001
幽世を訪れるのは中学校の社会科見学以来のことだった。
それが、中一だったか、中二だったか、九年前なのか、十年前なのか、はっきりと思い出すことができない。中三でなかったことは確かなのだが、一緒に異界に入った担任教師の顔も、クラスメイトの名前も記憶の中から出てこない。
薄情な奴だ。だが、案外そんな物じゃあないだろうか? 誰だって今の人間関係が大切で、七年も情報が更新されない人物の顔と名前を覚えている奴の方が少ないんじゃあないだろうか?
そう言う風に思える所が、やはり薄情なのだろう。
だが、空調の整った境界門管理センター内に設置された鳥居を潜り、現世と幽世を隔てる境界線を越えるこの奇妙な感覚はハッキリと覚えていた。俗に酔うと表現するらしいが、飲酒による酔いとはまた種類が違う。どちらかと言えば西瓜割りをする時のような、三半規管に狂いが生じる感覚に似ている。
もっとも、それは鳥居を通過する際の本当に数秒間だけの出来事だ。
境界線を越えると、酔いは醒めた。
いや。目が覚めたと言うべきだろうか?
視界に飛び込んで来たのは、原始の姿をそのままに残す密林の光景。視界を埋め尽くさんばかりの苔生した大木の群の絵的なインパクトも凄いが、濃い森の臭いがコンクリートジャングル育ちの俺を圧倒させる。
とても語彙で言い表せるものではない。写真で見ても理解できないだろう。実際に足を踏み入れ体験してこそわかることが在るのだと、今更に俺は知った。
これが自然。
不自然極まりない程の自然物の量が、俺の中の何かを擽り、柄にもなく感動させていた。
「おお!」
「わぁ~」
と、同行――いや、探索者パーティーを組んだ少女二人は、その若さ故か、それとも穢れていない感性故か、俺よりも素直に感動を表現した。大人になるって、悲しいことなのな。
「相生ちゃん。綿部ちゃん。気分が悪くなったりしていない?」
その様子からは大丈夫そうではあるが、念の為に左に並ぶ二人に声をかける。彼女達と同じく、俺も幽世初心者であるが、年上であるし、男であるし、役に立つと言うか、頼りになると言うか、存在感を主張しておきたかった。
初対面同然の彼女達に舵を任せるよりも、まだ自分が仕切った方が上手く行くだろう。
要するに、政治的判断と言う奴であり、自分の保身の為である。
「うん? 大丈夫っすよ、高木さん」
快活に応えたのは、相生葵ちゃん。ちょっと思い切り過ぎじゃない? と突っ込みたくなるベリーショートヘアであるが、それが非常に似合っている。男でも女でも、短い髪と言うのは選ばれた輪郭や頭の形をした人間しか似合わない。そう言う意味では彼女は骨格から美人なのかもしれない。背筋もピンとしていて、良い具合に日焼けした小麦色の肌はいかにも健康的で宜しい。
「あ、は、はい。その、えっと、だだ大丈夫です」
その横。相生ちゃんに隠れるようにして、しどろもどろに応えたのが、ピンクの眼鏡をかけた気の弱そうな綿部紅蓮ちゃん。勇ましい名前の彼女ではあるが、ゆるいツインおさげの似合う内気そうな女の子と言った風だ。男が怖いのか、年上が怖いのか、或いは両方か。俺とは一定の距離を保っている。まあ、妥当な距離感だろう。体躯は小柄ではあるが、やぼったい迷彩ジャージの上からでも…………いや、止めておこう。未成年相手にセクハラも寒い。
「そっか。じゃあ。取り敢えず、自己紹介でもしようか」
二人の健康状態に問題がないと聴いて、俺は支給されたリュックサックを足元に下ろす。苔から染み出た水や、落ち葉に隠れ潜んだ小さな虫やら、かなり抵抗があるが、自分のリュックではないから気にしない。ついでに一メートル近い鉄製の棒も近くの大木に立てかけておく。重いんだよ、これ。
「自己紹介? おいおい高木さん。入学式の日に自己紹介ならしたっすよ?」
「そ、そうですよ。それに、時間内に怪物を一人三体も倒さなくちゃ駄目なんですよ?」
二人揃って仲良く反論をする相生ちゃんと綿部ちゃん。予想していたナイスリアクションである。否定から入って貰った方が話しを進めやすい。ここで彼女達を上手く丸めこむことが出来たら、それは俺の能力を認めたと言うことであり、信用に値する要素の一つになるだろう。
人間関係でもっとも重要なのは『何を与えてくれるか』だ。
…………なんか詐欺師見たいだな、俺。ただ単に、信頼関係を建設的に気付こうとしているだけなんだけと。
「時間の方は大丈夫」
まずは、綿部ちゃんの疑問に応える。時間と言う資源の使い方に関する優先権は手にしておきたい。
大丈夫。根拠はある。失敗はしない。
頼りになる存在だと思わせる為に、俺はゆっくりと、余裕を見せながら二人に説明する。
「俺の覚醒技能には『索敵技能』がある。まだ慣れてないけど、索敵範囲内に二つの異界生物の反応がある。六時間もあれば二十体は接敵できると思う」
結果。根拠に技能を上げたことは効果的だった。二人は俺の言葉に驚いたような、同時に不安げな表情を見せて手にした鉄の棒を構える。一週間程度訓練を受けはしたが、それだけで達人になれるわけでもない。俺から見てもへっぴり腰で非常に頼りない。
「大丈夫。直ぐには襲ってこない。って言うか、多分、襲ってはこない。逃げることはあってもね」
自分の台詞に説得力を持たせようと、後ろの大樹に背中を預け、腕を組む。やや、演出過剰か? が、止めると言うのも今更か。
「な、なんで、そう思うんですか?」
「良い質問だ、綿部ちゃん」
詐欺師は相手に質問をさせると言う。いや、だから俺は詐欺をするつもりはないのだけれども。兎に角、疑問に応える行為は、そのまま二人の間の立場を決定的にしてしまう。勿論、正しく答えることがその前提だが。
「単純に、今の俺達じゃあ戦闘なんてできないからだよ。異界の化物どころか、大型犬に襲われても負ける自身が俺にはある。たかだか一週間程度の訓練で、いきなり戦って来いなんて無茶だろ」
「それは、確かにそうっすね。でも、化物を殺せない生徒に、化物を殺すテストを出すなんて無理難題っすよ」
「いや、相生ちゃん。多分、ここに出て来る化物は、超弱い。技能覚醒してなくても勝てるような奴だと思う」
「へ?」
「多分、小さい亜人の様な生物じゃあないかな。もしかしたら、凄く可愛いかもしれない。そいつらを殺すことで、俺達に『生物を殺す』と言う行為から抵抗を取り除く授業だと思う」
推論に推論を重ねている感は否めないが、恐らくは正解の筈だ。この二十一世紀の文明社会において、生物を殺した経験がある人は限られている。そして殺すことが出来る人間も限られているだろう。
実力的には誰だって子犬を殺すこと位はできる、しかし心理的な要因からそれを実行に移すのは難しい。
だから最初にその心を取り除く。化物を殺すことから抵抗を失くす。
それが、現代を生きる探索者が異界で最初に学ぶべきことだろう。
「あー、なるほど」
「た、たしかに、それは有り得そうです。私、子犬なんて殺せません」
あっけからんとした相生ちゃんと、想像しただけで涙目になる綿部ちゃん。互いのキャラクター性が良く出ているが、二人とも納得はしてくれたようだった。
第一段階はクリア、かな?
「で、自己紹介なんだけど、勿論これにも意味がある」
と、そこでたたみ掛けるように俺は話題を移した。もしかして反論が飛んできたら嫌だったし、時間に余裕があるとは言え、貴重なのは変わらない。あり難いことに、二人は何も言わずに俺の台詞の続きを待ってくれた。
「このパーティーが一時的な物なのか、暫くは同じなのかはわからないけど、見ず知らずの他人と行動するのと、友達と行動するのでは意味が違うだろ?」
「友達……」
と、口に出したのは意外にも綿部ちゃんだった。二十歳を超えた男が、十五歳の女の子相手に『友達になろう』と言うのがそんなにおかしいか?
おかしいよなぁ。おかしいというか、変態だ。
でも、他に言葉が思い付かなかった。『仲間』だとちょっとニュアンスが重すぎるし。
聴こえない振りをして話しを進める。
「ただのクラスメイトを、危険を冒してまで助けようと思わないけど、友達なら多少の無茶もできる。だから改めて自己紹介をしようって話しさ。他を知り己を知ればって奴だ」
最後の格言は使い方が違うが、まあ良い。
「そうっすね。高木さんに私も賛成っす。紅蓮ちゃんは?」
やっぱりあっけからんと相生ちゃんは賛同し、
「わ、私も、賛成、です。友達ですから!」
綿部ちゃんはなんだか気合十分と言う風だ。
「じゃあ、俺から」
この良い雰囲気のまま、俺は自己紹介を口にする。
「高木勇誠。二十二歳。知っているとは思うけど、大学卒業後、探索者を目指して学園に来た。理由は社会に出たくないから。覚醒技能は『索敵』と『付与』どちらかと言えば後衛的な技能の組み合わせだが、まあ唯一の男だ。多少の無茶は任せてくれても良いよ」
「働きたくないから、っすか?」
「そう。学生最高! 労働反対!」
「…………」「…………」
あれ? 二人の尊敬度が下がる音が聴こえるぞ。何か、ここは取り繕った方が良いのだろうか? でも、この本音だけは偽れないし……。
「私は、相生葵っす。私は頭悪しい、身体を動かすのも嫌いじゃあなかったっすからね。折角探索者としての才能があるなら、ならないって選択肢はなかったっすね。覚醒技能は『近接戦闘』と『気功術』のバリバリ前衛型っす。交友を深めるって言うなら、私のことは葵と呼んで欲しいっす」
なんて考えている内に、相生ちゃん改め葵が自己紹介をしてしまう。もう、撤回のチャンスはないと思った方が良いかもしれない。まあ、その内に彼女達にもわかるさ、労働と言う行為がどれだけ愚かな行為であるかと言うことが。
「えっと、私は綿部紅蓮です。その、私もできれば名前で呼んでくれると嬉しいです。苗字は、その、色々ありましたから。技能は『遠距離魔法』と『薬物作成』の後衛補佐型になると思います」
色々の中身が気になる自己紹介を終えた紅蓮は、何かを期待するような目で俺と葵に交互に目をやる。その意味を俺よりも早く察したのは、同棲同年代の葵。
「よっし。宜しくな、紅蓮!」
「はい! 葵ちゃん!」
どうやら、単純に名前を呼んで欲しかっただけのようだ。そう言えばこの娘、いつも教室の隅で本を読むだけで、あまり誰かと話している所を見たことがなかったな。積極的に自分から話しかける方ではなさそうだし、コミュニケーションに餓えていたのかもしれない。
なら、ここは俺から距離を詰める所だろう。
「じゃあ、葵に紅蓮。俺のことをお兄ちゃんと、呼んでくれ」
そう言って、俺は右手を二人の前に突き出す。円陣と言う人数ではないが、互いの手を重ね合わせ、気合でも入れようと言う考えだ。体育会系のノリはあまり好きではないが、団結しているような雰囲気を出すには悪くない。
「…………」「…………」
が、二人は同じようにしてくれない。まさか、意味がわからないわけではないだろう。
と、言うか。二人との心理的な距離が離れている気すらする。
何を間違えたんだろうか?
「俺のことは勇誠で良いよ。高木って一杯いそうだしな」
「そうっすね。よろしくな、勇誠さん!」
「よろしくお願いします、勇誠さん」
テイク二は無事に成功した。二人は武器の鉄棒こそ握ったままだが、俺の掌に葵、紅蓮と言う順番で掌を重ねる。
「よし! 絶対にクリアするぞ!」
そして俺の音頭に合わせ、顔を見合わせて叫び、腕を勢い良く振り上げた。
「おー!」「おー!」




