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真理が浩幸の手を引くようにして入ったのは彼女の家から歩いて十分と離れていないレストランバーだった。窓のない半地下の店内は薄暗く灯りといえば天井や壁に設置してある橙色の間接照明とテーブルやカウンターのろうそくの火だけで、その弱々しく揺れる光の散らばり具合が見る者の心を和ませる。学校の教室より少し広いフロアの中央には異彩とも言える真っ白なグランドピアノが据えられていて重々しい威圧感を放っていた。知る人ぞ知る名店なのか客入りは上々で奥のカウンターに空席はなく、幾つかあるテーブルもほぼカップルで占められていた。
「ちょっと待ってて」
浩幸をおいて真理は慣れた足運びでカウンターに向かいそこでグラスを磨いている口ひげを生やした豊満な体格のバーテンと何やら言葉を交わした。四十がらみのそのバーテンは真理に対して申し訳なさそうに顔をしかめ隅にある小さなテーブルを指差した。真理は浩幸のところまで戻ってくると勧められた席に座って待っているように言い自分はまたカウンターに戻っていってバーテンからビールグラスを二つ受け取って帰ってきた。
「やっぱり込んでるなぁ」真理は申し訳なさそうに上目遣いでこちらを見た。「こんな窮屈な席になっちゃってごめんね」
浩幸が席のことは気にしないと言い、感じのいい店だと誉めると初めて真理は安心したように微笑みを漏らし得意そうに語りだした。
「真理ね、学生の頃ここでバイトしてたの。注文を取って飲み物を運んでグラスを洗ってレジを打って。たまにあのピアノを弾かせてもらったりして」真理は懐かしそうに中央のグランドピアノに目を細め恥ずかしそうに顔を伏せた。「人に聞かせられるようなものじゃないんだけど」
「真理のピアノ聞きたいな。今日は弾かせてもらえないの?」
「マスターに頼めば弾かせてもらえると思うけど・・・。でもママと違って真理は本当に下手なの」
浩幸は突然の真理の母親の話題に胸が締め付けられるような息苦しさを感じてビールに手を伸ばした。思い出すまいと念じても中学校の音楽教室で一心に鍵盤の上に指を踊らす石川先生の姿が脳裏を掠める。白熊のような重々しい図体のグランドピアノで石川先生が華麗に「悲愴」を奏でるのを眺めながら冷えたビールを飲めたら何と幸せなことだろう。どっしりとふてぶてしいあの獣が石川先生のしなやかな指先によって操られ見た目からは想像もできないような繊細かつ哀愁漂う声音で鳴く様子が目に浮かぶ。それはまさに地上の楽園のようだった。
しかし、まさかこんなところで再会しようとは。
浩幸は桜井家で初恋の相手を見つけた瞬間を思い出していた。あのとき浩幸はもうここで死んでも構わないとさえ思っていた。しかし、時間が経てば経つほど世界中の宝を手にしたような昂揚感は薄れ、前進も後退も迂回することさえもままならない閉塞感が首をもたげてきた。婚約者の母親であり、尊敬すべき上司の妻。浩幸にとって最も侵してはいけない聖域に彼女は姿を現したのだ。こんな形ならいっそ会わない方が良かった。彼女は死んだと聞かされた方がまだ幸せというものだ。真理との結婚は秒読み段階にある。しかし真理の顔を見るたびにもはや面影ではない石川先生本人を感じないわけにはいかないのだ。「娘を幸せにしてやってください」と思いつめたような顔つきで頭を下げた初恋の女性。今、真理と別れることは石川先生を悲しませることになる。茨の道はもう引き返すことはできない。胸苦しさに浩幸は気が遠くなるようだった。
「今日浩幸さんが家に来たときピアノが聞こえたでしょ。あれ、ママが弾いてたんだよ。真理のピアノは趣味程度だけど、ママは音大出てるし、今でも時々パーティーに呼ばれて弾くぐらいのプロ級の腕前なんだから」
真理はまるで自分のことを言うように誇らしげな顔で母親の自慢をした。それが浩幸には最愛の女性を誉められたようでこそばゆいような気分だった。真理に二十年前のピアノを弾く石川先生がいかに美麗だったかを教えてあげたい衝動を必死にこらえた。目を閉じればあの叙情的な旋律が耳に聞こえてくるようだった。
「お母さんのは聞かせてもらったから、今度は真理が弾くのも聞いてみたいな。マスターにお願いして聞かせてよ」
真理は初めのうちは浩幸の要望に乗ってこなかったが、やがて浩幸の懇願が功を奏した形となって「分かったわ。マスターにお願いしてくる。でも下手でも笑っちゃヤだからね」と言うと矢庭にグラスのビールを一息に飲み干して決然と席を立った。挙措の端々に育ちのよさを感じさせる真理が時折見せるこういった粗野な振る舞いは浩幸を爽快な気分にさせる。
真理はつかつかとカウンターに歩を進めマスターの耳元に口を近づけピアノを指差して交渉しだした。マスターが二度三度と頷いたようだった。すると真理はすぐに笑顔で浩幸の方に右手の親指と人差し指でオーケーの輪を作って見せ、その足で中央のグランドピアノに歩み寄った。
椅子を引き蓋を開いて鍵盤を露わにすると真理は浩幸を振り返って小さく頷いて見せた。真理が浩幸に背を向ける格好で椅子に腰を下ろすと店内の人間が中央のピアノに注目しだしたのがざわめきや気配で暗がりの中でも分かる。しかし、真理の後姿からは露ほどにも臆する様子は窺えない。彼女はまるで自ら周囲の注目を惹きつけようとしているかのように極めてゆっくりとその細い指を鍵盤に下ろしていった。一瞬店内が無音を作り出す。誰もが固唾を呑んで彼女の指先に注目していた。
その中で真理が弾き始めたのは極度にゆっくりな「猫踏んじゃった」だった。心憎いほどのスローなテンポで奏でられる聞き慣れたメロディーに店内の緊張が瞬時に緩むのが分かった。思わず微笑んでしまうような愛らしいだまし討ちだった。聞く者をやきもきさせるほど極度にゆっくりとした調子の「猫踏んじゃった」は滑稽なようでありどことなく物悲しい印象も漂っていた。弾き方一つでメロディーの雰囲気がこうも変わるものかと浩幸は感心していた。
続けて店内に流れたのはアップテンポに組み立てた「いとしのエリー」だった。思わず歌詞を口ずさみたくなるような気分になっているのは浩幸だけではないようだった。曲にあわせて唇を動かしたり肩を揺らしたりしている客は多く、テーブルの上で手を握り合っているカップルもいた。真理は完全に聴衆の心を掴んでいるようだった。浩幸は真理のエンターテイナーぶりに感心しつつ一観客の気分で煙草に火を点した。
「大したものね、彼女」
浩幸は自分の目を疑った。全く予想していなかった事態が眼前に発生していた。浩幸は手から滑り落ちそうになる吸い始めたばかりの煙草を慌てて持ち直し灰皿に押し付けた。
「瑠香」
状況を飲み込めず混乱している浩幸を尻目に瑠香はまるで自分の席に座るような顔つきで真理の椅子に腰を下ろしタイトなスカートから伸びた美しく長い脚を組んでみせた。咄嗟に浩幸は真理の姿を確認した。真理はすっかり堂に入っていて軽く前後に身体を揺らしながら気持ち良さそうに鍵盤を撫でている。視線を戻すと落ち着き払った顔つきの瑠香が浩幸の手元に置いていた箱から煙草を一本取り出して口に銜えテーブルのろうそくで火を点けようとしていた。
「ここで何やってるんだ、瑠香」浩幸は上ずりそうになる声を必死に押し殺して早口にまくしたてた。「一体どういうつもりなんだ?」
苛立つ浩幸の気持ちを弄ぶかのように瑠香は天井に向けてゆっくりと白い煙を吐き出した。
「随分と可愛らしい方ね」瑠香は浩幸の問いを完全に無視していた。「あなたが夢中になるのも納得だわ」
真理の「いとしのエリー」は終わりに近づいている。今ここで真理に見つからないように強引に瑠香を去らせることは不可能なようだった。浩幸は精一杯のいかめしい表情で瑠香を睨みつけた。しかし瑠香は全く意に介さない様子で煙草を燻らしながらピアノの旋律に聞き入っている。
浩幸は瞬間的に覚悟を決めた。真理には瑠香を会社の部下として紹介しよう。部署は違えど職制上瑠香より浩幸は上位にいるので嘘偽りはない。後は瑠香に口を挟む隙を与えずに瑠香を去らせるか或いは真理と二人で店を出ればいい。瑠香の出方次第では真理に少々疑念を抱かせることになるかもしれないが、恐れるほどのものではない。真理は所詮良家のお嬢様だ。店を出たあとでいくらでも言いくるめられるだろう。もし最悪の場合として瑠香との仲がばれたとしても過去の女だと説明すれば桜井なら一笑に付して終わりだろう。
何とでもなる。浩幸は弾き出した分析結果に満足し椅子に深くゆったりと座りなおした。心の中ではいつでも席を立てるように身構えている。真理と瑠香を左右の目で捉えつつ浩幸はその時を待った。
まもなく「いとしのエリー」は終わった。どこからともなく拍手が起こりやがて店中に広がった。自棄になったように浩幸も一際大きく手を叩いた。瑠香は相変わらず涼しい顔で煙草の煙を浩幸の横顔に吹きかけてきた。
真理は椅子に座ったまま小さく一つ頭を下げると浩幸を振り返ることなく再び鍵盤に指を這わせていった。流れ出したのは浩幸の知らない軽やかなジャズだった。リズミカルな旋律なのだがどことなくしっとりとした雰囲気の曲だった。
「楽器が弾ける人って羨ましいわ」
ぼんやりと真理の背中に視線を投げかけている瑠香も半ば真理の奏でる調べに心を奪われているようだった。
浩幸は真理がこちらを振り向くことなく次の曲を始めたことで少し落ち着きを取り戻し新たな煙草に火を点けた。
瑠香の狙いが分からなかった。ここで会ったことを偶然と考えるにはいささか無理がある気がする。しかし瑠香は先日「上手くやるから」と言って浩幸に関係の継続をねだってきたばかりだ。浩幸と真理との仲を妬んでの行動なら愚かすぎる。こんなことをされれば余計に浩幸の気持ちが瑠香から離れていくのは必定だった。別れのきっかけにはなっても復縁につながる要素にはなりえない。暗闇の天井に向かって煙を大きく吐き出すと浩幸は冷静な口調でもう一度瑠香に問いかけた。
「どういうつもりなんだ?」
「安心して」瑠香は灰皿に煙草を押し付けると気味の悪いほど優しく浩幸に微笑みかけてきた。「私はあなたの忠実な奴隷よ」
「奴隷?」
「そう。奴隷はご主人様のために働くの」
瑠香は意味ありげに深く頷くと足組みをほどきいきなり立ち上がった。揺らめくろうそくの炎では瑠香の顔色が全く読めない。
「二人は血が繋がってないの」
そう言い残すと瑠香は浩幸の脇を通り過ぎその背後に消えていった。
血が繋がっていない?浩幸が瑠香の背を追って慌てて振り返るとぼんやりとした暗がりの中で瑠香が誰かに腕を摑まれているのが見えた。
誰だよ、あの男。
誰だっていいじゃない。
いいわけないだろ、説明しろよ。
うるさいわね、もうつきまとわないで。
何だよそれ、どういう意味だよ。
そのままの意味よ。
一組のカップルとは言えなくなった男女が弱々しいろうそくの灯りに影を揺らしながら店の外に消えていった。真理が弾くジャズの調べが一層哀切に響き二人の情景が映画のワンシーンのように見えた。
その様子を最後まで確認して浩幸は瑠香がここにいたのは奇跡的な偶然だったのかもしれないと思った。しかし、彼女が残した言葉の意味が分からない。一体誰と誰が血が繋がっていないというのだろうか。
やがて真理の指は激しく踊りクライマックスを迎えて曲は終わった。真理が小さく息を漏らすと店内からは一斉に拍手が湧き起こり口笛が飛んだ。真理は周囲の反響に驚いたように手で口元を覆い立ち上がると右へ左へと一度ずつ頭を下げ、小走りで浩幸のもとに戻ってきた。それでも拍手は鳴り止まず真理はもう一度フロアの中央に向かって深々と一礼せざるを得なかった。
「恥ずかしいわ、どうしよう」真理はろうそくの灯りでも分かるほど頬を上気させ肩で息をしていた。「バイトしてたときも弾くのはいつも店を開ける前か跳ねたあとでお客さんがいるときにピアノに触れたことなんて一度もなかったのよ」
「そうなの?それにしては堂に入ってたよ。見事な腕前だった」
浩幸が誉めると真理はさらに首筋から顔までを赤らめ、本当に嬉しそうに笑って見せた。
「失礼します」
見上げるとマスターが立っていて素早く浩幸の前の灰皿を交換した。片付けられる灰皿の中が横目にちらりと見えた。吸殻が三本。そのうちの一本には見事に赤い口紅が付いていて浩幸の心臓が一度大きく跳ね上がった。紛れもなく瑠香の残していったものだった。浩幸はもう一度マスターの顔を見上げた。
「真理ちゃん、腕を上げたね」
「ありがとう。マスターに誉められるなんて嬉しいわ」
マスターは真理に見せていた優しい微笑をそのまま眉一つ動かさずに浩幸の方に向けた。
「何かご注文の方はよろしいですか?真理ちゃんへのギャラとしてサービスさせていただきますよ」
マスターが灰皿を交換に来たのは偶然ではないだろう。彼は瑠香のことを見ていたに違いないと浩幸は思った。素早く灰皿を取り替えたのは浩幸の女性関係を咎めるつもりなのか、真理から悲しみを遠ざけたいためなのか。いくらマスターの顔色を窺ってもただ柔和な笑顔を浮かべているだけでその奥に何も見出すことはできなかった。真理は今自分が座っている席を先ほどまで占領していた他の女の匂いを嗅ぎつけただろうか。
「じゃあ、今日の記念にマスターのお勧めのカクテルを」
「私も。マスター、お願い」
真理は吸殻には気付いていないようだった。頬の赤らみも落ち着き、いつもの華やかな笑顔が戻っている。
「かしこまりました。暫くお待ちを」
マスターが戻っていくと真理は浩幸にいくつも質問を浴びせてきた。家と職場とでは父の印象は違うか。真理とママが料理を作っているときに父とは何を話していたのか。今日の料理の味付けはどうだったか。
浩幸は煙草を吸いつつ適当に当たり障りのない応対をしながら頭の中では瑠香の「血が繋がっていない」を様々な角度から眺めていた。
気がつくとカウンターからマスターがカクテルグラスを二つ運んでくるのが見えた。どきっとするほど鮮やかな紅色のカクテルだった。