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飛竜での移動はブリタニア島からフェアリーランドまで、陸地の無い海上を飛ぶものだった。
それは非常に怖かった。
なぜ怖いかというと、その運搬手段だ。
馬に乗るように、竜の背中に乗って飛ぶという方法では無い。
ケーキの箱のような取っ手が付いたコンテナの中に入り、飛竜が取っ手を掴んで運ぶという形式だったからだ。
ドーバーからロンドン間までの飛行は短距離だったので良かったが、今回の移動は長距離。
途中で”もう持てない”と落とされでもしたら、例えゾルドであってもただで済みそうにない。
しかし、高速で移動できる手段は他には無い。
怖くても我慢するしかないのだ。
ゾルドは恐怖を感じるだけで良かったが、レジーナはそうはいかない。
元々妊娠によって気分が悪いところに、慣れない浮遊感が加わって、レジーナはゲロ塗れになっていた。
「ごめんなさい……」
横になり、俊夫の膝を枕にしているレジーナが本当に申し訳なさそうに謝った。
「いや、いいさ」
ゾルドも気にするなと言うが、レジーナが気にしているのはゲロを撒き散らすという行為ではない。
吐瀉物など、洗浄の魔法で簡単に消え去ってしまう。
ゾルドにゲロを吐く姿を見られるのが申し訳なく、とても恥ずかしかった。
謝りでもしなければ、恥ずかしくてこの場にいられない。
「あなたはどうして平気なの?」
息も絶え絶えに、レジーナが質問する。
自分がこんなに苦しんでいるのに、呑気に干し肉を齧っているゾルドが憎らしいくらいだ。
「んー、慣れかな」
飛竜が魔法を使って風を抑えているのか、足で掴んで運んでいる割にはコンテナの揺れが少ない。
それがちょうど、少し風が強い日の観覧車くらいの揺れだった。
ゾルドは観覧車に時々乗っていたから、よく覚えている。
密談をするにはちょうど良い場所だったからだ。
盗聴してくる相手が同業者ならまだいいが、警察の場合は電話の盗聴も警戒しなければならない。
そのため、隔離された空間であり、どのゴンドラに乗るのかわからない観覧車は最適だった。
盗聴器を仕掛けられる場所も限られるので、チェックも簡単。
難点があるとしたら、いい年をした大人の男が二人で観覧車に乗り込むので、周囲の目が気になるという事くらいだ。
「こんな揺れに慣れてるとか、どういう暮らしして来たのよ」
「天神を倒して俺の世界に戻れるようになったら、お前も連れて行ってやるよ。揺れる乗り物はいくらでもあるから、その内慣れるさ」
「……慣れるために乗らないといけないっていうのは、本末転倒な気がするわね」
確かに乗り物酔いをしなくなりたい。
だが、そのために気分が悪くなり続けるのは嫌だった。
そもそも、妊娠中だから吐きやすくなっているのだ。
出産すれば、乗り物酔いもマシになるはずなので、無理に慣れようとする必要ない。
レジーナはそのように考えていた。
その時、揺れが少し収まった。
地面にコンテナが置かれたのか、ズシンという音と振動を感じる。
「良かったな。フェアリーランドに着いたようだ」
「ようやくね」
レジーナはセーロの丸薬を一粒飲み込む。
つわりの吐き気は治らないが、揺れによる酔いは治る。
少しだけでも気分を楽にするためだ。
「さぁ、外に出よう」
このコンテナは窓が無い。
初めて見る精霊達の楽園フェアリーランド。
実のところ、ゾルドは少し楽しみにしていた。
勢い込んでドアを開ける。
「寒っ」
ゾルドはすぐにドアを閉めた。
魔神のローブのお陰で体の寒さは大丈夫だが、無防備な顔に冷気が吹き付けたからだ。
ドアの向こうは一面、白銀の世界。
雪は降っていないが、冷え込んだ空気がゾルドの外へ出ようという気を萎えさせた。
「何やってるのよ」
「もの凄く寒いんだよ。今日はここで過ごして、明日サンクトペテルブルクに着くまで待とう」
「そういうわけにはいかないわ」
レジーナが”呆れた”と言わんばかりに、深い溜息を吐いた。
「精霊達に一言挨拶しておかないといけないでしょう。一晩ここで泊まるっていうのと、フェアリーランドを通過する事の感謝を伝えておかないとダメよ。それと、私のコートとかを出してくれる?」
魔神だから何をしても良いというわけではなかった。
精霊達には、魔神か天神かは関係ない。
自分達の生存圏を脅かす者かどうかが重要なのだ。
敵意が無い事を証明しなくてはならない。
「まったく、面倒だよな。通るだけだってのに」
ゾルドはレジーナの防寒具を取り出しながら愚痴る。
だが、その必要性は理解しているつもりだ。
日本に居た頃、ゾルドが働く会社のオーナーと敵対していない組織であっても、その縄張りで営業する場合はあらかじめ挨拶をしておく必要があった。
面子だなんだとうるさいので、挨拶しておかないと稼いだ金以上の物を奪われてしまう。
長年の抗争で奪い取った縄張りを荒らされるというのは、それだけ許し難い行為なのだ。
精霊達もそうだ。
人間達に追い出され、ようやくたどり着いた安住の地。
その地を他者に荒らされて、黙っていられるはずがない。
あくまでも中立であって、味方ではない。
挨拶程度で問題が起きずに済むのなら、多少の寒さなど我慢するべきだとゾルドだって理解している。
「これでどう?」
レジーナが服を着こんで、ゾルドにその姿を見せる。
コートにマフラー、手袋をはめ、頭にはゾルドが土産として買って帰ったロシア帽――ウシャンカ――を被っている。
「似合ってるよ。俺もそれ買っておけば良かったな」
ウシャンカはフカフカの帽子で、耳当ても付いている。
寒冷地にはピッタリの防寒具だった。
「ソシアに着いたら、いくらでも買えるじゃない」
「今欲しいんだよ」
ゾルドは苦笑しながら、フードを目深に被る。
少しでも顔を寒さから守ろうとしているのだ。
「仕方ない、行くか」
ゾルドは今度こそ我慢してドアを開く。
新鮮な外気が中にコンテナの中に入ってくる。
「寒っ、寒っ。なんで俺は馬鹿正直にこんなグローブはめてんだ……」
ゾルドは魔神のグローブを憎々しい目で見る。
防刃製の指貫きグローブなど、何の役にも立たない。
実際、指を切り落とされた事もある。
こういう時は、フカフカの手袋をはめて寒さに備えるべきだった。
着替えの服はあるが、手袋などの小物を買っていなかった。
仕方が無いので、袖の中に手を引っ込める。
「レックス、あの村はなんていう名前だ?」
ゾルド達を運んで来たリントヴルムのレックスに声を掛ける。
少し離れたところに大きな漁村のようなものが見えるので、海の近くという事はわかる。
その村の周辺だけ、雪がまったく積もっていない。
生活の場は暮らしやすくしているのだろう。
「あそこはストックホルムです。フェアリーランドの首都で、エルフも住んでいます。前もって通過する事を伝えているので、争いにはならないはずです」
「なるほど、あれがストックホルムか」
ストックホルム症候群という病気の名前で、ゾルドも聞いた事がある。
どんな病気で、どの国の首都かまでは覚えていなかったが、なんとなく聞き覚えのある名前だった。
(それにしても、蛇とかトカゲって冬眠するって聞いたけど、こいつは寒さ平気なんだな)
レックスだけではない。
他の飛竜や、運ばれている魔族の中には爬虫類系の種族がいる。
寒いフェアリーランドで、よく平気でいられるものだと感心していた。
「あら、ノームの出迎えだわ」
レジーナが近くの森を指差す。
ゾルドがそちらを見ると、50センチほどの小人が木陰から出て来ていた。
全員モサモサの髭を生やしたオッサン風の顔付きをしている。
しかし、どこか愛嬌がある。
「なんだ、結構気が利くじゃないか」
音楽での出迎え。
なんだか大物になったようで、ゾルドは嬉しくなる。
やがて、ノーム達はゾルドから5メートルほど離れたところで立ち止まった。
そして、地面から楽器が生えたかと思うと、音楽を演奏し始めた。
その音を聞いて、ゾルドとレジーナは驚く。
「見た目に反して……、やけに重低音だな」
ゾルドが、この世界で聞く事になるとは思わなかった曲だ。
それを愛らしい精霊が歌うとは思わなかった。
「ゴアアアアア」
何を歌っているのかわからない低音の歌声。
思わず、ゾルドは歌の感想を口に出してしまった。
「なんで精霊がヘビメタ?」
”もっとポップな歌を歌うかと思ったのに……”
そう思って呟いた声は、ノームの歌声や演奏の音よりもかなり小さかった。
だが、ノーム達にはゾルドの声がしっかり聞こえたのだろう。
演奏をやめ、ギターボーカルのノームがゾルドに歩みよる。
そして、素早くゾルドの股間にギターで殴り付けた。
「ごあああああ」
例え魔神のローブを着ていようとも、股間への一撃はよく響く。
ゾルドは悲鳴を上げて倒れ込む。
「ヘビメタじゃねぇ、ヘビィメタルだ! 覚えときな、このチンカス野郎!」
ノームはゾルドに向かって唾を吐き捨てる。
ヘビメタと言った事が、それだけ気に入らなかったようだ。
「ごめんなさい、この人は音楽に興味が無いの。悪気があって言ったわけじゃないわ」
「いや、俺の心配しろよ……」
真っ先にノームに謝るレジーナに、股間を抑えながらゾルドは抗議の声を上げる。
ゾルドのモノはレジーナにとっても大事なはずだ。
「あなたは怪我をしても、すぐに治るでしょ。でも、精霊達との関係は簡単に治らないのよ」
レジーナはゾルドにドライな対応をする。
身体がバラバラになっても、元通りになるくらいだ。
多少、叩かれた程度でどうにかなるはずがないと信じている。
それに、多少の期間であれば使い物にならなくなっても良いと思っている。
その方が良い薬になるだろうという考えだ。
レジーナがこういう考えをするようになったのも、全てゾルドが悪い。
数々の浮気で、彼女の心を傷つけたせいなのだから。
「なんだよ、そっちのダークエルフの姉ちゃんはわかってんじゃねぇか」
ノームは、ゾルドではなく自分達を優先した事に気をよくしたようだ。
「でも、どうして警告の歌なんて……。初めて聞いたわ。魔族と話が付いているんじゃないの?」
レジーナが言うように、この世界の精霊達は歌によって感情を表す。
先ほどの重低音の場合は”お前を受け入れない。どこかへ行け”という意味が含まれる。
通行許可を得たはずなのに、出ていけという意思表示をされるのは納得がいかない。
何か問題が発生しているのではないかと、レジーナは心配していた。
「そりゃあ、一部の連中とだろ。精霊だからって、なんでもかんでも意思統一できていると思うなよ。よそ者に自分達の領域を踏み荒らされるのが嫌いな奴だっているんだ。あっさりと要求を受け入れる腰抜け連中と一緒にするな」
どうやら、精霊も人間同様に”武闘派”や”穏健派”といった派閥があるようだった。
そして、ゾルド達の前に現れたのは武闘派。
外部からは誰も受け入れないという掟を破り、領内の通過を許可した者達に不満を持つ者だ。
だから、ゾルド達を追い返そうと警告の歌を歌ったのだった。
だが、感情があるという事は付け入るスキがあるという事。
特に感情で動くようなタイプは操りやすい。
「だったら、お前達も来いよ。これから代表者達と会う予定だ。納得できるまで話し合おうぜ」
「王の前だからといって、俺達が大人しくなると思うなよ」
ノームも不満をぶちまける良い機会だと思っているようだ。
ゾルドの提案に乗った。
「レックス、皆に休憩を取らせておけ。俺はこいつらと街に行ってくる」
「ハッ。ですが、お供を連れずともよろしいので?」
レックスはゾルドの身を案じたのではない。
魔神なのだから、自分の身を守る事はできると信じているからだ。
彼が心配したのは”お供を連れていない事で、軽く見られないか”という事だった。
「よそ者が我が物顔で村を歩くのは気に入らない奴もいるだろう。それに、お供はこいつらがしてくれるさ。なっ」
ゾルドはノームに声を掛けた。
よそ者を嫌っている本人が目の前にいる。
配慮をしているという事を示し、今後の布石にするつもりだ。
「ふん、誰がお供などするか。勝手に付いて来い」
そう言い残して、ノーム達は村へ先に歩いて行った。
とはいえ、サイズが小さいので人間に比べればゆっくりだ。
その後ろ姿を、レックスが面白くなさそうな顔で見ている。
「奴らに立場というものを教えた方が良いのでは?」
彼はゾルドの股間が殴られたり、無礼な態度を取られたりした事が気に食わなかった。
「今はまだ我慢だ。大きな変化を受け入れられない奴もいる。時間が必要だ」
ゾルドは寛容な精神でノーム達を許した。
精霊達も戦争に巻き込むつもりだったからだ。
交渉には、相手にとって弱みになる部分が多ければ多いほど良い。
魔神を殴ったという事実は大きな弱みとなる。
ゾルドは”殴ってくれてありがとう”と言いたいくらいだった。
「行くぞ、レジーナ」
「えぇ」
ゾルドはレジーナと共に、ノーム達の後を追って歩き始めた。