寄せ、記憶まで封じて」
「そうじゃない。ぼくは自分の意志でここに来た……来たような気がする。そして、アルヴィラさんには悪意なんてない。ただ巻き込まれただけの、親切な人だ。ぼくはそう感じている」
「自分の意志で、まさか……いや、そうか。君なら」
何か思うところがあったのだろうか。男は黙りこんで、考え込むような様子を見せる。
「ギルサリオン」
沈黙の末に、男は声を発した。
「悪いことは言わない。早くあちらに帰れ」
「え……?」
「君はこちらに来るべきではなかった」
「でも」
「記憶を封じ、名を封じ……そうすることによって、君は世界を分かつ理法をごまかしたのか。だが、そんな無茶、するべきではなかった。名前を取り戻して、あるべき場所へ戻るんだ」
「名前を取り戻す?」
わけがわからないと言わんばかりの調子で、ルシアンが問い返す。けれども男はそんなルシアンに構うことなく、わたしのほうに向きなおった。
「そこの術者、お前が本当に害意のない、いや、善意の存在であるならば、彼をもとの世界へ戻してやってほしい」
「戻すって……でも、どうやって?」
「簡単なことだ。魔力を込めて、彼の名を呼べ。ギルサリオン、と。きっとそれで彼はおのれを取り戻す。そうなればこちらの世界から拒まれて、おのずともとの世界へ引き戻されるはずだ」
「引き戻される……?」
「そうだ」
「でもそれは、わたしじゃないと無理なの? 例えばあなたでは」
「私は許可なくしては〈力〉をふるえない」
「あ……」
そうか。このひとはおそらく、召喚されてこちら側に来ている存在。誰かの使い魔なのだ。
使い魔は主の許可なくしては〈力〉を使うことができない。彼の主である術者は、厳密な規定を設けて、彼の力の行使に制限を加えているに違いない。
そのとき、男の姿がぼんやりとした光に包まれ始めた。
魔力が動いているのだ。
何か仕掛けてくるのだろうか。わたしは思わず身構える。
けれども、この魔力の変動は、男にとっても意外な出来事だったようだ。
男は顔を引きつらせ、小さな声で悪態をついた。
「くそ、ここまでか。頼んだぞ、術者。ギルサリオンを、どうか」
「え?」
呼び止める間もなく、男の姿はその場から忽然と消え失せた。
「どういうことなの……?」
誰に言うともなく、わたしはつぶやく。そして、後ろに立っているルシアンに、そっと視線を向けた。
ルシアンもまた、呆然とした表情を浮かべて、その場に立ち尽くしていた。