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 浅緑の鮮やかな芝。上品さ漂う象牙色の壁。暗く冷たいドーバーの海に似た紺碧の屋根。いかにもヨーロッパを思わせるその家屋敷に薄暮の角度の低い陽光がセピア色に映えてその一画は何とも幻想的な情緒を醸し出していた。門の前に立つと家の中からピアノの音色が聞こえてきた。忘れもしないベートーベンの「悲愴」第二楽章。目の前の情景と叙情的な安らぎをもたらすメロディーのために浩幸は我を忘れてしばらくの間立ち尽くしていた。

 これは真理が弾いているのだろうか。石川先生が放課後の音楽室で弾いていたのを一度だけ耳にしたことがあった。クラシックのクの字も知らなかった中学生の浩幸はメロディーだけを必死に記憶に焼き付け方々歩き回ってやっと探し出した曲だった。また二十年前の初恋の空虚さが生々しい痛みと共に浩幸に襲い掛かる。石川先生が学校を去ってから何度この曲を聴いたことだろうか。

 石川先生はどこへ行ってしまったのか。何故黙って消えてしまったのか。

 浩幸は目が眩み平衡感覚を失いそうになるのを目を閉じ門扉にすがりつくようにして必死にこらえようとした。その拍子に浩幸の肩がインターホンに触れてしまい家の中にチャイムが鳴るのが分かった。手土産として持ってきた花束が揺れて足元に白や赤や桃色の花びらが鮮やかに散っている。ピアノの旋律が止み、やがて黒いインターホンから若い女性の声が聞こえてきた。愛しい人の訪いを今か今かと待ち焦がれていたような弾んだ調子だった。

 これは真理なんだ。

 努めて思い込もうとするのだが目に浮かぶのはあの音楽教師の姿だった。まもなく真理が今度は訝るような声で誰何する。浩幸の脳裏に浮かび上がる初恋の微笑みは二十年も会っていないのに一点もぼやけたところがなかった。

「僕です」

 咽喉の渇きをこらえかすれ声で何とかそれだけを伝えると浩幸はもう一度強く目を閉じ自分に活を入れた。

「やっぱり浩幸さんなのね。どうぞ入って」

 門扉を開き芝生の間に作られた石畳を歩いていくと内側から木製の大きな玄関のドアが勢いよく開いた。ドアから顔を出した真理はやはり美しかった。夕日のせいか実家に彼を迎えることに対する照れなのか真理の頬は朱に染まって見えた。引いたばかりと思われる口紅で滑らかに光っている柔らかそうな唇が浩幸の心を惹きつける。

「遅いじゃない」

 待ちくたびれたという頬を少し膨らませた表情が浩幸の愛情を掻き立てる。石川先生の姿を追うのは幻を捕まえようとするようなものなのだ。浩幸は努めて真理のことだけを考えようとした。

「真理、履物を履きなさい。行儀が悪い」

 桜井の優しくたしなめる声が奥から聞こえてくる。視線を足下に落とすと真理は素足で玄関の外に立っていることに気付いた。真理は朱に染まっていた頬をさらに赤らめ飛び跳ねるようにして家の中に戻っていった。思わず微笑んでしまうような愛らしい仕草だった。花束を渡そうとして追いかけるように玄関に入ると淡い若草色のポロシャツにベージュのチノパンツ姿の桜井が真理と衣料品の広告のモデルのように笑顔を浮かべて並んで立っていた。さりげなく真理の肩を抱いている桜井と桜井に身を委ねる真理のツーショットはあまりに仲が良すぎて少し違和感を覚える。一人娘を男に取られる父親の時の流れに対する精一杯の抵抗かもしれないと浩幸は思った。

「ママ。いつまでもピアノ弾いてないで。村瀬さんがいらっしゃったわよ」

 真理が呼びかけると真理の母親らしき人の返事をする声が返ってきた。

「真由美、早く顔を見せなさい。村瀬君に失礼だろう」桜井が会社とは違う種類の柔和な威厳を見せた。「村瀬君が来るっていうんで家内は朝から落ち着かないんだよ。ピアノを弾いて気持ちを鎮めようとしているみたいだけどうまくいかないらしい」

「惚れ惚れする腕前ですね」

「それだけが取り柄なんだ」桜井は苦笑した。「真由美。いい加減にしなさい。村瀬君には仕事でも世話になっているんだから」

 ようやく奥から出てきた真由美と呼ばれた女性に浩幸は我が目を疑った。あまりに念じすぎて現実の世界をそのまま網膜に映し出すことができなくなってしまったのだろうか。それともこの家の玄関が時空の境界で浩幸自身がタイムスリップしてしまったのか。

「いらっしゃい。真理が男性を家に呼ぶなんてことが今までなかったものですから、こっちが緊張してしまって。ごめんなさいね」

 真理の母親は言葉とは裏腹に露ほどにも落ち着きを失っている素振りなど見せず自然に微笑んで見せた。それは紛れもなくあの微笑だった。柔らかく肩に流れていた髪には少しウエーブが掛かっているが、白のブラウスの袖の先から見えるさらに白い指先は二十年前のままだった。見間違えるはずがない。石川先生。そう言えば真由美という名前だった。「何も変わっていない」と浩幸は思わず口の中でつぶやいた。彼女はあのときのままの姿で浩幸の眼前に降り立ったのだ。浩幸は自分が中学生に戻ったような時の歪みに陥っていた。しかし今浩幸の姿を隠してくれる生徒たちはいない。二十年経って初めて浩幸は初恋の音楽教師と正面に向かい合いその声を聞いたのだった。

「お邪魔します」やっと言えたのはそれだけだった。それ以上長い言葉を口にすれば言葉が震えてしまいそうで浩幸は一旦呼吸を整えた。「飾ってください」

 浩幸は後ろ手に持っていた花束を真由美に向かって差し出していた。

「まあ、素敵」

 真由美は受け取った花に顔を近づけて幸せそうに鼻から息を吸い込んだ。浩幸はまるで自分の顔に彼女が顔を近づけてきたような錯覚を覚え顔を赤らめた。あまりに花が似合う彼女の姿にただ見とれるだけだった。一瞬花の向こうから真由美がこちらに視線を送ってきたような気がして浩幸は弓矢で射すくめられたように棒立ちになった。またあのときと同じ胸に太い杭を打ち込まれたような痛みを覚えた。苦しいほどの幸福だった。

「どうしてママがもらうのよ」

 拗ねたように真理が母親と浩幸を交互に睨みつける。

 母娘を並べて見比べると淑やかさ、慎ましさにおいて真由美が勝っていることは否定のしようがない。二人とも匂いたつような美貌の持ち主で、まるでそれは奇跡のような光景なのだが浩幸には真由美しか見えていなかった。求めていたものが今はっきりとした。実物の輝きを知ってしまえばどれだけ精巧に作られていても所詮イミテーションの煌きには見る影もない。若さにおいては当然真理に分があるがその華々しさが今は毒々しいようにさえ見えてしまう。浩幸は真理を邪魔だと思っている自分に驚いた。

「今日ぐらいいいじゃないか、真理。さあ、上がって」

 桜井の声で金縛りが解けたように浩幸は我に返った。全身に血の流れを感じ正気を取り戻したときには浩幸は今度は浮き足立つような感情に満たされていた。石川先生に再会した。同じ空気を吸っている。言葉を交わすのは浩幸の自由なのだ。誰に咎められることもない。彼女自身が両手広げて迎えてくれた。浩幸はこれ以上望むことはないと思った。


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