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 スモレンスクの北西100km。

 ダウガヴァ川上流にあるヴェリジという名の街の橋を、敗残兵達が通り過ぎていく。

 彼らの目的は橋を渡る事ではない。

 だが、兵士達は橋を渡ると”安全な場所に着いた”とへたり込む。

 その中に、祖国防衛の熱意は微塵も感じられない。

 それだけ無様な戦いをした。


 しかし、まだ終わりではない。

 この街から、さらに北西100kmほどの位置にあるネヴェリという街まで撤退する予定だ。

 ネヴェリはガリア帝国の侵攻が予想された時から、ダウガヴァ川上流の防衛拠点として利用するため、要塞都市として改修されている。

 そこで軍を立て直し、次の戦いに備えなければならない。


 幸い、事前に出ていた通達に従って武器は全て捨てている。

 重荷が無い分、兵士達も歩くのが楽になっていた。

 しかし”武器すら捨てて逃げる”という行為が、武器だけではなく戦意まで捨ててさせてしまっていた。

 これを取り戻すのは至難の業だ。

 どうやって兵士達の戦意を取り戻すせば良いのか?

 指揮官達は頭を悩ませていた。



 ----------



「なるほど。武器を捨てて逃げても良いとは、こういう事だったのか」


 ミハイルが呆れたような声を出す。

 ネヴェリには武器が山のように積まれていた。

 いや、武器だけではない。

 鎧に盾、食料。

 矢のような消耗品も大量にあった。

 そして、この街を守るためと反攻作戦のために十万の兵士も駐留していた。


 これらの装備は全てゾルドが買い揃えておいた物だ。

”戦争なら、装備と食い物があればいいだろう”という考えで用意しておいた物だが、その大量の物資をゲルハルトが有効に活用した。

 装備に余裕があっても、兵士数には余裕が無い。

 だから、装備を捨てさせて撤退のペースを速めさせて、兵士を一人でも多く無事に逃げさせたのだ。

 熟練の兵士は剣や槍と違って、すぐに用意できるものではない。

 必要な時に効率よく死んでもらう必要があった。


「そうです。軍を再編成後、モスクワとスモレンスクの間に展開。敵主力部隊の撤退を妨害してもらう事になります。そのために用意された物資です」


 オットーがミハイルに説明する。

 だが、ミハイルが求めている説明はこの事ではない。


「なぜあんな愚かな司令官をわざわざ任命したのか。その事に関して、いつ説明してくれるんだ?」

「まもなくです。全ての指揮官が到着次第、説明が行われるようになっています。途中で戦闘を放棄せず、最後まで戦ってくださった事、心より感謝しております」


 オットーの感謝は本物だ。

 スモレンスクの占領維持に五万ほどの兵を残し、残りのガリア軍がモスクワに向かった時点で九割方作戦は成功したようなもの。

 ミハイルは不平不満をこぼしながらも、最後まで戦い続けた。

 その決死の戦闘がガリア軍壊滅の布石になる。


「レオニードさんもありがとうございました。お陰で逃亡兵が少なくなったと思います」

「私は自分の役割を果たしただけだ」


 レオニードは、フンと鼻を鳴らしてソッポを向く。

 彼は撤退中”逃げ出そうとする奴は一人残らず調べ上げて、一家揃って東部行きだ!”と兵士に発破をかけていた。

 チェーカーの悪名は広く知られている。

 逃げ出したい兵士達も、やむを得ず同行するしかなかった。

 本人にその気があったかどうかはともかくとして、彼の存在は逃亡兵の減少に一役買っていた。

 彼の行為には感謝しているが、撤退の道中でネチネチと嫌味を言われているので、友人になろうとまでは思わなかった。


「レオニードさんも他の部隊が到着するまで休んでいてください。説明の時はお呼びしますので」

「そうさせてもらおう」


 レオニードと、その部下達は軍人ではない。

 敵に追われての撤退は初めての経験だ。

 なんともないように見せてはいても、慣れぬ長距離行軍と恐怖心で疲れ切っていた。

 オットーの申し出を受け、大人しく休む事にした。


(俺も休みたいなぁ……。けど、この作戦の立案に関わった以上、みんなを出迎えるのが筋ってもんだろう)


 立ち去るレオニード達の背中を羨ましそうに一瞥すると、オットーは後続の部隊の受け入れ準備を手伝いに向かった。



 ----------



 ネヴェリの元領主の館。

 元々は小さな街だったせいで、領主の館といえどやや手狭だった。

 そのため、庭に天幕を張って説明会を行う事になった。


 皆の前に立つのはヨシフ。

 神経が図太いように見えて実は小心者なのか、立派な筆髭がピクピクと小刻みに動いている。

 いや、誰だってこの状況では平静ではいられないだろう。

 前線帰りの屈強な男達が、殺意を籠めた視線で睨んでいるのだから。


「皆さん、お疲れ様でした。大変苦労をお掛けして申し訳ありませんでした」


 ヨシフは、まず謝罪から入った。

 彼自身は”自分に責任はない”と思っていたが、それを口にしてしまえば逆上した者達に殺されかねない。

 彼だって馬鹿ではない。

 最初に謝罪し、労をねぎらう事で少しでも心象を良くする事を狙った。


「私が任命されたのは皇帝陛下のご意思。しかしながら、これにはちゃんとした理由がありました。その理由を、作戦を考えた人物に説明してもらいます。ゲルハルト殿、お願いします」


 ヨシフに呼ばれ、ゲルハルトが皆の前に立った。

 その時、どよめきが起きる。

 主に”誰だ、あいつは?”というものだったが、一部の者はゲルハルトの正体を知っていた。

 商人のアダムス・ヒルターに雇われている者だ。


 ――なぜ、商人に雇われている者が戦争に口出しするのか。


 皆の視線がゲルハルトに集中し、何を言い出すのかを待っていた。


「皆さんが何に興味を持っているのか、それは私もよくわかっています。ですから、単刀直入に言わせて頂きます」


 ゲルハルトは軽く周囲を見回す。

 皆、異論は無いようだ。

 むしろ、早く話せと目で言っている。


「スモレンスクで奮闘する事によって、ガリア軍をモスクワに引き寄せる事が今回の目的でした」


 周囲がざわつく。

 前列に座っていた将軍の一人が発言する。


「なぜそのような事をしなければならなかったのだ。まともな司令官がいれば、まだまだ持ちこたえられた。スモレンスクで守り切れば良かったではないか」


 彼の言う事はもっともだった。

 一番良い事はスモレンスクで防ぐ事だ。

 ただでさえ兵力が劣っているのに、わざわざ防衛拠点を築いたスモレンスクを明け渡す必要などない。


「その理由は兵力の温存です。クトゥーゾフ将軍を始め、多くの方々と検討しましたが、二十万の兵で守れば冬までは確実に持ちこたえられました」

「なら、そうすれば良かったではないか。ダウガヴァ川方面は攻勢の気配が無い。あちらには新兵で守備隊を水増しして、熟練兵をスモレンスクに回せば守り通せたはずだ。この街にいる兵士を回してくれれば良かったのだ」


 別の将軍が発言する。

 他の者達も”そうだ、そうだ”とこの意見に同意した。

 この質問はゲルハルトも想定済みだった。


「兵力の温存が目的だと言ったはずです。決死の覚悟で守れば、十万の被害で二十万のガリア兵を倒し、スモレンスクを守り切れたでしょう。ですが、これは最低の被害という想定です。実際はより多くの被害が予想されます。それでは、反撃の際に兵士が足りなくなり、国境まで押し返せるかどうかもわからなくなります」


 まずは兵力を温存した理由を説明する。

 この場にいる者達も、ソシア国内に外国の軍がいつまでも居る事は不愉快極まりない。

 ガリア軍を追い返すために兵力を温存する理由はわかった。

 だが、それだけだろうか?


「では、モスクワを放棄したのはどういう事だ? 確かに物資を渡したくないのはわかるが、街を燃やしたりする必要は無かっただろう。そもそも、撃退するだけの兵力も無いんだぞ」


 さらに質問が飛ぶ。

 彼らはゲルハルトが続きを話すのを待っていた。

 下手な事を言えば、襲い掛かられそうな不穏な空気が漂っている。


「モスクワの住民を避難させ、家屋を破壊した理由はただ一つ。モスクワに誘引したガリア軍を、豪雪によって殲滅するからです」

「なんだと! それでは、最近になって精霊の捕獲を禁止する法を作ったのは……」

「精霊の協力を得られたからです」


 ざわめきが大きくなる。

 ソシアがフェアリーランドに近いとはいえ、精霊がソシアに来る事はない。

 フェアリーランドに近い立地のため、精霊達が北方へ逃げ去った時に多くの冒険者がソシア経由で精霊を捕まえに行ったからだ。

 突然、精霊を保護する法律を作ったのも”どうせ皇帝陛下の戯れだろう”と、誰も真剣に受け取らなかった。

 精霊の協力を得られるとは、誰も思いもしなかったのだ。


「それはヒルター氏のお陰か?」


 この質問は、ある程度の確信を持って行われた。

 ヒルター夫妻はエルフ。

 フェアリーランドと何か繋がりがあり、協力を取り付けたのではないか?

 だから、宮殿にも気軽に出入りを許されているのだろうと。


 その証拠の一つが目の前にいる。

 いくら大商人とはいえ、その部下が軍事作戦に口を出せるはずがない。

 口を出せるだけの何かがある。

 そう考えるのが自然だった。


「そうです」


 ゲルハルトは堂々と胸を張って答える。


「そうか、そうだったのか!」


 何かを考え込んでいたミハイルが立ち上がって叫ぶ。

 彼は気付いたようだ。

 スモレンスクの戦いが、時間稼ぎですらない茶番だった事に。


「俺達はモスクワが放棄された事を知っている。だが、ガリア軍は知らない。あっさりとスモレンスクを明け渡せば、何かがあると勘付かれてしまう。精鋭を集め、皇帝陛下の側近を方面軍司令官にする。さぞかし、スモレンスクを必死に守ろうとしているように思えただろう。お笑いだな。……負けるために戦わされていたとは思いもしなかった!」


 ミハイルの言葉は周囲の者達にも”自分達が囮として使われていた”と気付かせてしまった。

 だが、彼らが騒ぎ出す前にゲルハルトが先んじた。


「無駄ではありません! 負ける事を前提に戦わされて不愉快なのはわかります。ですが、皆さんの戦いは無駄ではありません。戦死した三万の命は、勝利への布石として活かします。そのためにも、生き残った皆さんには次の戦いに備えて頂きたい」


 ゲルハルトの言葉のお陰で騒ぎにはならなかった。

 その代わりに説明会開始当初、ヨシフに向けられていたものと同じ性質に視線がゲルハルトに向けられていた。

 その分、ヨシフに対する感情は和らいでいる。

 ヨシフも自分達と同じ。

 利用された側だと知ったからだ。


「この戦い、間違いなく勝てるんだろうな?」


 射るような目つきをしたミハイルが言った。


「もちろんです。ガリア軍は精霊の歓迎を受けます。モスクワから逃げ出す頃には数を減らし、寒さでまともに戦えなくなっているでしょう。寒さをしのぐ家が無い状態で、大雪に見舞われる辛さ。それはソシアで暮らす皆さんの方が良くご存じでは?」


 ゲルハルトの答えは、皆が納得できる事だった。

 さすがにソシア人でも、寒さで体が震える事は止められない。

 寒さで手がかじかみ、武器を扱えなくなった兵士など訓練用の動く的だ。

 数が多かろうが、まったく怖くない。

 だが、疑問はまだ残る。


「一つ聞いておきたい。なぜモスクワなんだ? スモレンスクで野営しているところに雪を降らせても良かったんじゃないか?」


 一人の将軍がした質問に、周囲もその通りだとうなずいた。

 そうしておけば、モスクワのような大都市を放棄しなくて済んだのだ。


 ゲルハルトは一枚の大きな地図を取り出して皆に見せる。

 ダウガヴァ川とドニエプル川をインクで濃く強調していた。


「これを見てください。スモレンスクで雪が降れば、降雪地帯から簡単に撤退できます」


 ゲルハルトはスモレンスクから西、南西、南を指でなぞる。

 川が無いので移動は容易だ。

 雪が降れば、降っていない地域まで移動するだけ。

 移動を邪魔する敵もいない。


「ですが、モスクワまで引き込めば、ガリア軍が逃げる方向は限られます」


 今度はモスクワからスモレンスクまで西南西に指でなぞる。


「西や北にはソシア軍がおり。東や南は魔物がいる。撤退する場合は、スモレンスクを通らねばなりません。我々がスモレンスクへの退路を断つ事により、ガリア軍主力を逃がす事なく一網打尽にできます」


 タコ壺(モスクワ)に入ったタコ(ガリア軍)を逃がさぬよう(退路)閉める(塞ぐ)

 こう言ってしまえば簡単そうだが、そこまでの準備が大変だった。

 モスクワ市民への食糧支援などを考えるだけでも頭が痛い。

 ゾルドが大金を稼いでいなければ、こんな無茶な計画など考え付いても実行しなかったはずだ。


「まさか、そんな事を考えていたのか……」


 出席者全員が溜息を吐く。

 スモレンスクの防衛に数万の兵を残しても、まだ三十万を越える兵がいるはずだ。

 ソシア軍にまともな損害を与える事もできないまま、三十万の兵を失うような大敗北を喫してしまえば、オストブルクやポール・ランドの離反を招く可能性も出てくる。

 そうなれば、天秤は大きくソシアに傾く事だろう。


 彼らも優秀な将官だ。

 そんな彼らでも、国を守るために敵を追い返す事しか考えていなかった。

 戦術的に敵を引き込む事を考えても、大都市をエサに戦略的に引き込むなんて想像もできなかった。


「こんな事を思いつくとは……。どうやって思いついたんだ?」


 先ほどまでゲルハルトを睨んでいた者達の目が興味の視線へと変わる。

 確かに気に入らない部分もあるが、それ以上にゲルハルトへの興味の方が勝ったのだ。


「仕えているお方のお陰ですよ」


 皆が”さすがはアダムス・ヒルターだ。会話しているだけでも良い知恵が浮かぶのだろう”と感心する。

 だが、嘘ではないが真実でも無かった。


(まさか”赤子をあやしている姿を見て思いついた”なんて事を言っても、誰一人信じまい)


 今思えば、自分でも思いついた事が信じられない。

 リスクも大きかったが、その分リターンも大きい。

 戦争には投機的な側面があるとはいえ、ここまでの無茶はそうそう無い。


 そして、スモレンスクに優秀な将官を集めた事が功を奏した。

 平凡以下の者であれば、捨て駒にされたと恨み続けて足を引っ張るところだ。

 だが、彼らは作戦に関して理解を示すと、その関心は次の戦いへと移った。

 この戦いに参加できる事に喜びを見出したのだ。


(これが俺の考え得る最初で最後の大作戦だろう。……閣下に感謝するべきなのかどうか。判断つかんな)


 ゾルドがいなければ、ゲルハルトはプローインの軍人として栄達していただろう。

 だが、プローインにいて、これだけの作戦を立てる事ができただろうか?

 胸中に湧き上がる複雑な感情を抑えながら、彼は次の戦いに向けての指示を出し始めた。

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