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「それで?」

 瑠香が珍しく半身を起こし自分から声を掛けてきた。小さく揺れる乳房やその先に咲いた少女のもののような可憐な桜色の花を隠そうともしない。それはいつものことだった。瑠香にもう少し恥じらいというものが備わっていれば自分は溺れてしまっていたかもしれないと浩幸は両の乳房を横目に捉えつつ小さく嘆息した。

「ねぇ。どうするのよ」

 浩幸はぼんやりと天井を眺めながら、みんなが俺にどうするか聞いてくる、と思った。悪くない気分だった。

 いつものラブホテルの一室。汗ばんだ肌と肌。習慣的な煙草の煙。瑠香がこの情事の後の物憂いような雰囲気を自分から打ち消すことなど今まで一度もなかったことだ。しかも瑠香の問いかけには隠そうとしても隠しきれない張りつめたものが伝わってくる。

「何を?」

 寝返りを打ち枕の向こうの灰皿に煙草を押しつぶすと浩幸は軽くとぼけてみせた。とぼけついでに眠そうな振りまでしてみせる。

 瑠香の言わんとすることが分からないほど鈍感ではない。ましてやここ数日はまさに「どうするのか」だけが浩幸の気掛かりだったと言ってもいい。だからこそ瑠香と会うのを一日一日と延ばしてきたのだった。

 もちろん答えは出ている。瑠香とは別れるしかない。他の女ならいざ知らず浩幸の心の中は真理という完璧な女が完全に根を張ってがんじがらめにしている。後は切り出すタイミングだけの問題だった。身体だけとは言え二年以上も男と女として互いを許しあい求め合ってきた女性に別れを告げるのは浩幸にとってそれなりにエネルギーの必要な仕事だった。そして今日関係を断ち切るつもりで会ったのに何も言えず仕舞いで今までと何ら変わらず瑠香の身体に顔を埋めてしまった自分に浩幸は逞しくも哀れな雄の性を見出していた。それだけ瑠香との情交が本能的に捨てがたいものだということなのかもしれない。しかもいつもは受身で浩幸に任せきりの瑠香が今日に限ってまるで浩幸の気持ちが分かるかのように浩幸の動きに合わせて巧みに身を踊らせ浩幸にこれまでにないほどの深い恍惚を堪能させていた。真理のことしか眼中にないはずの浩幸をして満足させる瑠香の性技は賞賛に値する。

「何を、じゃないわ。私たちの関係よ。・・・あなた結婚するんでしょ?」

 少しいらだったような拗ねる口調だった。眉根を寄せた表情の奥には振られることを予期した女の芯の強さを感じさせる。少しずつ切り刻んでいくような真似はせず一思いにやってくれと身体全体で浩幸を責めつける。

「まだ決めたわけじゃない」

「嘘よ」

 瑠香らしくない神経質な口調だった。

「嘘じゃないよ」

「絶対に絶対に嘘。あなた毎日自分の顔を鏡で見てるの?幸せに毒された腑抜けた顔になってるわ。すっかり骨抜きにされちゃって」瑠香にここまで舌鋒鋭く浴びせられると浩幸は押し黙るしかなかった。

「で、どうするのよ」

「どうするって言われてもなぁ・・・」

 浩幸は少なからず驚いていた。いつかは話し合わなくてはいけない問題ではあるが恋だの愛だのという言葉に無関心だと思っていた瑠香の方から今後のことを切り出してくるとは想像していなかった。いつか浩幸から打ち明けたときに「あら、お幸せに」と抑揚のない返事をするものだと高をくくっていたのだ。それが瑠香の方から耐え切れないとばかりに声高に詰め寄ってきている。浩幸は瑠香の真意を掴みきれていなかった。

 瑠香は常に背後に複数の男の影をちらつかせている女だ。一目で貢物と分かるアクセサリーで身を飾り、あなただけじゃないのよと言わんばかりに暇があれば携帯電話を操り、自分からは一度たりとも連絡をしてくることのない女。その瑠香が二人のこれからについて蛇のようにまとわりついてきて執拗に尋ねてくる。

 瑠香は別れたくないのだろうか。だとしたら瑠香は取り返しのつかないミスを犯してしまっている。これからのことをはっきりさせるという愚挙は男に別れを告げさせる絶好のきっかけを自ら演出していることに他ならない。本当に別れたくないのならここは浩幸に口を開かせる隙を与えることなくいつもどおり情事の後の忘我を楽しみ、いつもどおりそそくさとシャワーに行くべきだったのだ。浩幸の心が離れていくことを察して取り乱しているのだろうか。しかし瑠香がそんな愚かな女だとは思えなかった。

だとすれば・・・。

 瑠香の方が別れたがっているのかもしれないと浩幸は思った。泥沼の不倫になる前にいっそ潔く自分から手を切る。面倒が嫌いな瑠香なら当然の発想だし、それが彼女の女としての矜持というものなのかもしれない。

「前にも言ったと思うけど、私、不倫でも全然かまわないのよ。奥さんにばれないように上手にやる自信あるもの。私たちってセックスの相性は抜群だし、二年も付き合ってきた仲なんだからお互い気楽でしょ。今のペースが重荷なら一ヶ月に一度ぐらいにしましょうよ。ね。私たち・・・」瑠香は幾分上目遣いで浩幸の目を覗き込むような視線を送ってきた。「別れる理由なんてどこにもないと思うの」

 浩幸は心の中で苦笑した。浩幸が結婚するというだけで十二分に別れる理由になるはずだ。つい先日は面倒なことは嫌だと言っていたくせに、今日は自分からばれないように上手にやるからと提案してくる。こんなに饒舌で支離滅裂な瑠香は初めてだった。高飛車な物言いだがつまるところ浩幸と別れたくないだけなのだ。能動的に浩幸の身体を求めてきた先ほどの動きは彼女なりに媚を売ったということなのだろう。必死に冷静さを取り繕っていながらも焦りの目立つ瑠香がやけに幼く見えた。

 つい先日までは二人の関係は完全に瑠香の胸先三寸で決まっていた。会社の中では上司と部下の間柄でも勤務時間外の行動は全て瑠香が主導権を握っていた。浩幸がいくら二人きりで会いたいと言ってもそのために瑠香は自分の予定をずらすようなことは一切しない。私はあなた一人のために存在しているわけじゃないのという表情で浩幸の顔を視界に入れることもなく頓着なく却下する。それでも懲りずにオファーを出し続けると何度目かに運良く瑠香の予定が空いていることがあって漸く二人の時間を確保できるという具合だった。浩幸にとっては「瑠香と会う」ではなく「瑠香に会ってもらう」のが常だったのだ。

 それが浩幸の心を真理が独占するようになった途端に瑠香は変わった。今日のデートも瑠香が言い出したことだった。ましてや今日のように瑠香がベッドの上で浩幸に媚びることなど一度もないことだった。すがるような目の瑠香が浩幸の視界に自ら入ってこようとする。気がつけば浩幸を中心に瑠香がその周りを動いているのだった。

 余裕があるからだろうか。

 真理を心から愛している。そして真理に愛されている自負がある。そのことが浩幸に果てることのない力を与えてくれる。満ち足りた人間にはゆとりがある。浩幸は今何の不安もなく身の周りの全ての事象を見渡すことができる余裕があった。真理を愛することで生まれた懐の深さが結果的に瑠香をも惹きつけることになっているのかもしれないと浩幸は思った。

 気がつけば瑠香は今にも泣き出しそうな顔で浩幸の胸の辺りをぼんやりと眺めている。そこを見ているようで違う何かを見ているようなあやふやな視線だった。浩幸は瑠香の沈痛な色の額に声を掛けた。

「いいよ、このままで」

 浩幸はこの一言で風船が割れるように弾ける笑顔を瑠香が見せるものと思っていた。しかし瑠香が見せた表情は全く違っていた。

 泣き出しそうな暗い顔つきはそのままに違う世界を彷徨っていた目つきだけがやけに鋭くなって痛いぐらい真っ直ぐに浩幸の眉間を撃ち抜いてくる。これはどういうことだろうか。本音が何かを探るために必死に浩幸の心の裡の裡を覗こうとしているのは間違いないだろう。しかしそれだけではない。これまでの関係を維持したいという瑠香の言葉は偽りのない気持ちなのだろうが心の奥ではこのまま浩幸と付き合っていても自分が惨めになるだけだということを悟っており、いっそここで別れを告げてほしいという深層心理がその表情には表れているように見えた。

「ほんと?」

 浩幸の言葉を瑠香は信じていない。軽く身を引いて浩幸の顔だけでなく上半身全てを視界に捉え、どこかにある嘘を見破ろうとしている。まるで格闘技をしているかのような緊張感のある間合いの取り方だった。

「何だよ、その目は」

「だって・・・」

 瑠香はそう言ってようやく目から力みを抜き、もうどうしたら良いのかわからないと言いたげな困惑に満ちた顔で浩幸の唇を求めてきた。浩幸は瑠香の唇を受け止めながらその絹のようにしっとりとした髪をゆっくりと撫でた。

「ほんとにいいの?」

 長いキスの後もう一度確かめると瑠香は疲労困憊の態で倒れこむように枕に顔を埋めて大きく吐息を漏らした。そのため息の色は一つではないようだった。

愚かな女だ。

 しかしいつの時代も女は愚かであるほど可愛らしく見えるものだ。浩幸は瑠香と関係を持って以来初めて瑠香のことを愛しく思った。

 桜井の言葉がちらっと浩幸の頭を掠めた。桜井は女関係についてトラブルを起こすなと言っていた。逆に考えればトラブルさえ起こさなければ問題ないということになる。都合の良い解釈だが今はそれも許される気がした。浩幸は再び瑠香の身体に覆いかぶさっていった。


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