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 紺野瑠香。彼女とは十年近く前に一度会ったきりだった。その後の彼女の境遇について真由美は何一つ知らない。そして知ろうともしなかった。

 夫の初婚の相手に真由美は興味がなかった。そこに興味を持ったら結局は彼が今まで付き合ってきた女性全員に興味を持たなくてはいけないことになってしまうと割り切った。真由美にとっては過去の女たちは所詮過去であり他人だと思うことにしていた。

 しかし瑠香だけは違う。彼女だけは少なくとも他人ではない。彼女は夫の実の娘なのだ。そう思って真由美は桜井と結婚する前に桜井には内緒で瑠香と連絡をとったことがある。何を話すつもりでもなかった。ただ夫となる人の遺伝子を持った人間に一目会っておきたかったのだ。ただそれだけだった。

 瑠香は真理と三歳違いだから十年前はまだ中学生だったはずだが利発そうな瞳が印象的で十代半ばで人生の辛苦を知っているような悲しげな影を抱いている「女性」だった。当時彼女は内面的にはもう成熟した一人の大人だったのだろう。両親の離婚が彼女を子供のままにはいさせなかったのだろうか。

「悩み事ができたら気軽に相談してね」

 能天気にそんな社交辞令を口にしてしまった真由美に瑠香は屈託のない愛想笑いを返してくれた。いつの間にか裏切られる痛みを忘れ求められて結婚することになった愚かな女にそんな優しくしたたかな芸当のできる俊才だった。

 真由美は財布を持って玄関に向かった。瑠香を家に上げる気にはなれなかった。夫の実の娘にだけは見せることはできない。以前桜井と名乗っていた彼女にだけは今の桜井家の中の事実を何一つ見破られたくなかった。

 彼女は何を告げに来たのだろうか。まさか十年前の言葉を思い出して悩み事を打ち明けに来たわけでもあるまい。相談したいのは真由美の方だった。私が生きていくにはいったいどうすれば良いのか。夫の血族であり家族ではない彼女なら何か良き解決策を示してくれるかもしれない。一瞬本気でそう考えてしまい真由美は慌てて首を横に振りドアを開いた。

 玄関に物静かに佇んでいる二十四歳の瑠香は目立った美貌の持ち主だった。少し吊り気味の目元や、か細いなで肩から伝わる物悲しい雰囲気は十年前のままだったが、豊かな胸の膨らみや腰のくびれは少女時代にはなかったものだった。男を知っている。だからこそ出来上がった完璧な女の身体だと真由美は感じた。少し長めの前髪の向こうに見える表情は上手な化粧で華やかになったが相変わらず影を漂わせているのは目鼻立ちが整っていて彫りが深いからだろうか。その陰影が作り出す大人の女の色香に、真由美はもし自分が男だったら大枚をはたいてもこういう女を抱いてみたいと思うのだろうと想像した。

 真由美は挨拶もそこそこに瑠香を促してさっさと歩き出した。とにかく真由美の幸せを妬んでいるであろう瑠香を家から遠ざけたい。それだけだった。ここで玄関の奥にはびこっている我が身の不幸を瑠香に悟られでもしたら今なんとか自分を踏みとどまらせている女の意地のようなものまでがしぼんでしまうと真由美は思った。彼女から嘲りや哀れみを受けることだけは耐えられない。それは生きていくために必要最小限の矜持だった。

 真由美は駅前の喫茶店を選んだ。そこは全国展開しているチェーン店で、客層も幅広ければ店内の作りも広くいつも適度に賑やかなので周囲に気を遣わずに腰を据えて談笑していられるような雰囲気だった。まさか瑠香との会話が笑い話で済むとは思えなかったが周囲に気兼ねせずに話題に集中するには逆にこれぐらいの喧騒があった方が良い。

 真由美はキャラメル何とかといういかにも甘そうな名前の飲み物を注文した。

 真由美は疲れていた。ただでさえ寝ても覚めても辛酸だけを噛みしめる日々で心労が積み重なっているにもかかわらず突然の村瀬からの電話に瑠香の来訪と不意打ちを続けざまに二発も喰らっている。少しでも力を抜くとこの弱々しい秋の日差しにすら目が眩み倒れてしまいそうだった。普段はあまり甘いものを摂らないのだが今日に限っては咽喉にまとわりつくような粘着的な濃い甘味を身体が欲していた。

 瑠香を席に待たせ彼女が注文した何の飾り気もないコーヒーをカウンターから受け取ると真由美は颯爽と瑠香が座る窓際へ歩きだした。毛筋ほども我が身の不幸を悟られてはならない。向かい合って腰を下ろし瑠香の前にコーヒーを置くと真由美はテーブルに伏せたくなるような疲労感を奥歯で噛締めてこらえ、ようやく久闊を叙した。

「十年ぶりね。元気にしてた?お母さんは元気?」

「私はこの通りです。周りからは元気そうには見られないこともあるんですけどそれなりに健康的にやってます。母はどうなんでしょう。最近は会ってないからよく知りませんけど、連絡がないってことは、元気な証拠だと思ってます」

 そう言って少し微笑んだ瑠香の目尻には女の真由美でさえもドキッとするほど色気が漂っている。吊り目の女が柔和に笑うとこうも愛らしいものかと思った。

 雑談も程なく終わってしまう。真由美は瑠香の私生活について深く尋ねることも、自分の私生活について踏み込まれることも避けたかった。瑠香も同じ気持ちだろう。真由美が桜井と出会ったときにはすでに桜井はバツイチになっていたので彼女との間に険悪な感情はないと思っている。しかしそれでも真由美にしてみれば瑠香は夫の前妻との間にできた唯一の血の繋がった娘であり、瑠香にしてみれば本来ならば自分の母親が座しているべき桜井の妻という立場に真由美がいるのだから、お互いに何となく距離をおきたい相手だった。その瑠香が電話ではなくわざわざ家にまで来たのだから余程のことがあるのだろう。今さら何の用かと真由美はそればかりが気になって仕方なかった。

「この子は突然やってきて何を言い出すつもりなんだろう、って思っていらっしゃいますよね」

「そんなこと・・・」真由美は否定しかけたが、あまりに白々しいので止めた。「思ってます」

「当然そうだと思います。何だか思い立ったら気が急いてしまって。申し訳ありませんでした」

「気になさらなくていいのよ。どうせ暇な身分ですから。話し相手ができて良かったぐらい」

 確かに話し相手はほしかったが、亭主の前妻との娘というのは避けたかった。瑠香がこんな風に会いに来たのは初めてのことだった。瑠香は何か重大なことを打ち明けようとしている。

 勘弁してほしい。

 自分の問題だけで精一杯なのだ。他人の悩み事にアドバイスをする余裕など逆立ちしたって生まれてはこない。

「驚かずに聞いてください」

 頷いた真由美は本当に何を言われても驚かない自信があった。この世界は何が起こるか分からない。実の娘に夫を寝取られるなどという驚天動地の真実を目の当たりにしている真由美はもう驚くという感覚自体が麻痺しているような気がするほど神経が鈍感になっている。そうでなければ真由美の精神が破綻してしまう。いや、すでに壊れてしまっているのかもしれない。だからこそ何事にも動じなくなってしまったのだろうか。

「今、私は父の会社に勤めています。もう3年目です」

 さもありなんと真由美は再び黙って頷いた。

 男親はとかく娘を可愛がるものだ。愛娘に対しては誰もが目の中に入れても痛くないほどの愛着振りを見せる。何歳になっても自分の娘だけは処女だと幻想を抱いている輩も多い。真由美も父親には可愛がられたと思う。だからこそ未婚の真由美が妊娠を告げたときの父が受けた衝撃は相当のものだったのだろう。頭に血が上った父はふらふらと倒れてしまいそのまま数日寝込んでしまったものだった。桜井だって実の娘は可愛いだろう。今の不況の時代、瑠香のような美しい一人娘が就職に困っていたら自分の会社にと思うのは当然の親心だ。

「私、村瀬さんと付き合っています」

 これはさすがに軽い驚きがあった。夫の会社に村瀬という姓の社員は複数いるかもしれない。瑠香の言う村瀬があの村瀬とは限らない。そういう淡い希望を打ち砕く目を瑠香はしていた。口元を引き締めてこちらに挑みかかるような表情の彼女が言いたいことは明らかだった。そして瑠香は予想通りの言葉を口にした。

「村瀬さんを私に返してください。お願いします」

 真由美は後悔していた。このキャラメル何とかは甘すぎた。慣れないものを口にするとこうしたものだ。胃の奥から咽喉元へ胃酸が津波のように激しく押し寄せてくる。糖分が膜を張って咽喉にまとわりつき呼吸を阻害しているような感触がある。真由美は瑠香の手元にあるコーヒーに目をやった。安物のインスタントコーヒーと色も香りも何ら変わらなさそうな陳腐な黒い液体。あれを飲めば少しは楽になるだろう。真由美は瑠香の話を聞いていなかった。或いは話を聞いたからこそ違うことに意識を向けているのかもしれない。瑠香の声が遠くに聞こえる。周りの雑音と同じくらいのボリュームでしかなかった。

「お願いします。私、本気なんです」

 冗談じゃない。

 私だって十二分に本気なのだと真由美は思った。生きる希望を村瀬に託しているのである。これに失敗すれば本当に死んでやる。それぐらいの覚悟なのだ。彼女の本気がどれ程のものかは知らないが彼女に同情して村瀬を譲ることなどありえない。

 しかし、何という因果だろうか。前妻との娘と後添えの連れ子とが同じ男性を求め合う格好になるとは。だが後戻りはできない。真理は何としても村瀬と結婚させなくてはいけない。

「真理さんはよく会社に来て父と会ってるみたいですね。今日もお見かけしました。まったく部長室で何をしてるのかしら。・・・私が言うのも何ですけどあの仲の良さは本当の父娘以上です。気持ち悪いわ。真由美さんは一緒に暮らしていてよく平気ですね」

 放心から覚めた真由美が気がついたときには瑠香は姿を消していた。カップの中身は少しも減っていない。真由美は向かいから受け皿ごと手繰り寄せ冷めてこの上なく不味いコーヒーを一息に飲み干した。


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