サボりのメガネのスーツの顧問
とはいえやはり締め括り方が無理矢理すぎたせいか、唖然とした表情から早くも復活を遂げた沢渡から、ちょっと待ってくださいよ、との抗議の声が上がった。
拒否権はないと言ったはずだが。まぁ抗議の権利までは奪ってないから、それは良いこととしようか。私だって鬼ではないのだ。それに、去年同じように唖然として、当時の会長に力なく抗議した記憶もある。
たしかあの時あの人は、
「はーい質疑応答は手短にやりたいので一人一問でどーうぞ!」
こう言ったのだった。一言一句違わずリピートアフターユー。そうして質問の個数を制限してやれば、途端に沢渡はぐ、と言葉を詰まらせる。素直なもんだ。私は去年先輩を無視して質問しまくったものだけれど。
沢渡はしばらく考え込むように目を泳がせた。疑問はたくさんあることだろう。せいぜいその脳味噌をフル稼働させて、頭の良い質問をよこしてほしいものだ。
そしてたっぷり数分、いやもしかすると数十秒かもしれないが、それでも会話中の間としては多すぎる沈黙の後、沢渡のくちびるから零れた問いは、「どういう基準で選んでるんですか」というそれだった。
私は思わず、肺の空気を全て絞り出すようなため息をつき、頭を振った。少々大仰であるような気もするが、道化師のようなその仕草は、ここ一年で前会長から存分に受け継いでしまったものだった。
私たちの前で道化となりきり、狂ったように戯けて芝居をし続けたあの二つ上の先輩は、ついにその仮面を外さないまま、一月前、学校から姿を消した。それは失踪しただとか、神隠しにあっただとかいう禍々しく非現実的なものでは決してなく、ただ三年生として卒業して行っただけのこと。そして私も丹羽も、先輩の進路を聞かなかった。奇妙な威厳で私たちを慕わせたその背中を、進路などといういやに現実じみた単語でもって見納めとしてしまうのが、ただ惜しかった。
別段寂しいとも思わせなかったその別れ、その背中は、しかし脳裏にこびり付くには十分な衝撃と濃厚さを持って、今も私を静かに、少しづつ追いつめていく。気づけば私は先輩の面影を追いかけ、安っぽく戯けた芝居を重ねて新入生の前に立っているのである。先輩の思惑通り、なんだろうか。
「散々悩んだ結果その質問か。ナンセンスだね」
「うっせぇです」
仮にも一つ上の先輩に対して、なんと清々しいほどの悪態をついてみせることか。ある意味での好感と一種の尊敬の念さえも感じる。
もう一度私は深くため息を吐いて、オフィスチェアに腰を戻した。足と腕を組むのは、先輩は関係なく私の元からの癖である。
人口密度が上がって暑いから、適当に丹羽を使って窓を開け放つ。風がびゅんと吹き込むが、春麗かに桜の花びらを運んで来るわけでもなく、ただこれまでの人生で一回しかはさみを入れたことのない私の腰まで落ちる黒い髪を舞いあげた。実にうっとおしい。
「まぁ、基本はうちのサボリ魔が適当に……」
「はい、サボリ魔の私が適正に応じて選んでます」
「あああああ!?」
一峠の叫び声の原因は、今まさに私が座っているオフィスチェアの後ろ、廊下の反対側の窓から顔を出した、我が生徒会執行部顧問の宮間だった。一応ことわっておくが、ここ生徒会室は三階だ。廊下の反対側の窓の外はもちろん校舎の壁があるのみで、宮間の頭の後ろには、光を反射して白くちかちか光る校庭と緑のネットが見えていた。
「……宮間先生、何故そのようなところからいらっしゃるのでしょう」
「おや、鷹司が私を先生と呼び敬語を使う日が訪れようとは。ケーキでも買ってきましょうかね」
「貴様、突き落とされて死にたいか。あぁ、ケーキは買って来い。アントルシャのレアチーズケーキ」
「言われずとも今日は新入生が来るのは分かっていたので買ってきてます」
「よぉしよくやった、入れ」
宮間は何やら汚れた水と雑巾が入ったポリバケツをまず窓から教室へ入れて、そのあと窓枠を飛び越えた。ちらと窓から外を見ると、普段さすがの丹羽でも掃除の手が届かず埃が積もり薄汚れていた犬走りが、もとの白さを取り戻していた。どうやらご丁寧に犬走りを掃除していたらしい。業者に頼めばいいものを。
まぁ、顔を見たのはさて何ヶ月前だろうかと頭を捻るくらいにはサボり続けていた顧問が生徒会室に顔を出したというだけでも褒めるに値するだろう。宮間はところどころ白い埃みたいなものがついてしまったグレーのスーツをはたき、軽く傾いた眼鏡を直し、ちょいと出てしまった後れ毛を撫でつけ、捲っていた袖を下ろすとくふん、と形ばかりの咳払いをし、簡潔に生徒会執行部顧問の宮間です、とだけ名乗った。
「先生が選んでるってどういうことですか」
沢渡が生真面目に問う。
「適性で選ぶってんなら、上代は選ばれるはずないと思うんですけど」
「言うよねーお京も」
沢渡は隣に立つ上代の、無色だが確実にじとりとした視線を適当に無視しつつ、どうなんですか、と重ねて訊いた。
ふむ、とわざとらしく眼鏡を中指で上げてみせた宮間は、目の前の上代を目を細めて見た。普段の胡乱げな視線ではなく、眼鏡の奥の瞳が一瞬、ぴかりと光ったようにも感じられた。
たまに、だ。
ほんのたまに、この宮間敬一という男は、こんな目をする。だから侮れないのだ。この竹河高校執行部に、ある大仕事を与えたのはこの宮間らしい。そういうことを先輩から聞いたときは、やはりなかなかのやり手であったかと、密かに見直したーーというより、警戒しなおしたーーものである。
その時、腑抜けた音したチャイムが鳴って、川久保の声が生徒完全下校の7時まで、あと10分もないことを知らせた。そもそも、だ。ここに全員が集合する時間が遅すぎる。これじゃあ説明も何もないじゃないか。
「あの、俺たち帰らないといけないんじゃないんですか」
久しぶりに声を出した一峠は、生真面目に完全下校の時刻が迫ってきていることを危惧していた。それをまぁまぁ気にしないで、と軽くあしらいつつ、三人に放課後の用事が無いことを確認する。
いつの間にか座っている私の隣に立っていた丹羽が、生徒会室の隅にあるスピーカーのスイッチを切った。部屋の中のスピーカーは途端に仕事をやめたが、川久保のアナウンスは、依然廊下から漏れ聞こえてきていた。
宮間はもう一度、眼鏡のフレームをかちりと上げ直した。
「まぁ、百聞は一見に如かずと言いますしね。これから少し付き合って頂けますか?」
「は? 連れて行くの?」
思わず、シャーペンの芯を出し続けていた手を止める。
「まだ何にも説明してないじゃん」
「それは去年のあなた達も同じでしょう」
「いや、私達は何があるかの説明は受けたよ」
「そうでしたか?」
はて、と首を傾げる宮間は本気で覚えていないようで、私は小さくため息を吐いた。しかし宮間はそんな私のため息などお構い無しで、廊下の方へ視線を向けると、こくんと一人で頷いた。
「ま、大丈夫でしょう。今夜は人の動きが多かったので、大人しいようですし、危ないこともないでしょうからね」
そう言ってことを一人で決めてしまった宮間の横顔を恨めしく睨む。気に食わない。普段いないくせに、先を見通してえらく余裕そうなその態度が気に食わない。実際のところは何もしないくせに。
「では、行きましょうか」
薄ぼんやりと微笑んだ宮間の声に重なって、完全下校時刻の7時を告げるチャイムが鳴った。
すでに太陽は西の山脈に沈み、辺りは薄暗く、遠くに非常灯の緑の明かりが見えるのみ。早くも職員室の蛍光灯の光も無く、校舎に人影も見当たらない。
これが本当の放課後。
私たちの放課後清掃が、始まる。