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「げっ、雨かよ」
まもなくモスクワというところで、突然雨雲が頭上を覆い尽くした。
その事に、行軍中の若いガリア軍兵士が愚痴をこぼす。
夏場とはいえ、モスクワ付近の気温はそこまで高くは無い。
雨に打たれれば、どうしても”寒い”という思いをしてしまう。
「お前達、歩きを早めろ。先遣隊からの報告では、ソシア軍はモスクワから撤退しているそうだ。早く街に向かえ」
街道を行軍している歩兵の横を、軍旗を持った騎兵が通り過ぎていく。
彼は伝令だ。
各歩兵部隊に伝え回っている。
モスクワがどの程度破壊されているのかまでは伝わっていないのだろう。
街で雨宿りする事を前提に、歩兵に行軍を早めろと伝えて去って行った。
「急げって言われても……。騎兵様は良いよな。てめぇの足で歩くわけじゃないんだから」
伝令の騎兵に文句を言っても仕方ないのだが、つい愚痴ってしまう。
歩兵は槍と剣、防具一式を装備している。
しかも、自分の着替えや非常用の携帯食料、水筒に毛布といった様々な物を自分で持ち運んでいるのだ。
元々、スモレンスクから歩きっぱなしだった。
さらに急げと言われても、これ以上はペースを上げられない。
馬に乗っている騎兵を、逆恨みして睨んでしまうのは仕方なかった。
「シモン。騎兵様にそんな目を向けちゃ、どんな因縁付けられるかわかったもんじゃねぇぞ。やめとけやめとけ」
最初に愚痴をこぼした兵士を、年上の兵士が宥める。
騎兵は基本的に馬に乗り慣れている者がなるもの。
貴族や裕福な家庭で育った者達だ。
古参兵だけあって、相手に回すと厄介な相手をよく知っている。
先達として、新兵であるシモンに注意をしてやっていた。
「そう言われても……。あーあ、革命でみんな平等になると思ったら、結局新しい皇帝が現れただけ。命令されるばっかりで、何にも変わっちゃいない」
シモンは愚痴を続ける。
だが、これには賛同せざるを得ない。
横暴な国王を殺して共和政府ができたと思ったら、内ゲバを始めて崩壊、ナポレオンが台頭してきて独裁を始める。
そして、そのナポレオンを倒した者が現れる。
共和政府が復活すると思えば、シャルルがそのまま皇帝になってしまった。
――こんなはずではなかった。
この思いは、ガリア人ならほとんどの者が持っていた。
「まぁ、なんだ。平等ではなくなったが、ソシアを倒せば一等国民としてガリア人は優遇されるとかいう話だしな。それよりも、熱心なシャルル信者に聞かれたら面倒だぞ。モスクワに着くまでお前は黙っておけ」
思ってはいても、口に出さない理由がシャルルを崇拝する者の存在だ。
彼らは一軍人から皇帝にまで昇りつめたシャルルを尊敬している。
共和制の破壊者であっても、実力がある者を高く評価する者はいる。
そういった者達の声は大きく、否定する者との間で争いにもなった。
ちょっと愚痴を言いたいだけの者にとっては、非常に厄介な存在だ。
共和政府を守るために志願した兵士達との間に、かなりの温度差があった。
「わかりました、オレールさん……」
まだシモンは不服そうだが、古参兵の言う事を聞くのが戦場で生き残るコツだ。
大人しく言う事を聞く事にした。
突然、騎兵が走っていった方向から雷鳴が響く。
遠目にだが、騎兵を中心に十人以上の兵士達が倒れているのが見えた。
騎兵が持っていた軍旗に雷が落ちたようだ。
「ザマァ見やがれ」
騎兵が近くを通った時に近くに居た歩兵は可哀想だが、ブルジョワ野郎が酷い目にあった事で、シモンは溜飲が下がった気がした。
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どれだけ歩いただろうか。
モスクワに着いた時には雨がどしゃ降りとなり、100メートル先も見えなくなっていた。
そのせいで、ソシア独特の街壁を接近するまで気付かなかった。
「うぉっ、デケェ!」
「あぁ、凄いな。これは」
シモン達だけではない。
他の者達も街壁に気付き、口々に感嘆の声を漏らす。
高さ20メートル、幅10メートル。
ヒュドラなどの、大型の魔物による体当たりに耐えられるように作られた古代の遺産である。
大陸東部から訪れる魔物の被害に困った人類が、魔物狩りの拠点として安全地帯を確保するために築いた物だ。
当時のエルフ達が集結し、ほぼ全てを魔法で作り上げた。
エルフ達が人間達と関係を絶つ前の時代の事なので、今ではもうこんな構造物は作れない。
その圧倒的存在感は、雨に打たれていても、しばしの間呆気に取られるくらいのものだった。
「なんでソシアの奴等、この街で戦わなかったんですかね?」
シモンはオレールに聞く。
だが、オレールの返事は素っ気ないものだった。
「俺にもわからん」
「ですよねー」
それどころか、ガリア軍上層部だってモスクワのような重要拠点を放棄した理由がわからなかったくらいだ。
古参兵とはいえ、一兵卒には変わりない。
敵軍がどんな作戦を考えているのかなんてサッパリだ。
もし、この段階でソシアの狙いを見抜く事ができるのなら、ゾルドやシューガの代わりに神を名乗っても良いくらいだ。
シモン達の部隊は、門をくぐり抜けて街へと入る。
そこで目にしたのは、焼け落ちた街並みだった。
焼け残ったように見える建物も、屋根や窓の部分はしっかりと壊されている。
これでは雨をしのげそうにない。
「マジかよー……」
シモンの嘆く声と同じものが、ガリア軍の至る所から聞こえて来た。
いくらガリア軍に占領されるのが嫌だからといって、家を焼き落とすなんて真似までする必要はない。
しかも、これでは家の中の物を物色する事すら叶わない。
ソシアのやる事なす事、全てが嫌がらせにしか思えなかった。
屋根がないため、家の中に入る意味がない。
いや、むしろ焼け残った家に入って崩れ落ちたりすると危険だ。
衛生兵を兼ねる魔法使い達は、広場などの開けた場所に優先して天幕を用意されていた。
しかし、ほとんどの兵士達は家に近寄る事もできず、道の真ん中で突っ立って雨ざらしになるだけだった。
「命令が下ったぞ。我々の部隊は街壁での警戒任務を割り当てられた。急ぎ街壁に向かうように」
シモンが所属する小隊の隊長が命令を伝える。
これには皆が”了解”と答えつつも、小隊長を恨みがましい目で睨み付けていた。
「腰巾着の点数稼ぎ野郎が」
シモンは思わず呟いてしまった。
この小隊長は上官受けを良くしようと、夜間警備などの任務を率先して引き受けたりしていた。
そのしわ寄せが来るのは、いつもシモン達下っ端の兵士だった。
今回もよけいな任務を引き受けて来た疫病神だと思っている。
幸い、距離が離れていたので小隊長には聞かれなかったが、オレールには聞かれてしまった。
だが、オレールはシモンを注意しなかった。
別に同意見だったわけではない。
古参兵で色々と知っているからこそ、隊長の配慮に気付いていたのだ。
「小隊長も貯めた点数を使う事を覚えたみたいだな」
オレールは周囲の仲間に聞こえるように言った。
今回ばかりは小隊長を庇ってやっても良い。
そう思っていたからだ。
「どういう事ですか?」
「街壁に着けばわかるさ」
無駄に良い笑顔のオレールが、皆に”さぁ、行こう”と弾んだ声で急かし始める。
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「小隊長、あんたが大将!」
他の者達も似たような言葉で、兵士達が小隊長を褒め称える。
「いや、大将ではなく少尉だが……」
小隊長は困惑しながらも、部下が称賛してくれる事を素直に喜んでいた。
さすがにソシアも、頑丈な街壁の櫓までは破壊できなかったようだ。
窓は壊されているが、屋根のある寝床をキープできたので、この部隊の兵士達は幸運に恵まれている。
他にも、機転の利く隊長を持った部隊が優先的に櫓の防衛に着いていた。
「せっかくの寝床を濡らすなよ。まずは入口付近で水を絞ってから中に入れ」
オレールが他の兵士達に指示を出す。
今の彼らは、服を着てプールに入っていたかのようにずぶ濡れだ。
服を脱いで、軽く絞るだけでも大量の水が出る。
外に居るほとんどの兵士が、こんな風に服を絞れない事を考えると、やはり彼らは恵まれていた。
服を絞り終わると、数名毎に分かれて見張りに着く。
雨に打たれながら早足で歩いて来たせいで、体力の消耗が激しい。
休憩を取る者を多めにしていた。
どうせ、この街壁を攻めるなどソシアもしないだろう。
しかし、この大雨で火が使えないので、食事は各人に配布されていた保存食料のみ。
冷えた体を暖めるスープが欲しいところだが、噛み砕けないほど堅焼きされた乾パンをしゃぶるように食べるしかなかった。
だが、それでは体が温まらない。
「仕方ない。お前らにも分けてやるから黙っておけよ」
オレールが背嚢からスキットルを取り出す。
「一口ずつな」
ニッと笑うと、まずは自分が飲んだ。
そうして他の者に渡し、回し飲みをしていく。
口にしてむせる者もいるが、吐き出す事なく飲み込んでいる。
「なんですか、これ?」
「いいから黙って飲め。温まるぞ」
言われたままにシモンはスキットルの中身を口の中に流し込む。
予想以上に刺激が強く、噴き出しそうになったが、我慢して飲み込んだ。
その様子を見て、オレールがいたずらに成功した子供のような笑顔をする。
「なっ、温まるだろ? ソシア人が寒さに耐えられる理由さ」
スキットルの中にはウォッカが入っていた。
道中の街で手に入れた物を、コッソリと持ち歩いていたのだ。
あまり褒められた行為ではないが、古参兵ならではの要領の良さでキープしておいた物だった。
そして、回し飲みする事によって、他の者達も共犯にしていた。
「なるほど、こりゃいいや」
喉の奥が焼けるような熱を感じ、そこから全身に熱が回るような感じがしていた。
確かに肌寒い時には最適だ。
これで見張りなんてつまらない仕事も耐えられそうだ。
「俺達の順番は後だから、今の内に少しでも横になって休んでおこう。鎧は脱いでも大丈夫だろう」
「はい」
シモンはオレールの言う通り、鎧を脱いで毛布に包まって横になった。
行軍の疲れもあり、またたく間に眠ってしまう。
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「寒っ」
シモンは凍えるような寒さで、身震いしながら目を覚ます。
どの程度眠っていたのだろうか。
周囲は真っ暗になっていた。
窓の外には星明りも見えず、凍り付くような冷たい風が入ってくるばかりだった。
毛布に包まりながら、シモンは目を凝らして周囲を見た。
(あれ? 見張り用の明かりも無しか?)
いくら大雨で視界が利かないとはいっても、外を照らそうとしてなんらかの明かりがあってもおかしくない。
いや、あって欲しかった。
夏場なのに異常な寒さで、暖を取りたいと思うほどだ。
温暖な気候のマルセイユ出身であるシモンは、かつてないほど体が震えている。
身の危険を感じるほどに。
「オレールさん、この寒さヤバくないですか」
オレールを起こそうと体を揺さぶるが、返ってくるのは生返事だけ。
目を覚まそうともしない。
近くにいる他の兵士もそうだ。
寒さでまぶたが重くなっており、毛布に包まって震えるばかりで起きようとしなかった。
それだけではない。
見張りをしていたはずの者達も、窓のある壁際で横になっていた。
眠気と寒さで頭が働かないシモンも、この状況はマズイと感じていた。
震えて上手く動かない体を頑張って動かし、見張りのもとへと向かう。
「なぁ、起きろって。どうなってんだ」
シモンは見張りをしていた兵士の体を揺り動かす。
だが、反応が無い。
それどころか、揺する時に触れた鎧に手がへばりついてしまった。
「なんでだよ。このっ……。ギャァァァ」
手を剥がそうとして力を籠めると、手の平の皮膚が剥がれてしまった。
窓の外から風を受けてしまったせいだろう。
いや、それどころか雪が窓から入り込んでいる。
かなり吹雪いているようだ。
そのせいで、鎧は凍り付いてしまっていた。
凍り付いた鎧に素手で触れてしまったせいで、皮膚が鎧に貼り付いてしまったのだ。
「なんで、なんで……」
――こんな事になってしまったんだ。
痛みで、その言葉が出てこない。
「うぅぅぅ……。隊長、隊長。どうなってんですか」
今度は小隊長が寝ているところまで行く。
だが、震えるばかりで彼も目を覚まそうとしない。
(目を覚ましているのは俺だけか)
その事に気付き、シモンは外に助けを求めようと考えた。
自分の手も治療したいので、まずは近くの救護所へ向かう事にした。
毛布を被ったまま、櫓の扉を開く。
「ひっ」
扉を開いたかと思うと、すぐに閉じた。
体を寒さで切り裂き、全てを凍り付かせるような冷たい風が雪と共に吹き込んできたからだ。
しかも、すでに膝丈ほどに雪が積もっている。
これでは外に出るどころではない。
仕方が無いので、オレールの背嚢からスキットルを取り出す。
今度は手袋をハメているので、皮膚が貼りつくような事も無い。
後で怒られるかもしれないが、今は助けを呼ぶ事が必要だと黙って飲む。
一口では足りないだろうから、二口、三口と飲み込んだ。
喉を通る刺激が、シモンに活力を与えてくれる。
それを懐に仕舞うと、もう一度ドアの前に立つ。
「行くぞ、行ってやる」
その決意は、櫓を出て数歩で砕けた。
”もう駄目だ。やはり戻ろう”
生存本能が雪の降る中、出歩く事に警鐘を鳴らす。
だが、その思いとは裏腹に、一歩、また一歩と前へと進んでいく。
仲間を思う気持ちが、シモンの足を前へと動かしていたのだ。
”絶対に救護所に行く”という気持ちが強く、それだけしかシモンの頭には無い。
そのせいで、すでに膝丈ほどに積もっている雪が普通に歩けるほど堅く凍り付いて、雪から氷になっている異常さには気付いていなかった。
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シモンが救護所に着いた時には、顔についた雪が凍り付いていた。
夏用の服装だったので、ここまでたどり着く事ができた事が奇跡だ。
道中で死んでいてもおかしくない。
救護所は比較的無事だった建物に、天幕で屋根を作り、窓を塞いだ場所だった。
ドアの代わりに張られた布をくぐり抜けると、そこには櫓と変わりない光景が広がっていた。
魔法使い達が毛布に包まって横になっている。
唯一違う点は、ランプが置かれていた事くらいだろう。
その明かりも、どこか頼りなく感じる。
「たれひゃ、たしゅけへ」
体が冷え切っているせいで呂律が回らない。
だが、命が係っているので、できる限り大きな声を出した。
しかし、シモンに答える者はいない。
誰一人身じろぎすらしないのだ。
シモンは近くで寝ている魔法使いに近づいて、体を揺り動かす。
……やはり、目を覚まそうとしない。
手袋を脱ぎ、口元に手を当ててみたが息をしていなかった。
(もしかして、みんな死んでるのか?)
今度は魔法使いの着ているローブに触れてみたが、凍り付いているようだ。
どうやら、濡れたままのローブを着て眠っていたらしい。
そのせいで、雪が降り始めた時に急速に体温を奪われてしまったのだろう。
苦しまずに眠ったまま死ねた事は幸せだった。
ここで一つ、確実な事がある。
残されたシモンは不幸だという事だ。
「なんれこんにゃ。かみひゃまぁ、たしゅけへ……」
シモンの言葉が、呼吸音すら聞こえない部屋の中に虚しく響き渡る。
その神がこの事態を引き起こしているとは知らないシモンは、ただ神に祈ることしかできなかった。