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 追い風が吹いている。流れに乗っている。全てが良い方向に回っている。

 部長は言葉通り浩幸を新プロジェクトのリーダーに指名した。そのプロジェクトは全て浩幸の思いどおりに動き出している。忙しくて真理と会う時間は限られてしまうが、電話で声を聞くだけで癒し効果は絶大だった。浩幸は己の中に漲る巨大な力を感じていた。噴火口から無尽蔵に溢れ出す溶岩があらゆるものを押し流し焼き尽くす。浩幸が感じている力のイメージはそういうものだった。自分の道を自分で切り拓く。何物も自分にとっては障害となりえない。上手くいきすぎて怖いという感覚もない。もともとこれだけの実力を自分は内に秘めていたと浩幸は思っている。きっかけさえ掴めればいつでも大輪を開花させるだけの土壌は用意されていたのだ。そしてそのきっかけはすでに浩幸の手の内にあった。それは真理だった。男は女で変わるものだとつくづく浩幸は思っていた。真理と出会ったときに、自然の力でもなければ神やら仏やらといった観念めいた抽象的なものでもない、もっと大きく具体的な何かを浩幸は自分の中に感じていた。それもこれも選ばれし人間の運命と言えば言えなくもないが、その運命が指し示す道筋でさえ自分の力でどの方向にでも変えてしまえる気がしていた。初めて真理を抱いたときに浩幸は今後の人生を謳歌するために必要な全てを手に入れたことを確信していた。

 部長室に入ることに躊躇することはなくなっていた。三ヶ月前に初めて桜井に呼び出されたときには手に汗握ってこの扉を叩いたものだと浩幸は苦笑した。あのときとは全くの別人になっている。

 浩幸は部屋の主人に対して親しみを込めて軽くノックし、返事を待ってゆっくりと足を踏み入れた。

「順調そうじゃないか」

 浩幸にソファに座るように勧め、自分も浩幸と対座すると桜井は満足そうにそう言った。

「ありがとうございます」

 何のことについて桜井が順調だと言ったのか浩幸はあえて聞かなかった。それは全てが順調だったからだ。

「親馬鹿だと思うかもしれないが・・・。娘がね、ここのところ何と言うかその、美人になったと言うかきれいになったと言うか・・・。その、あれだ。色っぽくなったような気がするんだ。顔つきだけじゃないんだ。ちょっとした仕種なんかもね。こう、女を感じさせる何かがあるんだよ。多分、君と会ってからなんだろうなぁ。本当に、親の俺が言うのもおかしなもんだが、女は男で変わるもんだね」

 寂しい気もするんだけどね、と恥ずかしそうに小声で言った桜井は一人娘の親の顔をしていた。常に冷静な桜井の皮膚の奥にも人間の血が流れているのだ。人前で見せたことのないはにかんだ表情の桜井を見ていると部下として義理の息子として親愛の情を抱かざるを得ない。

 この人を支えていこう。

 そして自分ものし上がっていくのだ。浩幸は桜井の右腕としてどんなときも桜井を親衛するつもりになっていた。桜井を守るためなら弾幕に身をさらしても構わないとさえ思っていた。

 社内の出世競争は苛烈である。その中を生き残るためにはもちろん業績を上げて上層部に実力を認めさせなければならない。部下に信頼され彼らにとって仕事のしやすい環境を作っていくことも必要となってくる。しかしそれらにも増して今後重要になってくるのが謀略だった。トップを目指しているのは桜井だけではない。この企業の中には優秀なライバルが綺羅星のごとく各部署に散在しているのだ。人の上に立つにはあるときは彼らを蹴落とし、またあるときは足を引っ張ってでも這い上がっていくしかない。そのためには上層部の意向から平社員の噂までのありとあらゆる情報を集め分析し時期を見計らって最も有効な策を弄していく参謀が必要だと浩幸は思っていた。上層部にパイプがあるわけでも、取締り連の二世というわけでもない、つまり自分の実力だけの成り上がり者である桜井にとっては手となり足となって働いてくれる優秀な懐刀が欠かせない。その戦国武将の軍師とも言うべき存在に浩幸はなろうとしているのだった。

「男も女で変わるようです」

 浩幸の実感だった。今の浩幸は全てが良い方向に進んでいると信じて疑わない。その原動力は真理だった。真理という女性に出会ったことで浩幸はこれまでの真理に出会うまでの自分の生きてきた過程が何一つ間違っていなかったと思えるのだ。人間は毎日毎日何らかの選択をして生きている。そして三十三年の人生には浩幸なりにいくつもの岐路があった。そのあまたの分岐点においてその都度選んできた道の果てにたどり着いたのが真理だった。自分の下してきた大小様々な決定が全て正しかったと証明されたような気持ちだった。それだけ浩幸にとって真理は完璧な女性だった。

「で、どうする?」

 桜井の眼差しが途端に厳しさを取り戻した。この切り替えの早さも桜井の才能の一つだった。彼は軽く身を乗り出し浩幸をその心の動きを読み取るかのように正面に見据えた。まるで命の取り合いをするかのような隙のない表情だった。それは浩幸を部下としてではなく一人の取引相手として見ている証拠だった。そして言外に意に反するようなことは力に訴えても許さないというきな臭さを感じさせている。これが最後の意思確認であることは間違いない。しかし浩幸は全く臆することなく稀代の傑士の目を見据えた。

「私なら部長のお役に立てるはずです」

 まさに契約だった。桜井が浩幸の能力のたぐいまれさを評価し味方に引き入れたいと思い、浩幸も桜井が自分の才能を駆使するに値する人間だと値踏みしたということだった。それは上司が部下を登用したという上下関係ではなく、互いが互いを認めて同盟を結んだという対等な契約と言えた。

 桜井は浩幸の答えに二度三度と満足そうに頷き、やがて口から息を漏らすと大きく一笑した。

「私の目に狂いはなかったようだな」桜井は卓上のケースから煙草を取り出しおもむろに火を点けた。「しかしこれだけは言っておくが結婚は真理が望んだことだ。確かに私は君を側近にほしかったが真理をだしに使おうというつもりはさらさらなかった。分かってると思うが君が私の部下である以上君を味方に引き入れる手立てはいくらでもあるからね。それに君だって時期が来れば当然自分から私につくことを選んだだろう。だが真理がどうしても君に会いたいと言うものだから条件にしたまでだよ。おかげで話は早くなったけどね」

「私のような若輩者を買っていただいて光栄です」

「君には私と同じ匂いを感じるんだ。君も人の上に立ってやろうという気概を四六時中胸の奥で燃やしてるんじゃないのかな?時にはその炎の熱さをもてあますこともあるだろう」桜井は満足そうに頷いて言った。「今度我が家に来るといい。真理の母親が早く会わせろとうるさくてな。真理も君に手料理を振舞うと言っている」

 浩幸は丁寧に礼を述べ席を立った。ドアに向かう浩幸の背に桜井が付け足しのように声を掛けてきた。

「そうそう。女関係のトラブルはないようにしてくれよ。君に限って抜かりはないと思うが」


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