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 真由美はぼんやりとピアノに向かって座っていた。落ち着いて考え事をするのは決まってピアノの前だ。そしていくら考えても答えが出ないときは鍵盤の上に手を置いてみる。すると決まって思考回路の渋滞とは対照的に真由美の奔放な指先はまるでそこに意思があるかのように勝手に踊り出し好きなベートーベンのメロディーを軽やかに奏でていくのだ。今日指が選んだのは「テンペスト」だった。アレグレットのリズムが知らず知らずのうちに真由美の心を無にしていく。そう、ただひたすらピアノにだけ集中していれば何も考えなくて済む。いくら考えたって仕方のないことなのだから。

 でも苦しい。

 真由美は突然指を止めると腕を振り上げ両の掌を思い切り鍵盤に叩き付けた。周囲の壁や窓が砕け散ってしまいそうな勢いで破壊的な音が鳴り響く。そのままの勢いで鍵盤の上に突っ伏すと真由美は息苦しさに激しく肩を上下させて掻き集めるように空気を肺に取り込んだ。

 どうしてこんなことになってしまったのだろう。幸せだった生活の崩落の始まりはいつだったのだろう。また昨夜のドアの向こうからの聞きたくなくても漏れ聞こえてくる声と音が真由美の耳に繰り返される。

 夫と寝室を別にするようになったのは5年ほど前からだった。原因は真由美の不眠症だった。真由美はもともと寝つきが良い方ではなかった。身体が芯まで疲れきっていたり、翌日が早く起きなくてはいけない日だったりすると目を閉じていればいるほど妙に目が冴えてきてしまい、いつまでもベッドの中でもぞもぞと寝返りを打っているということがしばしばあったのだが、ある日突然眠り方を忘れてしまったように眠れなくなり、ようやく寝付いても二、三時間で目が覚めてしまいその後は朝まで寝付くことができなくなったりするようになってしまった。

 夫はそんな真由美に冷たく接したりはしなかった。真由美が眠くなるまでおしゃべりにつきあってくれたり、眠気を誘うという足裏のつぼを刺激してくれたり、真由美が深夜に目を覚ますとそれに敏感に気付いて手を握ってくれたり肩を抱いてくれたりした。しかしその夫の優しさが次第に真由美にはつらくなっていった。妻がどうであれ布団に入ったらすぐ寝付き、ちょっとやそっとのことでは目を覚まさないほど深く眠れる夫だったら真由美も気が楽だったかもしれない。だが彼は献身的な性格だった。自分が隣で寝ていては夜遅くまで仕事をして疲れているはずの夫を深夜に起こしてしまう。寝付けずに何度も寝返りを繰り返していては夫の疲れが癒されない。「気にするな。仕方ないことじゃないか」と彼は言ってくれたし、眠れなくても愛する人の温度を感じているだけで十二分に幸せではあった。でも、せめて夫だけでもぐっすり眠って次の日に疲れが残らないようにしてほしい。真由美は身を切るような想いで夫の布団から脱け出したのだった。

 異変に気付いたのは半年ほど前だった。その夜も真由美は寝つきが悪かった。二時ごろになって咽喉の渇きを覚えキッチンに向かい水を飲んで部屋に戻ろうと夫の部屋の前を横切ったとき中から娘の真理の声が聞こえてきた気がした。

 真理と夫は血が繋がっていない。真理は真由美の連れ子だった。

 真理の実の父親はいわゆる遊び人だった。今振り返ってみれば彼にとって私は何人かのうちの一人だったのだろうと真由美は思う。子供が出来たの、と告げた真由美に彼は即座に「堕ろせ」と映画の中でも見たことのないような冷たい目で言い放った。真由美はお腹の中の命を凍らせるようなそのおぞましい視線に恐怖を感じ音楽教師の仕事を辞め借りていた部屋を引き払って逃げるように彼の前から姿を消したのだった。

 今の夫とは十年前、真理が中学生のときに結婚した。彼はいわゆるバツイチで再婚という引け目を感じていたのかもしれないが中学生の真理を含めて真由美の全てを受け入れると言ってくれた。実際に新しい家族3人で一つ屋根の下で暮らし始めても夫は他人の子である真理をすげなくあしらったり暴力を振るったりすることは一切なかった。優しくというよりは丁寧に接してくれていたと思う。しかしいくらできた人間でも夫には心の中では知らない男の娘という思いがあるだろうし、真理にも突然現れた知らない大人の男性に遠慮や戸惑いがあり完全に心を開くことはなかなかできないだろう。それが夫にとっては妻であり、娘にとっては実母である真由美を抜きにして二人っきりで打ち解け話し合っているということは真由美にとっては嬉しい事実だった。いつからそんなに仲良くなったのだろう。真理が何か相談事をしているのだろうか。それとも夫が真理の興味や視点を若い女性の意見として参考にでもしているのだろうか。真由美は胸の奥に温かいものが流れるのを感じながらそっとドアに聞き耳を立てた。

「パパのこれって硬くって気持ちいいね」

 真由美の心が一瞬にして凍りついた。娘は今何と言ったのか。いや、何かの間違いだ。そんなはずはない。

「真理の身体も瑞々しくて素敵だよ」

 真由美の中で何かがはちきれた。突然膝から下の感覚を失い身体と精神が液状化して流されていきそうになる感覚に襲われた。悪夢だ。これは悪い夢に違いない。目に映る世界がみるみる色を失い胃の底から身体全体を揺さぶるような吐き気がこみ上げてくる。この世界で唯一の安息の地である3メートルと離れていない自分の部屋に真由美は逃げるようにして重い足を運んだ。背中から娘と夫の甘ったるい乳繰り合う話し声が残忍な落武者狩りのように真由美を追いかけてくる。真由美はやっとの思いでドアを開くと死地に取り残された敗残兵さながらその場に膝を落として這いつくばりもう二度と起き上がるまいと自分の境遇をただ呪うだけだった。

 あれから半年。

 夫と娘は禁断の関係から抜け出そうとするどころか逆に自分たちからその泥沼の深みにはまり込むように夜毎お互いの部屋に忍びあい過去も未来もない世界で眼前の快楽に溺れ房事に耽っていることを真由美は知っている。そして朝になれば何事もなかったかのようにいつもどおり、夫は愛妻家で有能なサラリーマンの仮面をかぶって新聞を読み、真理は良家の育ちを思わせるような淑やかな身のこなしで進んで母親の手伝いをするのだ。この二人には人間の血が通っていないのだろうか。そうでなければこんなに平然と私の前に姿を見せられるわけがない。特に真理は自分が腹を痛めて産んだ娘だ。女とはかくも簡単に実の母親を裏切ることができるものだろうか。真由美はただただ夜と朝の顔を完全に使い分ける同居人に驚き心を凍らせるだけだった。

 しかし真由美もこの半年間指を銜えて二人の裏切り行為に手をこまねいたわけではない。もちろんまず離婚を考えた。もう夫の顔など汚らわしいと思うだけで見たくもなかった。しかし真由美が夫と離婚しても真理は彼の下に残ると言うかもしれない。実の娘を他人の家に置いて自分だけが実家に戻り、或いは一人暮らしを始めたとして年老いた父や母に一体何と言えばいいのか。虫も殺さないような顔をして平気で実の母を裏切る得体の知れない女だがそれでも血の繋がったただ一人の娘であることは否定できないのだ。

 真理を産むことに真由美の両親は当然大反対だった。それこそ気が狂ったように毎日毎日真由美に中絶を迫った。真由美は包丁を持って相手の男を殺しに行ってくると息巻く父をすがるようにして止め、世間にどんな顔をすればと泣き喚く母に何度も何度も土下座して謝った。それでも彼女は出産を選択した。自分の身体の中に息づいている新しい命を殺すことが自分が殺されることよりも怖かったからだ。何かに取り付かれたように真由美は自分の体内で蠢くまだ名前もない我が子を身体を張って守った。やがて真由美の下腹の膨らみが服の上からでも分かるようになったとき両親は疲れきった顔で真由美に新しいマンションの鍵を渡し金は送ってやるから出て行けと告げた。真由美はいつの日か孫の顔に微笑んでくれる両親が見られることだけを信じて真理を産んだ。そして真由美が願ったとおり、成長していく孫の姿に両親は徐々に生気を取り戻していった。そして桜井に望まれての結婚。ここ数年でようやく両親は昔の穏やかな笑顔を見せるようになった。

 両親は子持ちの厄介娘を娶ってくれた桜井に感謝し、真由美が桜井に愛されていると信じきっている。そして真理にとって桜井が理想の父親だと確信しているのだ。娘と孫の幸せだけを願っている両親に実の娘に夫を寝取られて帰ってきましたなどとは口が裂けても言えるはずがない。今の真由美がおかれている状況を知ったら間違いなく両親はあまりの苦悶に耐え切れずその心臓は張り裂け彼らは血を吐いて死ぬことになるだろう。老齢の両親にもうこれ以上心労はかけられなかった。

 離婚という選択肢を真っ先に捨てて真由美は桜井家で生き残る術をそれこそ必死に考えた。お願いだからやめてくれと泣きついたからといって終わるような関係ではない。彼らは睦みあいながら一つ屋根の下に頭まですっぽりと布団をかぶってうずくまっている真由美の存在を忘れてしまったかのようにあけすけに歓喜の声をあげることもある。真由美に他に行き場がないことを知っている証拠だった。

 この家で生きていくには・・・。

 夫の家である以上彼を追い出すわけにはいかない。となれば選択肢はなかった。真理をこの家から出すしかない。しかも表面上だけでも自発的に。真由美が生き残るにはそれしかなかった。しかしそんな方法があるだろうか。

 方法は一つだけあった。真理が自分からこの家を出て、夫との関係を永遠に終わらせ世間的に疑いの眼差しを向けられず真弓が桜井家に残る方法が。それは真理の結婚だった。

 真由美はまず強気な態度に出た。

「もう私たちは終わりね」

 その一言にソファに座ってニュース番組を見ていた夫は顔色一つ変えなかった。その横顔は怯むどころか微かに血色を増しとうとう来たかと言わんばかりに闘志のようなものを胸の内に燃やし始めたように見えた。振り向いてじっとこちらを見据える目にはまぶしいほどの力が漲っていてその迫力に飲み込まれそうになる。それでも真由美は耐えた。ここで踏みとどまらなければもう為す術はなくなる。

「私たちの関係が終わりって意味じゃないわよ。私も終わり、あなたも終わりってことよ」

「どういう意味だ?」

 夫はまるで商談相手と折衝しているかのような眼差しでこちらの出方を窺っている。その落ち着いた態度はさすがだと認めざるをえなかった。真由美はこれ以上立っていられずL字になっているソファの端にゆっくりと腰を下ろした。平静を装ったつもりでも指先は震え、咽喉は乾き、瞳の動きが落ち着きを失い彷徨っていることが自分でも分かる。夫は負ける気がしないだろう。悔しいことだが夫の全てを知っているような自信に満ち溢れた視線に真由美は全身が金縛りにあったように身動きがとれずすくんでしまっていた。

「私はこの家を出て行くわ。理由は言わなくても分かるわよね?そして裁判よ」

「裁判?」

「私はあなたに高額の慰謝料を請求します」

 一つ目の切り札を切ったつもりだった。しかしそれでも夫は微動だにしない。ただ言葉もなく続きを催促するように軽く頷いただけだった。真由美の目論見は見事に外れていた。相手は百戦錬磨だった。もう夫の目を見返すだけの覇気がなくなっていた。

「そんな目で見ないでっ!」

 真由美は思わず叫んでいた。夫から溢れてくる抗しきれない圧迫感に耐え切れなくなっていたのだ。真由美は、しまったと思った。あくまで冷静さを失わないつもりだったのだが、もともと追い詰められ続けていた精神が極度の緊張によってショートしてしまったようだった。

「裁判で破格の慰謝料なんて期待できないと思うよ」

 優しい声だった。まるで友達の悩み事に親身にアドバイスしているような、それでいて他人事のような見せ掛けの温かさに包まれた冷たい響きがあった。もう微塵も愛されていないのだと確信させるものだった。期待していたわけではないがそこにはやはり寂寥としたものがあった。灰の奥の残り火を掻き出したようにカッと胸の奥が熱くなってやがてすぐに冷めていった。しかし夫の言葉自体は真由美が期待していたものだった。

「もちろん慰謝料なんていらないわ」真由美は冷静さを取り戻していた。夫に愛がないと悟って何かが吹っ切れたようだった。「私がほしいのはあなたの未来よ」

「俺の未来?」

 初めて夫が訝るような響きを声に宿した。漸く見せた心の動きだった。

「そうよ。私があなたの私生活を法廷で暴く。愛妻家で子煩悩で有能なサラリーマンの正体が白日の下にさらされるわけよ。あなたがあくせく働いて築き上げてきたものは砂の城。私が荒波をつくって押し流してみせるわ」

「そんなことできるわけがないだろう」

 夫は女のあざとさを嘲笑うかのように口を歪めた。しかし目は笑っていない。

「できないかどうかやってみなくちゃ分からないじゃない。少なくとも」真由美は逆転の予感に身震いした。「試すだけの価値はあると思うわ」

「ちょっと待てよ」

「待つわよ。あなた次第で」

 娘は意外に真由美に従順だった。いつまでもこんな関係が続くわけがないと覚悟していたような往生際のよさだった。もしかすると父親との情事も彼女にとっては遊びに過ぎないのかもしれない。真理は夫から少なくない金額を受け取っているだろう。それは身に付けているものを見れば分かる。ろくに働きもしていない真理があんなに華美に着飾れるはずがない。援助交際と考えてみれば継父ほど楽に付き合える相手は他にないとも言える。その真理は大人しく母親に指定された場所に向かいそこにいた男と数時間語らい次に会う約束をして帰ってくる。先日はその男を家にまで呼んだ。それなりに彼とのデートも楽しんでやっているようだった。

 真由美もその男のことを気に入っていた。ハンサムだし礼儀正しい。そして何よりも瞳の力に惹かれた。何かをずっと思いつめているような熱い彼の目に見つめられると何故か少女の頃に戻ったように照れてしまう。彼のことを有能だと夫は評している。夫の人を見る目は確かだった。今となっては彼の言葉など何一つ信じられないがその評価は的を射ていると真由美も信じて疑わなかった。こんな経緯でなかったとしても、是非娘の結婚相手にと頭を下げたくなるような男だった。

 しかしそれでも夫と娘の関係が終わったわけではなかった。昨日などは台所で情交していたのだ。テーブルが軋み椅子が揺れる音がするたびに真由美は震えながら布団を頭から被りなおした。この家では世間では禁忌と言われることが大手を振ってまかり通るようになってしまっていた。ひとつ屋根の下で暮らしている夫と娘の考えていることが分からない。彼らは一体何を目論んでいるのだろうか。

 電話が鳴っている。真由美はピアノに突っ伏しながらその音を遠くに聞いていた。近頃は電話が鳴っても居留守を使っている。他人と会話をするのがひどく億劫だった。努めて平静を装うことに真由美は空しさと疲労を感じずにはいられない。掛かってくるのが他人でなければ余計に話などしたくない。今の真由美にとって知人に対していつもの体裁を取り繕うことはこの上なく疎ましいことだった。

 電話はやがていつものように機械的な女性の声で留守電メッセージを流しだす。するとすぐに電話は切られた。大抵の人はメッセージを遺すようなことはしない。それは何故か。三人家族で誰が聞くか分からないから遠慮するのかもしれないが、真由美の捻じ曲がった精神では、遺すほどの用がないということは私のことを嘲笑うために掛けてきたのかもしれないと思ってしまうのだ。こんな考え方をしてしまう自分が真由美はひどく惨めだった。

 また電話が鳴り出した。二度掛けてくるのはそう珍しいことではない。電話番号を押し間違えたのかもしれないと思うのだろうか。一回目は不在でももう一度は掛けてみないと諦めがつかないという性格も分からないではない。

 先ほどと同じ応答メッセージが流れ出す。同じタイミングで電話が切れる。まるでデジャヴのようだった。

 真由美は立ち上がった。スーパーに買い物に行くことにしたのだ。鬱然として外に出る気にもなかなかなれないのだがこれ以上は家に居たくない。本当に損な性格をしている。三度目はないだろうが、電話が鳴るたびに居留守を使っていることに真由美は少なからず罪悪感を抱いてしまうのだ。

 簡単に化粧を直し財布を手にして小走りに玄関に向かうとまた電話が鳴り出した。

 三度目の正直のつもりだろうか。真由美は迷った。三度掛けてくる人は珍しい。何か重要な用件なのかもしれない。両親の身に何かあったのだろうか。それとも真理?

 真由美は振り返って電話に向かった。嫌な予感がする。良い知らせなどあるはずもない。真由美は受話器に手を掛けて一つ深呼吸した。もう誰に何を言われても驚くまい。胸のざわめきを懸命にこらえながら真由美はゆっくりとコードレスの受話器を上げた。

「はい、桜井です」

「あっ」

 出ると思っていなかったのだろうか、受話器の向こうの男は言葉に詰まったようだった。

 聞き覚えのある声だったが真由美は思い出せなかった。ただ、嫌な予感はどこかに消えてしまっていた。

「村瀬です。何回か掛けたのですが留守だったのでいらっしゃらないのかと思ってました」

 娘の婚約者からだった。電話越しに夫以外の男性と声を交わすのはいつ以来だろうか。村瀬の声は凛々しく優しい。包み込むような温かさがあった。真由美は受話器を耳に当てたまま満ち足りていく気分を味わった。そしてそっと胸の痛みに耐えた。

 彼は何も知らない。

 もしかすると彼が一番の被害者なのかもしれないと真由美は思った。真理が村瀬のことをどう思っているのか分からないし何故桜井が彼を娘の婚約者に選んだのか定かではないが、どちらにせよ真由美は彼を利用していることになる。この結婚に裏切られることになれば彼は人生の筋道を誤ることになるかもしれない。自分の不幸をこれ以上増やさないために全く関係のない彼を地獄に落とすことになるのだろうか。真由美は彼に手をついて詫びたい気持ちになった。

「ちょっと買い物に行っておりましたので・・・。今日は真理にお会いになりました?」

「ええ。サンドイッチをいただきました。お母さんにも手伝っていただいたようで」

 真由美は今朝のことを思い出した。村瀬のサンドイッチは真由美が真理を手伝ったのではない。真由美が全て一人で作ったのだ。

 真理が用意しようとしていたのはご飯とおかずの弁当だった。真由美は真理が村瀬のために弁当を作ったのかと期待した。しかし村瀬のためのものではないことはすぐ分かった。今日の弁当の中身は油分や塩分を控え目にしたヘルシーなものだったし、真由美の夫の好きな佃煮もたくさん入っている。真理が当然の顔をしていつも継父のために使う弁当ナフキンを取り出してきてその弁当を包み始めたのを見て真由美は慌ててサンドイッチを用意したのだ。

「いえいえ、私は何もしてないんですよ。お口に合いましたか?」

「とっても美味しかったです。本当にありがとうございました」

「それはよかったわ。ほっとしました。でも量が少なくなかったですか?村瀬さんはお若いからちょっと足りないかなって思ってたんですけど」

 桜井の会社に行くということは村瀬に会う確率が高い。もし会ったとして真理が父親のために弁当を用意したのに婚約者には用意していないとあっては村瀬はきっとがっかりするだろう。そう思って真由美は真理に有無を言わさず持たせたのだが、村瀬は何も知らず素直に喜んでくれたようだ。やはり騙しているという罪悪感は否めないが男のために弁当を作りその相手からこんな風に礼を言われれば嬉しいものだった。真由美は村瀬との会話に浮き立つような気分になった。こんなことは久しぶりだった。しかし村瀬の次の言葉は真由美の浮かれていた気持ちに冷水を浴びせた。

「折り入ってお話したいことがあるんですが、お時間を作っていただけないでしょうか?」

 軽やかに弾んだはずの心が一瞬にしてしなやかさを失った。村瀬の声には有無を言わせぬ凄みがあった。何かが起こる響きがだった。真由美は事の重大さに身震いした。

 ばれたのだろうか。

 村瀬は真理の夫として理想的な男だった。けちのつけようがない。しかしその有能さゆえにこの場合の真理の相手としては不適格だったかもしれない。真由美はもっと凡庸な人間を選ぶべきだったと思った。今回求めていたのは何も気付かない愚昧さだったのだ。

 だけど今さら後には退けない。

 ここで村瀬に真理との結婚を断られたら全てが終わってしまう。それだけは何としても阻止せねばならなかった。膝が崩れてしまいそうだった。床に座り込んでしまいそうになるのを懸命にこらえて真由美は何とか娘を想う母親を演じた。

「まあ、何でしょう?娘が何かしましたか?一人娘で甘やかせて育ててしまいましたので躾が行き届いておりません。どうか許してやってください」

「いえいえ、真理さんは私にはもったいないぐらいの女性です。ただ・・・コンサートのチケットが手に入ったので一緒にどうかと思いまして。その後少しお話を聞いていただければ」

 村瀬は最近ピアノの腕前よりもその美貌と歯に衣着せぬ言動で人気がある若手の女性ピアニストの名前を挙げた。

「コンサートは真理が一緒に行くのを嫌がったのかしら?」

「真理さんにはチケットのことは言ってないんです。クラシックに興味があるのは真理さんよりもお母さんの方だと」

「良いのかしら、私みたいな年増がご一緒して。ご迷惑じゃ」

「そんなことありません。お母さんはいつまでも美しいです。本当に」

 真由美は一瞬言葉を失った。何だろう、この感覚。村瀬の声はどこか必死だ。全身でぶつかってくるように力強く褒めてくれた。真由美はまるで愛の告白をされたような気持ちになっていた。あり得ないことだと分かっていても頬が熱くなった。

「何をおっしゃるの。こんなおばさん捕まえて」

「おばさんだなんて・・・。真由美さんはおばさんじゃありません」

 村瀬の口調はさらに高ぶっていく。

 浩幸に「お母さん」ではなく名前で呼ばれたことに真由美は戸惑いを覚えた。それは彼女に甘い震えをもたらした。

 真由美の気持ちは決まっていた。村瀬が桜井家のしつらえた罠に気付いたようには思えなかった。とりあえず会って目を見ながら話を聞かないことには事が先に進まないように真由美には思えた。

「分かりました。でも真理が知ったらやきもち妬くわ」

 真理が嫉妬するはずがない。しかし真由美はおどけてみせた。村瀬の思惑はさておき素敵と思える男に誘われたという事実が心を華やがせる。

「彼女には内緒ということで」

 電話を切った後に真由美はぼんやり立ち尽くして甘美な気分に浸っていた。外で夫以外の男性と二人きりで会うなんて結婚以来初めてのことだ。内緒。秘密。密会。真由美は淫らな想像に酔った。

 真由美を現実に引き戻すように玄関のチャイムが鳴った。

 真由美は我に返って思わず淫蕩な自分の血を呪った。娘の婚約者に言い寄る自分を思い描いているなんて。これでは夫や娘と何ら変わらないではないか。自分はただ男の熱い肌に飢えているだけなのではないのだろうか。娘はただ母親からの遺伝に従っているだけなのかもしれない。

 目が眩みそうになりながらもインターホンに出ると思いもかけない人の来訪だった。

「紺野です。ご無沙汰しております」

 紺野。真由美はその聞き覚えのある苗字に背筋を凍らせた。


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