10.ひとつ終えたらまた次が
昼下がり、わたしはようやく〈塔〉への報告書を仕上げた。
その間、アンベルは実によく働いてくれた。
寝台の準備に関しては、どうやら薬草園のそばにある納屋を片づけて、そこに寝台のようなものをこしらえたようだ。この納屋は薬草を保管したり煎じたりするときに使っている場所で、それなりの広さがある。日常生活を送るには暗くて狭すぎるけど、人ひとりが夜を過ごす程度なら、問題ないだろう。
正午過ぎにルシアンが目を覚ました。ぼんやりしているルシアンに、アンベルは水を飲ませて、買ってきた服に着替えるよう促していた。どうやら服の着付け方も教えていたようだ。
正直、助かった。若い男性をひんむいて、下着のつけ方だのなんだのを手ずから教えるなんてのは、ちょっと勘弁してほしいと思っていたのだ。
ルシアンは気分があまりすぐれないようだった。とりあえず二日酔い用の薬草茶を飲ませたけれど……果たして効くんだろうか。さほど薬効成分の強いものではないから、害になることもなさそうだけど。
報告書を仕上げたところで、わたしはアンベルを呼んだ。
アンベルは猫の姿に戻って陽だまりでくつろいでいたが、呼ぶとすぐにやって来た。わたしの横まで来ると机の上にひょいと飛び乗って、書きあがったばかりの書字板を覗き込む。
《こんなものでいいかなって思うんだけど。でね、すぐ出かける?》
《文面に問題はなさそうだな。だが、出るのは明日の朝にしよう。移動は一瞬で済むが、返事をもらうまでは〈塔〉で足止めされる。あやつと主をふたりきりにしたまま夜を越すのは、さすがに不安を覚えるのでな》
《そうね》
《主よ、以前から言っておることだが、やはりもうひとりくらいは僕を持ったほうがいいのではないか? 主は〈呼ばわる力〉以外はからっきしだ。われがそばにおらぬとき、なんぞ危ない目にあってはと、どうにも心もとないのだが》
《前にも説明したでしょう? “僕”はあまり持ちたくないの。誰かを束縛するなんて、気持のいいものではないから》
《われらは無理な服従を強いられておるわけではないぞ。われらの側に住むものたちは、そも、自ら望まねば召喚に応じたりはせぬ。〈呼び声〉に応えるのは、人界に来ることを望んでおる酔狂なものばかり》
《でも、やはり束縛していることには変わらないでしょう? あなたにしてみても、本当はわたしみたいな小娘が顎で使っていい存在じゃない。それでもあなたはわたしを主と呼び、わたしの命じるところに従う。そして、わたしが〈解放〉しない限り、わたしの僕であり続ける。決して平等な関係ではないわ。そういうのはなんだか……ね》
《たしかに平等ではない。だが、人の生涯なぞ、われらにとっては須臾。解放の時は遠からず訪れる》
《でも……》
《主が望まぬというなら無理強いはせぬよ。ただ、われも適当に怠けたいのでな。代わりに用事を果たすものがいれば、それはそれで心安い》
アンベルの言うことももっともなのだ。
召喚術を得意とする賢者は、だいたい五、六体ほどの僕を従えているという。けれどもわたしが従えているのはアンベルと、庭仕事をしてくれている家妖精キキィだけ。
アンベルを召喚したのは賢者として認められるために自分の魔力を証明する必要があったからだし、キキィを迎えたのは薬草園の管理を自分ひとりで行うのが大変だったからだ。どちらも必要に迫られて僕にしたのだけど、いまだに「主と僕」という関係にはどことなく抵抗を覚える。
僕の便利さはよくわかってるし、僕と過ごす時間だって嫌いじゃない。ううん、むしろ楽しい。でも、その楽しささえもが、そこはかとなく後ろめたくて。
気を取り直し、わたしは手にしていた書字板に魔法の封印を施した。こうしておけば、わたしが術を解くまで、書字板の文書が損なわれることはない。
封印を施し終わった書字板を机の上に置くと、横からアンベルが声をかけてきた。
《これであやつの件に関する報告は出来上がったわけだが、主よ、研究報告の進捗はどうなっているかね?》
《えええ、それを今聞く? ちょっと一息つくくらいは堪忍してよ》
《息をつくのは構わぬが、この報告を持っていけば、当然のようにそちらについても訊ねられるであろうよ。まだ提出できる状態ではないことは理解したが、残された時間も多くはない。早々に取り掛かるべきだと思うのだが》
《……そうね》
《疲れているのはわかっておる。だが、締切は目前。先延ばししている余裕はない。どうせいつものごとく取り掛かりが遅いだけで、書くべきことは固まっているのだろう? われが〈塔〉から戻ったら折り返しすぐに出発できる、それくらいの勢いで臨むのだ》
ああもう、どうしてこう、小うるさいのか。面倒見がいいといえばそのとおりなんだけど。
とは言え、アンベルの言うとおりではある。
ええい、こうやって机に向かったんだから、ついでに始めてしまえばいいのか。
わたしは走り書きや草稿を机の上に並べて準備を整える。
調査そのものはほぼ終わっている。だから後は、実際に文章を書いていけばいい。いいんだけど……
うん、がんばろう。がんばらなくちゃ。
今日は教室をお休みにしたから、予定外に空いた時間ができてしまっている。そう、この隙に少しでも進めてしまわないと。
わたしが再び机に向かったのを見届けると、アンベルは人間の姿になって、今度は家の中の掃除を始めた。うう、散らかしててごめん。
掃除の合間をぬって、ぼんやりと椅子に座っていたルシアンと言葉を交わしたりしているみたい。箒の使い方に始まって、家具類の用途だとか、食事の習慣についてとか、このあたりの地理だとか、そういう細々とした事柄を丁寧に説明しているのが漏れ聞こえてくる。
ルシアンは素直にアンベルの話に耳を傾け、自分からもいろいろと訊ねているようだ。
うーん。助かるなあ。
アンベルはわたしが召喚する以前にも、別の賢者によってこちら側に召喚されていたことがあったと聞いている。そんなわけでこちら側の事情にはけっこう詳しい。〈塔〉とこの島しか知らないわたしよりもよほど世間を知っている。
使い魔と客人のやりとりをなんとなく背中越しに感じ取りながら、わたしは自分の作業を進めていった。
没頭すること数時間。
アンベルに声をかけられて初めて、まわりが薄暗くなっていたことにわたしは気づいた。
《夕食を用意したぞ。そろそろ休んではどうだ?》
《あ、ありがと》
食卓には食事の用意が整えられていた。
蜂蜜のかかった温かな麦粥と、蕪のサラダにインガが持ってきてくれた豆の煮物。決して贅沢ではないけれど、なかなかに行き届いた献立だ。
食卓の前にはすでにルシアンの姿があった。
「ルシアン、気分はどう?」
「あ、もう大丈夫です。ご迷惑をおかけしました」
「ううん、こちらこそ。お酒は……今度からは勧めないようにするわね」
「はい……とてもおいしかったのですが、残念です」
「そうね。でも、飲めない体質だってことが早めにわかったのはよかったのかも」
「そうですね。これからは自分でも気をつけるようにします」
「ええ。で、いまはどう? お食事、食べられそう?」
「はい」
「無理しないでね。お腹が空いていなければ空いていない、空いているようならもっと欲しいって、遠慮せずに教えてほしいの」
「はい。でもその、ええと、食べ物が必要、という感覚に慣れてなくて」
《なに、じきに慣れる》
済ました顔でアンベルが応える。
アンベルは珍しく人間の姿のまま、一緒に食卓に就いていた。ルシアンの横に腰を下ろし、匙の使い方を教えたりしている。
なんだろう。昼間少し面倒を見たせいで、情が移ったんだろうか。
わからなくはない。ルシアンには放っておけない気持を掻き立てるような何かが具わっている。加えてアンベルはもともと面倒見のいい性分だ。世話を焼こうとするのは、まあ、それほど不思議なことではないのだけど。
わたしには、とっとと〈塔〉に委ねてしまってあまり深入りするな、とか言ってたくせに、自分は甲斐甲斐しく面倒を見るんだ。ふうん?
実際のところ、アンベルがルシアンの面倒を見てくれるのはとても助かる。アンベルはあちら側の出身だから、わたしでは気づかないようなところにも目が届くだろうし。
なんだろう。微笑ましいのと同時に、ちょっぴり悔しいような気持ちがするのは。
まあ、仲良きことは美しきかな。
一所懸命に作法を学ぼうとする絶世の美青年と、ぶっきらぼうなようでいて実に甲斐甲斐しく面倒をみる、ちょっと枯れた雰囲気の男。
ああ、これって、〈塔〉にいた頃、女性の先輩が貸してくれた秘密の冊子に納められていた物語を思い出させる構図だ。これはこれで楽しい……かも。
……なんてことを考えながら、わたしはアンベルの用意してくれた夕食をおいしくいただいたのだった。