夜が明けたら
命というものの重量について、以前同僚と議論したことがある。
ある者は「その人間の体重ってことでいいだろ」と適当に吐き捨て、またある者は「体重計では測れない」などと主旨からズレた返答をした。
俺が最も共感したのが、同じ部隊でチームを組んでいたアンドリューの回答だ。
彼は生命の重さを、「1.5kg」だと云った。
理由を訊くと、相棒であるスナイパーライフルの引き金の重さが、ちょうどそれくらいだからだそうだ。
たった1.5kgを動かす程度の力を、右手の人差し指に掛けるだけだ。たったそれだけのことで、スコープの先にいる人間の生涯は閉じる。
その言葉にどうしようもない説得力を感じたのは、彼が戦死するそのときまでに、12人もの敵兵やテロリストを殺害した英雄だったからに他ならない。
「実際、俺は多くの仲間の命を救ってきたよ。それこそ、俺がこの手で殺してきた数よりも多くな」
大規模な奇襲を受ける前日、つまり奴が死ぬ一日前に、アンドリューが言っていたのを覚えている。
「だが俺は、もう気づいちまったんだ。たとえ仲間や祖国から英雄と崇められようと、もう俺の中の悪魔は消えてくれない。ライフルの引き金を絞り、何人もの敵兵をぶっ殺してきたその手で、自分の家族を抱き締めてやれると思うか? 穢れたその手で、我が子の頬に触れることが出来ると思うか?」
彼は死ぬその瞬間まで、罪の意識に首を締められていた。何も珍しいことじゃない。戦場に立ち、仲間を殺され、自らも人殺しになってしまった者は、もう心の底から笑うことは出来なくなる。
あの時アンドリューの心が壊れてしまっていたというのなら、彼の右腕だった俺も当然そうなのだろう。
*
あの地獄のような戦場からなんとか生還し、帰国してからもう一年近く経った。
俺は半ば眠っているかのような意識で、砂のように流れていく日々をやり過ごしている。退役した際に軍から貰った金を切り崩し、ロクに働きもせず、こうして昼間からハイネケンの中瓶を呷っているわけだ。
周囲の人間は俺のことを、「テロで殺された家族の仇討ちを見事果たした、誇り高くも哀れな退役軍人」という目で見ている。俺が無職のまま昼間から酒場に浸かっているのも、心理療法の一環であるとでも思っているのだろう。
俺はそんな「心優しい隣人たち」に、その「配慮のこもった眼差し」に、内心では殺意すら感じていた。想像の中での俺は毎日、行きつけのバーで機関銃を乱射して立てこもり、機動隊のスナイパーによる狙撃によって、めでたくくたばっていた。
――今、俺の腹の底では狂気が眠っている。
そいつはいつか必ず目覚めて、俺の日常を殺してしまう。生憎大切な人間はもういないが、それでも俺の命は消える。そうでなくとも、俺が俺として生きてきた連続性とやらは途絶えるのだろう。
そうだ。
俺は国を救った英雄などではない。
ただ臆病に、家族の仇討ちすら忘れ、自分が生き延びるためだけに人殺しを続けた悪魔なのだ。
ハイネケンの空き瓶を三つ程こしらえたあたりで、いつも俺の脳内では過去の残像が上映され始める。観客は俺ひとり。ポップコーンを投げ捨ててでも退席したくなるような、下らない物語だ。
*
最初はそうだ、復讐だった。
あの世界中の誰もが知っている有名な事件によって家族を失った俺は、テロリストどもへの復讐を誓い、軍へと志願した。
辛い訓練に耐えられたのは、テロリストどもをひとり残らずぶち殺して死体に小便を掛けてやる想像と、守るべき自分の日常など無いという事実があったからだ。
訓練所では、自らの心を殺すことで初めて1人前の兵士になると教わった。
愛国心から祖国を守るために入隊した者も、貧困から抜け出すために志願した者も、俺のように敵をぶっ殺したくてたまらない者でさえも。訓練が終わる頃には皆、立派な「兵士」に成長していた。その頃の俺は復讐心の他にも、命を掛けてでもやり遂げるべき漠然とした使命のようなものを感じていた。
シーンは切り替わる。
場面は、俺が初めて経験したテロリストとの銃撃戦へと移っていた。
頭上で鳴り響く轟音。機関銃が弾幕を張り、俺は土嚢から身動きが出来ずにいた。腰を抜かしてしまっていたのである。
ひとり、またひとりと仲間が倒れていく。
こちらの銃撃は、それより多くのテロリストを殺していく。俺は鼻の先で繰り広げられている命のやり取りに圧倒されていた。
既に何度も戦場を経験している仲間のひとりが、動けない俺に叫んだ。
「そこでお前は何をしてる。何をうずくまって、仲間が殺されていくのを指を咥えて見てる! 目の前にいるのはお前の家族の仇だ! 何故そこで震えていられるんだ! お前が大事そうに抱えている機関銃は、アクセサリーか何かか!?」
戦場では臆した者から先に死ぬ。命の軽量化に耐え切れなくなった弱い者から、振り落とされていく。
彼はそれを知っていて、だからこそ俺を挑発してくれたのだ。狂気に身を任せなければ、生き残れない。
俺は土嚢から身を乗り出し、絶叫とともに引き金を絞った。
引き金のわずかな重さと、肩で吸収した軽い衝撃、全身に伝わる機関銃の振動。
俺が初めて人を殺した感触とは、そのくらいあっけないものだった。
俺ははっと我に返り、意識は明け方のバーへと戻ってくる。
慌てて代金をテーブルに叩きつけると、逃げるように店を飛び出した。
酒が過去を忘れさせてくれることなどありはしない。そんなことにも気が付かないフリをして、いつも酒に溺れている。そして夕方頃にまた目が覚めて、街へと繰り出すという毎日をなぞるだけだ。
命のように心にも残量があるのなら、俺のそれはあと僅かしかない。気が狂って街中で機関銃を乱射してしまうまで、あとほんの少しだ。
人気の無い明け方の街をひとり歩く。
空の向こうの方は既に紫掛かっており、もうすぐ夜が明けようとしていた。
――俺は、人を殺してきた。
大義名分のもとに、曖昧な何かを守るために。何人も。何人も。何人も。
墓の下の彼らにも家族があり、守るべき信念があり、だからこそ戦わざるを得なかったのだろう。
戦争に正義はない。もしあるとしたら、それは欺瞞だ。
人々を傷付け、家々に火を放ち、殺し殺されて、それらの悲劇をコンクリートで埋め立てた上にしか正義は存在しない。独裁者の像を倒しても、テロリストの指導者を抹殺しても、そこに正義などありはしない。
あるのは、「やらざるを得なかった」という事情と、「やってしまった」という事実だけだ。誰も英雄などではない。かといって、俺や彼らが悪人だったとも思えない。
夜の終わり、音の消えた街を歩いていると、俺は自分の頬に涙が流れていることに気が付いた。
自分の未来に絶望しているのか。それとも、夜が明けていく空の美しさに胸を打たれているのか。分からない。誰にも分かりはしない。
心を殺し、人間を殺し、自分を殺してきた俺が救われることなどあるのだろうか。
誰かを傷付けた分だけ、誰かを救うことなど出来るのだろうか。
分からない。誰にも分かりはしない。この紫色の世界の何処にも、答えなど転がってはいない。
しばらく歩いて、俺は自分の涙の理由を悟った。
「……ああ。……俺は許されたいのか」
夜が明けたら、誰かに許して貰えるのだろうか。
夜が明けたら、誰かを愛してもいいのだろうか。
夜が明けたら…………。
アルコールに足を取られ、俺はアスファルトの上に倒れ込む。仰向けになって空を見上げると、地平線の向こうから橙色の光が顔を出していた。
もうすぐ、夜が明ける。
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(個人的テーマソング・きのこ帝国/夜が明けたら)