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買い占め開始時の金の価格は、1gあたりおよそ5,000エーロ。
ベルシュタイン商会が買い始めた事で一時的に50,000エーロになり、そこから35,000エーロまで値下がりする。
だが、 アルヴェス商会が動き出してから、相場の変動が激しくなった。
最高で、1g200,000エーロにまで達した事もあった。
ベルシュタイン商会が動いた時は”経営に行き詰った馬鹿が、おかしな事を始めた”と冷ややかな目を向けられていた。
だが、アルヴェス商会が動いた事で、売りに回っていた者達も慌てて買い始める。
――何か裏がある。
皆がそう思ったのだ。
ベルシュタイン商会に続き、アルヴェス商会までが動き始めた。
金の相場に何かがある。
最初に誰かがそう思った時から、勝手に話が大きくなっていった。
――誰かが酒の話として、何か冗談をこぼす。
――それを聞いた誰かが、誇張して友人に話す。
その繰り返しで、いつの間にかゾルド達ですら信じられない話が広まっていた。
”金が魔神除けに効くらしい”
そんな噂まで広がっていると聞いた時には、ヨハンと呼吸が苦しくなるまで笑い転げた。
残念ながら、金には魔神除けの効果は無い。
むしろ、蜜に群がる虫のように群がってくる。
馬鹿げた理由をこじ付けてまで、金の相場が高騰した理由が欲しいのだろう。
アルヴェス商会や他の金持ち連中が、金の高騰という夢から覚めた時には、すでに手遅れだった。
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ベルシュタイン商会の玄関ホール。
そこに商会員が全員揃っていた。
今日は仕事も休みだ。
「取引の成功を祝って、乾杯!」
「乾杯!」
ヨハンの声に続き、商会員達の声が唱和される。
彼等は多大な成功を収めた。
アルヴェス商会が金相場に介入し始めた時から、気付かれない程度に金を売り払っていた。
50,000エーロくらいから売り始め、150,000エーロに達するまでに買い占めた金を全て売り切る事に成功した。
そこまでは値上がりが激しかったので、少々多めに売っても相場の変動には気付かれなかった。
稼いだ金は、取引手数料を引いても5兆エーロを超える。
120億の借金で苦しんでいたのが嘘のようだ。
まさに、ヨハンの人生の絶頂期と言える。
「ありがとう、アダムスさん。あなたのお陰で、父の墓に良い報告ができるよ。本当にありがとうございました」
ヨハンはゾルドに抱き着いた。
言葉だけでは、感謝の気持ちを伝えきれない。
それが行動として出たのだ。
「気にする事は無い。俺だって金が欲しいからやっただけだ。ところで、山分けで良いんだよな?」
ゾルドには手抜かりがあった。
肝心な取り分の話をしていなかったのだ。
急遽、半々の山分けという事で取り決めをした。
しかし、ゾルドはこういった不測の事態のために切り札を用意している。
金は全て頂くつもりだ。
「ええ、これはアダムスさんの考えで始めた事。こちらも半分貰えるので満足していますよ。今は各支店から、ロッテルダムに運ばせている最中です」
ヨハンからすれば、ゾルドはアイデアを出して、借金を肩代わりしてくれただけ。
仕事のほとんどはベルシュタイン商会が行った。
アルヴェスを騙しに行ったのも自分、実際に商会を動かして金の取引を行ったのも自分。
ゾルドに不満が無いわけでは無かったが、それを祝いの席で口にするほど無粋では無い。
それに、彼もゾルドを追い出すための用意をしている。
金は全て頂くつもりだ。
巨額の金は麻薬のようなもの。
金額を見ただけで、脳が痺れて他の物が見えなくなる。
誰もが分かち合う事など思いつかない。
独り占めしたくなるのだ。
「まぁ、今日ばかりは皆に酌でもしてやろう」
「そうだな」
二人は別れ、近くにいる商会員に声をかけて回る。
一仕事を終えたばかりだ。
少しくらいは労ってやってもいい。
ゾルドは目に付いたヘンリクスに声をかけてやる事にする。
「ヘンリクス、頑張ったみたいだな」
「もちろんです! ガッツリ稼ぎましたよ」
ヘンリクスはガッツポーズで、心の喜びを表す。
本来なら3%の報酬が貰えるのに、商会員だからと1%にされているのに気づかない哀れな奴だ。
そう思えば、ゾルドも自然と優しくなれる。
稼いでくれた分は、優しい言葉をかけてやってもいいと思うくらいに。
「ヨハン会長もよくやったと褒めていたぞ。名前を憶えてくれたようだな」
「本当ですか。やった!」
平のサラリーマンが、商会長に名前を覚えられる。
そんな事は滅多にない。
ヘンリクスは、これからのサクセスストーリーに思いを馳せた。
しかし、彼は知らなかった。
この仕事が終わった後、ゾルドが彼らをどう扱うかまったく考えていない事に。
(まぁ、ヨハンがどうにかするだろう)
新規採用者達がどんな扱いを受けるのかまでは、ゾルドの知った事ではない。
ゾルドは喜ぶヘンリクスをそっとしておいてやろうと、他の者のところへと向かう。
とはいえ、他の者達は顔と名前が一致しない。
”まぁ、そこそこ頑張ったんじゃないか?”という程度では、一々覚えてやる必要は感じ無かったからだ。
上役に名前を憶えて欲しければ、それだけの働きをしてもらわねばいけない。
適当に”ご苦労だった”と声をかけ、時にはシャンパンを直接手渡ししてやった。
人の好意というものは馬鹿にできない。
”ヨハンを出し抜く時のために、念のため下々の者のご機嫌を取っておく”
そのためには、気さくに声をかけてやるのが楽で良い。
馬鹿らしいとは思うが、もうしばらくの我慢だ。
(金さえ手に入れば、こんな奴等とはおさらばだ。……まぁ、この後の事は完全にノープランなんだけどな)
西のガリアは革命騒動で混乱の極みだ。
正直、住むだけでも面倒臭い。
東のプローイン跡地は王族が全滅したため、元プローイン国民の中で独立と革命の機運が巻き起こっている。
そんな場所に居たら、結局混乱に巻き込まれるので無し。
さらに東のポール・ランドと、南のオストブルクも戦争中。
戦争のための臨時徴収だとかいって、税金を取られてもたまらない。
ゾルドが行った事のある国はロクでもない事になっていた。
もちろん、戦争が起こるのは良い事だが、どこか納得がいかない。
(そうか、自分でやり遂げたっていう感じがしないからか)
”フリードが魔神と裏で繋がっている”という演技でプローインを潰した以外は、世界の情勢によって引き起こされた混乱。
ゾルド自身が直接混乱を起こしたわけではない。
望んだ結果になってはいるが、達成感がないのだ。
こんな事では、いつか虚しさに負けてしまいそうだ。
(あー、ヤメヤメ。今日は辛気臭いのは無しだ)
ゾルドも、パーティの明るい空気の中で一人落ち込むような事はしたくない。
よけいに虚しくなってしまう。
気を紛らわせようと、二杯目のシャンパンを手に取った時、予期せぬ乱入者が訪れた。
「ヨハン、ヨハンはどこだ!」
――アルヴェスだ。
綺麗に整えられていた毛並みも今はボサボサで、足がふらついている。
傲慢だった男の姿は見る影もなく消え去り、一気に老け込んでしまった哀れな男の姿がそこにあった。
無駄に立派な衣服が、彼の悲愴さを際立たせている。
「いかがなさいましたか」
ヨハンは落ち着いた声でアルヴェスに応対する。
いや、この場合は冷たい声といった方が良いだろう。
彼がアルヴェスを奈落の底へと突き落としたのだから。
「貴様、貴様がぁぁぁ!」
ヨハンに飛びつこうとするアルヴェスを、ゾルドの付き添いで来ていたホスエが取り押さえる。
異常事態だと思ったホスエは、念のためにアルヴェスの背後に回っていたのだ。
こういったところで、神教騎士団として教育されていたのが役に立った。
「会長、どうかされましたか?」
「この方にどこかで恨まれたようだ。なぜかな?」
ゾルドがヨハンに声をかける。
白々しいにも程がある。
この二人が、謀った事だ。
険悪では無い二人の様子に、アルヴェスは呆気に取られた。
「仲が悪いはずじゃないのか……」
「そんな事無いよな」
ゾルドとヨハンは仲が良さそうに肩を組んで見せる。
そして、意地の悪い顔をしたゾルドが言う。
「お前、騙されたんじゃないか?」
その言葉で、押さえられていたアルヴェスは暴れ出す。
会長のヨハン・ベルシュタインと副会長アダムス・ヒルターの不仲の噂が嘘だった事。
そして、ヨハンにも騙されていたという事には気付いている。
”お前に言われなくてもわかっているんだよ!”
しかし、アルヴェスの口から、その言葉が出る事は無かった。
怒りのあまり、言葉にならないのだ。
ホスエの拘束から抜け出そうとし、疲れてきて無理だと察したアルヴェスは抵抗をやめた。
そして、息を整えている間に、アルヴェスは少し落ち着いたようだ。
一度深呼吸をして、ヨハンへの恨み言を吐く。
「オストブルクは! ソシアはどうなった! 金の相場に介入なんてしなかったじゃないか! この嘘吐き!」
アルヴェスの言葉に、ホール内の空気は凍り付いてしまった。
この場にいる者達は知っている。
金の買い占めを行った後の相場が緩やかに下がり始めた時、ベルシュタイン商会以上の勢いで金を買い占め始めた者がいた事を。
この男を食い物にしたのだと察したのだ。
「金の相場に手を出したのはご自分のお考えでしょう? 私に言われても何の事だか……。書面で私が騙したと残っているのですか?」
「貴様っ……」
書面に残すはずがない。
約束を反故にするつもりなら、証拠は残さない方が良い。
アルヴェスはヨハンをハメようとしていたが、それが裏目に出てしまった。
ヨハンからも書面で残すという事を要求されなかった時点で、少しは怪しめば良かったのだ。
少し前までなら、アルヴェス商会の力で罪をでっち上げてでもヨハンを叩き潰す事ができた。
だが、もう遅い。
アルヴェス商会は近い内に崩壊する。
買い占め騒動前の相場から40倍にまで跳ね上がったが、その後が続かなかった。
アルヴェスは元々冒険者ギルド長だ。
それも労働者の派遣業務が主な仕事の平和な街で、仕事の依頼があったら、そこに人を派遣する。
それだけだ。
博打のような投資の世界は経験した事がない。
ねずみ講の成功により、自分が経済の分野でやり手だと勘違いしてしまった。
彼も比較的優秀ではあったが、人生で大きな賭けに出たのは、アルヴェス商会を立ち上げる時だけだった。
最初は自分の資産を使って金の買い占めを行っていた。
しかし、オストブルクの介入もなく、ジリジリと下がっていく相場に耐えられなかった。
そこで、自分の資産が減る事を覚悟して売り払ってしまえばダメージは少なかったのだ。
だが、アルヴェスは商会の金に手を付けた。
会員に支払うはずの金を、相場の維持に回してしまった。
そのせいで、一月分すら払えなくなった。
金回りの良い事が売りのネズミ講で、分配金の支払いが滞ってしまえば、その先は終わりしかない。
慌てて金を売り始める。
しかし、それも買い手が付けばの話だ。
一番多く買い占めていたアルヴェス商会が売りに回った。
その時点で維持されていた相場は崩れ、そう遠くない内に元通りの価格にまで下がるだろうという事は簡単に予想される。
かなりの値下げしなければ、買う者はいない。
無理に高い金を買わずとも、そう遠くない内に値下がりするのだ。
買う者がいなければ、売ろうにも売れない。
買うつもりの者達も、大幅な値下がりがされるまでは手を出さない。
アルヴェスには、大幅に目減りした現金しか手元に残らないはずだ。
そうなると、商会の金にまで手を付けた責任を追及される。
財力という名の鎧が剥がれ落ち、人望の無い彼を守ろうとする者もいない。
どういう結末が訪れるかは、想像に難くない。
「アルヴェス殿はお疲れのようだ。表まで送って差し上げろ」
ヨハンがホスエに命じる。
ホスエはゾルドの方をチラリと見て、頷いた事を確認する。
ホスエはヨハンの部下ではない。
ゾルドの意思を確認してからでないと、ヨハンの命令に従うつもりはなかったからだ。
「待てっ、まだ話は終わっとらん!」
同じ獣人とはいえ、鍛え抜かれたホスエの力には敵わない。
抗議の声も虚しく、外へと連れ出される。
アルヴェスが出て行った後、ホールの空気が変わる。
今、彼らは目撃したのだ。
世代交代の瞬間を――
金融業界の寵児と呼ばれたアルヴェスを追い落とした。
アルヴェス商会が凋落し、ベルシュタイン商会が頂点に立った瞬間を目撃したのだ。
「ヨ・ハ・ン!」
「ヨ・ハ・ン!」
「ヨ・ハ・ン!」
商会員からヨハンを称える声が沸き起こる。
ほんの少し前には、いつ商会を畳む事になるのか心配だったはずが一転、トップに立つ事になった。
テンションが上がるのも当然だ。
ヨハンは彼等に手を振って答えてやった。
(あれ? もしかして、俺は蚊帳の外か?)
ヨハンは称えられているが”アダムス”の声は上がっていない。
いつの間にか戻ってきていたホスエが、ゾルドの横で声に出して呼んでいるだけだ。
その声も”ヨハン”の声にかき消されている。
商会員にとって新参者のゾルドよりも、ヨハンの方が評価しやすかった。
これまでにも商会をなんとかしようと、努力している姿を見ている
今回もヨハンがアイデアを出して、なんとかしたのだと思われていた。
先ほど”パーティの明るい空気の中で一人落ち込むような事はしたくない”と思ったが、その思いとは裏腹にゾルドの感情は暗く沈み込んでしまう。
努力をしたのに、認められないというのは悲しいものだ。
この時、商会員達への情は完全に無くなってしまっていた。
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「おかえりなさい。……どうしたの、暗い顔をして?」
帰ってきたゾルドが暗い顔をしていたのを心配して、留守番をしていたレジーナが問いかけた。
「なんでもないさ」
「なんでもないってことはないでしょう。ジョシュア?」
話そうとしないゾルドの代わりに、ホスエに聞く事にした。
護衛として付いて行っている。
様子は見ているはずだから、事情を知っているはずだと思ったからだ。
「本当になんでもないよ。ただ、主役をヨハンさんに取られてすねてるだけだよ」
「あらまぁ」
レジーナはクスクスと笑う。
「裏方で目立たないようにするって言いながら、褒められないと嫌なの?」
「そうじゃない。ただ、ヨハンに手柄を取られたようで面白くないだけだ」
面白くないというゾルドに、レジーナは抱き付いた。
「あなたはいつもよくやってるわ。お疲れ様」
「……あぁ、ありがとう」
褒める人がいないのなら、自分が褒める。
レジーナはそう思い、行動した。
そのお陰で、ゾルドは”まるで自分が駄々っ子のようなものじゃないか”と恥ずかしくなり、落ち着きを取り戻す事ができた。
「そういえば、ジョゼフから手紙が来てるわよ。寝室に置いてあるわ」
「そうか。ホスエ、ご苦労だったな。今日はもう休んでくれ」
「わかった。おやすみなさい」
「おやすみ」
さすがにホスエでも寝室にまで連れて行くつもりはない。
寝る前の挨拶を交わし、ゾルドはレジーナと寝室へ向かった。
ジョゼフからの手紙は、ロペスピエール一派をギロチンにかけるのに成功した事へのお礼が書かれていた。
どうやら、多数派工作に成功し、革命政府の主流派になったらしい。
しかし、その最後の一文に、ゾルドは心臓を掴まれたような思いがした。
『魔神ゾルド様への御恩は決して忘れません。いつか必ずお返し致します。ジョゼフ』
(いつだ、奴はいつ気付いた!)
この間、屋敷に訪れた時にはそんな素振りは見せなかった。
それから手紙を書くまでの間に、どうにかして知ったのだ。
――自分の正体を知っている者がいる。
その事がとてつもなく怖かった。
レジーナも、その手紙をゾルドの横で読んでいたので驚いている。
「もう一通、封筒があるからそっちも確認した方が良いんじゃない?」
封筒の中から、レジーナが紙を取り出す。
そちらは神への誓約書だ。
『ノルド、アダムス・ヒルターを名乗る方の正体に関して、一切他言は致しません。ジョゼフ』
どうやら、ジョゼフは気を利かせてくれたようだ。
一緒に誓約書まで送ってくれている。
これでゾルドは落ち着きを取り戻した。
「そうか、これはジョゼフの決意表明みたいなものだ」
「決意表明?」
「そうだ。自分の直筆サイン入りで、魔神に恩を返すと書いてある。俺に味方をすると口で伝えても良かった。それをせずにこんな物的証拠を残すという事は、奴も本気で覚悟を決めたはずだ」
人に見られれば、魔神に味方をしたと家族まで罰せられる。
こんな書類を書いてゾルドに感謝するほど、厳しい窮地に陥っていたのだろう。
「どうせなら、どうやって俺が魔神か知ったのか教えてくれれば良かったのに」
「本当にそうね」
細かい不満点はあるが、ジョゼフのような男が味方に付くと明言してくれるのはありがたい。
ゾルドはパーティーで覚えた不満を忘れ、今日は気分良く眠れそうだった。