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 浩幸は無意識にボールペンを指で回していた。学生時代からの考え事をするときの癖だった。この数日というもの降って湧いたように突然考えごとが浩幸の中で増えた。つい先日までは真理のことだけを一心不乱に想っているだけだったのだが、今は答えの見つからない難題に思考を乱され気がつけば仕事が全然手についていないということが繰り返されていた。

 自分は今誰を愛しているのか。

 まずこの問いを突き詰めていくとやはり石川先生という名前を挙げざるを得ない。この気持ちに嘘はない。もちろん真理のことを嫌いになったわけではない。彼女は母親譲りの美貌は言うまでもないが、男勝りの肝の据わった性格でありながら時にその仕草や表情には愛嬌たっぷりのところがあり万人に愛される非常に魅力的な女性である。しかし、石川先生と再会するまでの真理へのあの全てを押し流してしまうような激しい思いは嘘のように鎮まっていた。

 だとしてこれからどうすれば良いのか。石川先生への募る気持ちと真理に対する罪の意識に正直になるなら真理との結婚は白紙に戻してもらうしかない。しかし、その告白の代償はあまりに大きい。社長候補の桜井の顔に泥を塗るのだ。出世どころか、大げさではなく職をも捨てる覚悟が必要だろう。そしてその後に何が残るのか。石川先生が桜井の妻である現実は変えようがない。真理との結婚を反故にした男を石川先生はどのような目で見るのか。娘の人生を乱した男から愛を告げられたところで、彼女が全てを捨てて胸に飛び込んできてくれる確率は万に一つもないだろう。つまり真理と一緒に自分の将来を放棄してその果てに手にするのは心の平穏だけということになる。しかも華やかな出世と石川先生への道を自ら閉ざして本当に精神的に安定を保つことができるのかは甚だ疑問だ。罪悪感を忘れても苦い後悔を噛みしめることにはなるだけではあるまいか。だとすればやはり真理と結婚して桜井とともに栄達を味わう方が実があるというものだ。

 いくら考えても結局はその結論に至るのだが浩幸はそれを飲み込んで受け入れることにどうしても抵抗があった。浩幸は回していたボールペンを力を込めて握りしめた。机の上に投げつけたい衝動に駆られる。このまま自分の気持ちは押し殺したまま一生嘘をつき続けて最愛の人の娘とともに暮らしていくしかないのか。そんな偽りの行方に幸せが待っているのだろうか。

 浩幸は力なく息をついた。全てが順調に回っていると思えた時間は本当に束の間だった。石川先生の姿を再び目にすることができた。それだけで満足しなくてはいけないのかもしれない。そのことに浩幸は自分の人生の全ての運を使い果たしてしまったような気持ちになっていた。

 血が繋がっていない。瑠香はそう言ったと思うが、言葉が言葉だけに浩幸は自分の耳に一抹の疑念を抱いていた。肝心の瑠香は今日仕事を休んでいる。瑠香の隣の席に座っている名前も知らない若い女性職員に尋ねてみると「風邪らしいですよ~」と間延びした返事を頂戴した。

 瑠香は今職員の給与事務を扱う部署にいる。従って全職員の給与及び福利厚生に関するデータを誰にも怪しまれず見ることができる。そこには職員だけではなくその家族のプライベートなデータが含まれているはずだ。彼女なら職員の家族について血の繋がりの有無などを調べるのは造作のないことだろう。そして瑠香が言った「お二人」が誰と誰を指しているかは明白だ。外見から見て真由美と真理が実の母子であることに疑いはない。とすればありえるのは桜井と真理の二人の関係だ。

 仮に瑠香の言葉が事実だったとして、真理と桜井の間にDNAの関連がないのは確かに意外だが、だからと言ってそのことが特に目を見張るようなトップシークレットというようにも浩幸には思えなかった。各家庭にはそれぞれそれなりの事情がある。離婚は今や何の珍しさもないごくありふれた社会現象だ。その分再婚する人も多いだろう。桜井が他人の子である真理のことも含めて真由美を愛し、そして真理と本当の親子以上に仲の良い関係を築いているということになればそれは正に美談である。また浩幸の中で桜井の男としての株が一枚も二枚も上がることにはなるが、瑠香の狙いがそこにあるとは思えない。瑠香が言いたかったのはどういうことなのか。浩幸は左手で頭を掻き右手で再び素早くペンを回し始めた。

 浩幸の机の電話が鳴った。

「営業開発係、村瀬です」

「浩幸さん?私。真理だよ」

 浩幸は思わず言葉に詰まった。オフィスの電話は外線と内線でコール音が違う。今回は確かに内線電話だった。それは真理が今社内にいることを意味する。どこから掛けているかは大よその察しはついた。部長室からで間違いないだろう。彼女が内線電話を使える場所は他にはない。

「驚いた?今、父の部屋にいるの。部長室って豪勢なのね。びっくりしちゃった。今、父に換わるね」

 公私混同だ、と浩幸は思った。こんな電話をもらっても困るだけだった。これがたとえ社外からの電話だったとしても恋人からだと知れたら部下に対しては示しがつかず、同僚や上司からは常識を疑われることになるだろう。緊急なら携帯電話に掛けてこれば良いのだ。浩幸は勤務時間中の人間に私的な電話をする真理にがっかりしていた。父親が実力者だからとは言え、少し行動が軽はずみではないか。

 桜井も桜井だ。何らかの事情があって娘を会社に呼ぶというのはありえない話ではないだろう。しかしその愛娘が勤務中の部下に電話をするのを止めないのは仕事というものをないがしろにする行為であり、大きく見れば部長のために働いているとも言える浩幸に対しての侮辱でもある。

 浩幸は実に不愉快だった。桜井親子に茶化され笑いものにされた気分だった。

「村瀬君、申し訳ない。少し席を外した隙に真理が遊び半分で電話を掛けてしまったようだ」電話を換わる前に受話器の向こうで真理を叱りつけた桜井の声がした。「真理はろくに社会で働いたことがないんだ。職場というところがどういうところか分かっていない。気を悪くしただろう。私に免じて許してやってくれ」

「いえ、気にしておりませんから」

 どうやら真理が桜井の目を盗んで勝手に掛けてきたようだった。さすがに桜井は長年営業の第一線で汗を流してきた経歴の持ち主だけに仕事というものがいかに私事となじまないかを熟知している。部下に対しても真摯に詫びるその姿勢に浩幸は溜飲が下がる思いがした。

 平静を取り戻せば真理の行為もどうということはないように思える。悪気はなかったのだろう。声が聞きたかったというのなら憎めない話でもある。

 昼休みになったら部長室に来てもらえないか、という部長の言葉に従って浩幸はいつもの幾分なじみが出てきた木目調のドアをノックした。中から桜井の声で返事が返ってくる。ドアを開いて部屋に入るとそこには桜井親子が並んでソファに座っていた。

「さっきのことはきつく叱っておいたから許してやってくれないか」

 桜井はにこやかに言ったが隣の真理はかなりの大目玉を食らったのか見るからに悄然とした様子で肩を落として座っていた。桜井部長のあの鋭い眼光で睨まれたらそれなりに肝の据わった男でも血の気がひいてしまう。浩幸は俯いたまま黙り込んでいる真理を見て少し不憫になった。「これも反省しているようだから」と桜井に頭を撫でられて真理は漸く口を開いた。

「すいませんでした」

 浩幸に許してもらえないとでも思っているのだろうか。真理は一向に顔を上げようとはせずますます身を小さくしてうなだれている。

「本当に気にしていませんから」

 浩幸がそう言うと真理は覗き見るような視線で浩幸の表情を窺い、また目を伏せた。「良かったな」ともう一度桜井が頭を撫でると真理の頬から光るものが伝って落ちた。

「馬鹿。泣く奴があるか」

 慌てる様子もなく桜井は「困った奴だ」と背広のポケットからグレーのハンカチを取り出し真理に差し出した。桜井は女性にハンカチを差し出す仕草が絵になる男だった。おずおずと受け取ると真理は大きく鼻をすすってハンカチを目に押し当てた。

 親子だ。

 誰がどう見ても完璧な親子の絵だった。厳格さの中にも優しさを垣間見せる父親と淑やかながらも甘えん坊で泣き虫のひとり娘。この二人が血が繋がっていないなどと誰が信じようか。やはり俺が聞き間違えたのかもしれない。実際に耳にしたはずの言葉を疑わずにはいられないほど二人のやり取りは自然だった。

「ところで村瀬君。昼はいつも何を食べている?」

「はぁ。いつもはコンビニのサンドイッチか食堂の麺類ですが」

「そんなことだろうと思ったよ。それでは栄養が足りないな」

「ええ、まあ」

 浩幸が恐縮すると桜井は満足そうに頷いた。

「今日真理が来たのはあれなんだよ」桜井は後ろを振り返って背後の机の上に乗っている紙袋を指差した。「私はここで食べるから、村瀬君、迷惑じゃなかったら公園にでも行って真理の作った弁当を食べてやってくれないか」

「迷惑だなんてとんでもない」浩幸は慌てて首を振った。「ありがたいです」

 実際はありがたいなどという気持ちはなかった。公園で他人に見せびらかすように幸せぶって弁当をつつくなんて。浩幸は考えただけでも寒気がするようだった。知人に見られたらいい笑いものにされてしまう。浩幸の頭の中には桜井が口にして自分が否定した「迷惑」という二文字しかなかった。それでもエレベーターホールへ続く廊下をまだ泣きべそをかきながらも何となく嬉しそうに弁当を持って後ろについてくる真理がいじらしいと思わないではなかった。

「一人で作ったの?」

「ママに手伝ってもらって」

 真理は初めて顔を上げひっくひっくとしゃくりあげながらも微笑んで見せた。しかし浩幸は真理の表情を見ていなかった。目はそちらに向けていたが実際に見ていたのは真理の母親が台所で弁当を詰めている姿だった。石川先生が作ってくれた。それだけで浩幸は胸が一杯になるようだった。

「お母さんは料理も上手なの?」

「うん。大層な料理は作れないんだけどお弁当を作らせたらかなりの腕前なのよ。ママに作ってもらったお弁当のふたを開けるのが小さい頃の真理の楽しみだったの」

 外は少し肌寒かった。ここのところめっきり秋めいてきて雲の隙間から届く日差しはじれったいほど弱々しく、赤みを帯び始めた街路樹の葉が時折撫でるように吹く風にかさかさと音を立てながら揺れている。

 会社のそばにある公園はどこからでも水の流れが見えるように設計してあり、絶えずゆらゆらと清涼な音が聞こえてくる。中央には大きな噴水があり、その周囲にはサラリーマンやOLの影がちらほら見える。その中には浩幸の会社の人間もいるかもしれない。浩幸は足元に目を落として噴水を大きく迂回し早足で公園の脇にあるポプラ並木の歩道に出た。背の高いポプラのために日差しが届かないせいか歩道に等間隔に備え付けてあるベンチには人影がまばらだった。子犬を膝に乗せ置物のようにじっと目を閉じて佇んでいる初老の女性、くしゃくしゃの新聞を寝転がりながら読む浮浪者風の男、ぶつぶつとひとりごちながらうなだれている中年のサラリーマン。

 浩幸が空のベンチに腰を下ろすと真理は手にしていた淡いベージュのストールを肩に羽織り浩幸の隣にぴったりと寄り添うように座った。

「美味しくなかったら遠慮せずに残してね」

 恥ずかしそうにおずおずと真理が差し出した四角い包みにはサンドイッチが詰められていた。

「浩幸さんの嫌いなものが分からなくて、サンドイッチなら無難かなってママと相談したの」

 浩幸は石川先生がサンドイッチを作っている姿を想像した。あの白い手で食パンを切り、きゅうりを切り、ハムを切る。最愛の人が俺のために俺のことを想って作ってくれた。その空想だけで胸が熱くなるほど幸せだった。浩幸には真理が口に合うか不安な表情を浮かべてこちらを注視していることなど全く気付いていなかった。一心不乱に愛する人の想いを口に詰め込んだ。

「はい、どうぞ」

 全てのものを口の中に押し込んだときに浩幸は初めて顔の横に湯気の立ち上るコーヒーを見つけた。一瞬白い蒸気の向こうにいるのが石川先生に見えて浩幸は思いがけず強く息を吸い込んでしまい、その拍子にパンの欠片か何かが咽喉に詰まって激しくむせかえった。

「ちょっと、大丈夫?」

 真理が慌てて浩幸にコーヒーを飲ませ、背中をさすってくれる。コーヒーが熱くて猫舌の浩幸には手強かったが咽喉に引っかかったものを何とか流し込んで漸くしっかりと真理の顔を見た。

「ありがとう。死ぬかと思ったよ」

 礼を言うと真理はほっとしたように息をつき「あんな勢いで食べるから」とくすっと笑った。

 浩幸はその真理の笑顔を素直に可愛いと想った。しかし一つの答えが嫌でも浩幸の頭に浮かぶ。

 真理のことを愛していない。

 同じダイヤモンドでもそれぞれ価値に雲泥の差があるように真理と石川先生との間には決定的な違いがある。真理の母親が石川先生だと知って以降、浩幸は真理のことを石川先生に繋がる存在としか意識できなくなっていた。思い返せば最初から初恋の人の代わりとして接していたのかもしれない。真理をそのまま真理として見たことがなかったということだ。そしておそらくこれからもないだろう。浩幸は石川先生との接点として利用するための材料としてしか真理を見ることができなくなっている自分に気付いていた。そんな偽物の愛でこれから先真理を満足させ続けることができるのだろうか。浩幸は真理に気づかれないようにこっそりため息をついた。しかし胸にはびこる真理への後ろめたさは少しも軽くはならなかった。


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