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天窓  作者: 野村 礼瑚
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二章 後悔




 二章 後悔




 洗い流せない言葉が溢れる。心にこびりつくような言葉。良い言葉の兆候。


 詩を紡ぎ掛けた時、目が覚めてしまった。


 いつもこんな。夢の中で詩を書こうとすると、そこで目覚めて言葉を忘れる。


 夢の中で絵筆を握っても同じ。何を描こうとしていたのか忘れてしまう。


 ぼんやりとした意識に、ボ~ンと言う音が響く。


 何度響いたか数えてなかったけど、十五時ではないだろうか?


 テレビには午後のワイドショーではなく、ドラマのような映像が映っている。


 まだ戻って来てないのか? 田上の姿はない。


 射し込む光はヴェールのように天窓を包んでいる。まるで絵画の中にいるよう。絵筆が欲しくなってしまう。


 テレビに映るドラマは、タイトルロゴと共にオープニング曲が流れだす。


 有名なドラマだ。タイトルだけは知っているけど観たことはない。


 再放送ドラマは、どうやら今日が一話目。


 男女の恋模様を描いた、所謂恋愛ものと言うやつだろう。


 することもないので、ドラマを真剣に観ててしまった。


 見たことはないはずなのに、あたしはなんだか見たことがある気がした。


 それこそ気のせい。


 この手の話など似たり寄ったりなので、別のドラマに似ていただけだろう。


 もうすぐ午後四時になる。田上はまだ帰ってこない。


 あのバカはいったいどこで道草をくっているんだ! 遅いにも程がある。


 市街地までは片道たったの一時間。渋滞に捕まったとしても遅すぎだ!






 時間だけは変速することなく過ぎて行く。


 田上が戻らない理由がわからない。


 あいつなら脅迫電話を失敗する可能性は大いにありうるけど、失敗したなら警察なりお父様の手の者なりが来るはず。


 誰も来ないと言う状況が理解出来ない。


 ベッドに縛られたまま、いつ帰って来るかわからないヤツを待つのも馬鹿らしくなり、あたしは荒縄から手を引き抜こうとしたが、抜けない。


 たまたま抜けなかったと言うレベルではない締め付けに、じわじわと不安と恐怖がこみあげて来る。


 冷静に考えてみることに。


 確かに、手を縄に戻した時きつくなった気はするが、ここまできつくはなかった。寝ている間に、寝相などで縄が締まったのだろうか?


 その時、原因に思い当たる。


 縄が、さらさらしている。


 汚なかったから洗わせた縄。


 縛られた時、それは湿っていてとても気持ちが悪かった。


 縄は、乾いたことでさらにきつくなった。もう、手を抜くことが出来ないくらいに。


 なんとか抜けないかと暴れてみたが、足を縛る荒縄が食い込み痛いだけで抜けない。


 結局、足の縄も乾いてきつくなったことを知るだけだった。


 精神を落ち着けないといけない。この状態で過呼吸など起こそうものなら、まさに生き地獄だ。


 空をゆっくり眺める。


 夕暮れの空は艶やかに朱に染まり、心を落ち着けてくれるけど、暗いところまで沈んで行く。


 雨だ。


 紅い空に哀しみが降る。


 天窓がぼんやりと滲んで行く。雲一つない茜空の下で。


 さめざめとしばし涙してから、冷静に考えをめぐらせる。


 何も泣くことはない。田上が戻ってくれば万事解決すること。


 きっとあいつは馬鹿だから、後にすれば良いのに、買い出しでもしていて遅くなっているのだろう。


 だから、きっと戻って来る。






 信じればその通りになる。それほど世の中は甘くない。


 日は完全に暮れ、部屋を照らすものはテレビの明かりだけ。


 映像の移り変わりで、光量の変わる明かりがチカチカと瞬いている。


 田上は、まだ戻らない。


 縄の食い込む手足がキリキリ痛むが、トイレをずっと我慢しているのでお腹も痛い。


 コロスッ!


 このあたしをこんな目にあわせて、ただで済むと思うなよ。


 正当防衛の名の元に、絶対半殺しにしてやる!


 どう痛め付けるかを考えながら、あたしは腹痛に耐え続ける。


 テレビのバラエティー番組には、あたしの気も知らずに笑いが満ちている。


 滑稽だ。


 現実を切り離したように隔たりを感じる。


 夢ならいいのに、お腹の痛みと空腹感は、夢ではあり得ないリアリティーをあたしに突き付ける。


 コバルトが瞬く夜空は、幻想を描いた絵画のように広がるだけで、救いはこぼさない。


 あぁ、田上は、どこで何をしているのだろう?


 何かで時間を取られ、あたしが怒っていると思い、恐くて戻れないでいるのかも知れない。


 あの馬鹿、頭がおかしいくらいの小心者だから。


 もしそうなら、半殺しになんかしないから早く戻って来なさい。


 あたしが、虫けら相手にこんな寛大になるなんて奇跡なんだから。


 うざったいバラエティーがようやく終わり、テレビには番組と番組の間の短いニュースが流れる。


 昔、泣いたことがある。幼いころ、太陽が燃え尽きたら朝が来なくなる。夜だけになるって。あたしはわんわん泣いた。


 お父様とお母様は、そんな子供の戯言に真剣に対応してくれた。


 もし太陽が燃え尽きても、自分たちが太陽になって照らすから、何も心配することはないんだよ。なんて、そんなことを言ってあたしをあやしてくれた。


 その時のことを、ふと思い出した。あの、どうしようもない不安を。


 今はどうか知らないけれど、あたしは両親に溺愛されていた。


 だから、こんなわがままな子に育ってしまったのだろう。


 進路くらい、自分の力で生きていないのだから、お父様の言う通りにすれば良かった。


 どんなに後悔しても始まらない。あたしは死ぬ。その事実は変わらないだろう。


 ニュースは、見逃してしまいそうな短さで、一人の人間の事故死を報じた。


 田上アツコ。小さく、横になった文字なので、どんな字を書いてアツコなのかはわからなかったが、午後一時半。ここと市街地を結ぶ林道で事故死した女の名がそれだった。


 あたしは田上の下の名前を知らない。けれど、事故死したのが、リムジンに乗った田上と同じ名字の別人である確率にすがるほど、あたしは愚かではない。


 田上は死んだ。


 それが、田上が戻らなかった理由。


 あたしは気付かなかった。あたしにとっては“誘拐ごっこ”だったけれど、あいつにしてみれば、平常心を保てるようなことではなかったのだ。


 でなければ、無事故無違反の女運転手。つまり“安全”と太鼓判を押し家出計画の運転手に選んだあの田上が、死ぬ程の大事故を起こす訳がない。


 ここで重要なのは、あの馬鹿が死んだことではない。


 あの愚図が、脅迫電話を掛ける前に死んだと言うことだ。


 警察が動けば、あたしを発見する可能性もあるだろうが、現状では絶望的。


 理由はたった二つ。あたしがここにいることを誰も知らない。あたしが拘束されていることを誰も知らない。それだけ。


 あたしは、家出する旨をしたためた書き置きをして来た。


 あたしが行方不明でも、数日はそんな徹底的に捜索はされないだろう。それは、今のあたしにとって致命的な時間だ。


 海岸線にどす黒い雨雲が広がるように、ゆらゆらと絶望が広がって行く。


 あぁ、あたしは死ぬんだ。


 走馬灯も過らない静けさ。


 生が崩れて行く儚さ。


 自分がどう死んで行くかを想像してみた。


 それはあまりに酷く、苦痛に満ちた死。


 あたしの高貴なプライドが、そんな死を許さなかった。


 唇まで伸ばした舌。空気に舌先が冷える。


 ぐっと歯を合わせ、あごに力を込めた。


 歯に潰された舌から、痛覚として電気信号が脳髄に伝わり、信じられないくらいの激痛をあたしに与える。


 身悶え涙するあたしは、それでもあごに力を込め続ける。


 噛みきれ!


 噛みきれ!


 噛みきれッ!!


 想いだけで全てが叶うなら、縄がほどけることを願う。


 あたしは、あまりの痛みに舌を噛みきることを断念した。


 噛みきろうとした舌が、愚かな行いの報いとでも言うように、じんじんと痛みをあたしに伝え続ける。


 死ねなかった。


 死ねなかった!


 死ねなかったッ!


 あたしは声を上げ泣いた。涙も、鼻水も、糞尿も垂れ流しながら。


 プライドがズタズタになる。感情がひきつけを起こしたように現実を受け入れられないのに、舌の激しい痛みが、あたしを現実に縛り続ける。


 現実から逃避出来ない。壊れて欲しい意識を、波打つ痛みが際限なく現実に引き戻す。


 狂ったような叫びが天窓を震わすけれど、あたしの意識はどこかで冷めきり、覚醒し続けている。




 それは、一枚の絵画。




 縁取る窓枠の錆は、アンティークな額縁の気品。


 夜空のキャンバスには、大小の星々。


 人の一生と同じで、小さな光りしか放てないもの。わずかな間しか輝けないもの。様々な光がキャンバスを彩る。




 綺麗。




 狂乱した叫びを上げながら、冷静な思考は美しきものへの感動で涙する。


 狂いの涙と、喜びの涙が入り混じり頬を伝う。


 そんな自分が可哀想で、哀しみの涙も混じりだす。


 あぁ、あたしは、今世界で一番不幸だ。


 あたしが、五歳まで生きられないような恵まれない子供達の存在を知り、可哀想だと、助けてあげてとお父様にうったえた時、お父様はこう言った。「その子達は自分を不幸だとは思っていないから、少しも可哀想ではないんだよ」と。


 幼かったころには良くわからなかったけれど、次第にその意味がわかってきた。


 人は幸か不幸か順応する生き物。極上の幸せを知らなければ、自分がいかに不幸かなどわかりはしない。


 逆に、不幸を知らなければ、自分がいかに幸せだったかもわかりはしない。


 あらゆるものに恵まれていたところから、この現状に叩き落とされたあたしは、世界で一番不幸なことは確かだろう。


 人はギャップにこそ幸、不幸を感じる。


 恵まれない人間は、些細なことに幸せや喜びを感じる。


 恵まれた人間は、大概の幸せに鈍感になって行く。


 あらゆるものに恵まれていたはずなのに、あたしはいつも満足していない自分を抱えていた。


 今なら、それがいかに愚かであったかがわかる。あたしは、あんなに満たされていたのに、何を求めてこんな山奥に来たのだろう?


 暗い空に問いかけたとて、答えはない。


 あたしの命は、ここで静かに朽ちて行くだけなのだから。





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