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 彼女を見つけた瞬間、浩幸は初恋のもどかしさ、はかなさを思い出さずにはいられなかった。そして当時感じた胸の鈍い痛みも何ら変わることなく浩幸の心を締め付けた。

 それは中学一年、十二歳の春。新任の石川という音楽教師がその白く細い指をたおやかに鍵盤に下ろした瞬間、浩幸は何か熱く硬いものに胸を貫かれたのを感じた。もちろん見ても手で触ってもそこには何もない。しかし目に見えない手に触れることの出来ない太い木杭のような何かがそこには確かに突き刺さっていて血の噴き出るような痛みが実際に感じられるのだった。

 ちっぽけな心臓が大人になりきっていない身体全体を揺さぶるほど大きく拍動している。浩幸はその痛みに丸めた紙屑のように顔を歪め俯きながらも息を止めて彼女の横顔を覗き見た。誰かを見ているだけでそれこそ死にたいほどに胸が高鳴ることなどそれまで一度もなかった。もちろんそれからも一度もない。呼吸の仕方を忘れてしまうほどの胸の苦しみは浩幸がまさに彼女に身も心も奪われていたことの証だった。

 思春期の浩幸は石川先生から片時も目を離すことができなくなってしまっていた。音楽の授業以外のときも浩幸は常に心の中に彼女を見据えていた。あまりに強く彼女を想っていたがために当然、彼女を目の前にすると緊張のあまりろくに口もきけなかった。授業中の浩幸は彼女に見つからないように見つからないようにと自らの存在感を消すことに執心していた。それは彼女に声を掛けられてしまったらきっとまともに応対ができず、先生に嫌われてしまうと思ったからだった。

 石川先生は美しかった。その美しさは直視する者の心を圧倒する。アフリカの平原に横たわる巨大な朝焼けと同じように誰にも否定させない絶対的な美だった。クラスメイトの影に隠れその肩越しに彼女を垣間見る。その程度の距離が浩幸にとって丁度よい幸せをもたらした。それだけで浩幸は満足だった。それ以上のことは何も求めていなかった。

 しかし石川先生はその年の夏休みの間に忽然と消えてしまった。それはまるで手品のようだった。大きな魔法の箱に人が入り扉を閉めてちちんぷいぷい。箱全体を一回転させてから箱を開くと中は空っぽ。中に入った人はどこか異次元へ飛んで行ってしまう。完全なトリックになすすべなく浩幸はただただ呆然とするだけだった。彼女が教壇を下りた理由は当時の浩幸には知りようもない。家庭の事情があったのか、職場の人間関係に耐えられなかったのか、教師という職業に強い違和感を抱いたのか。彼女が学校を去ってから周りの教師連は申し合わせているかのように誰一人として彼女の名前を口にすることはなかった。それはまるで彼女がいた四ヶ月間を白紙に戻そうとしているかのようだった。新学期になって不自然なほど平然と授業を進める彼らの顔には彼女のことについては一切の質問を受け付けないと書いてあった。そしてすぐに固太りで厚化粧の非常勤講師が音楽の担当教師としてやってきた。彼女は浩幸の無力でプラトニックな初恋を嘲笑うかのように大きな鼻の穴を覗かせ当然の顔をして丸々と肥えた指で鍵盤を叩き、浩幸は9月の粘りつくような残暑に喘ぎながら音楽に対して一生分の興味を失っていったのだった。

 熱い紅茶をすすりながらぼんやりと足早に暮れていく窓の外を眺めていた浩幸の視界を小走りに横切ったその女性が浩幸のいる喫茶店に入ってきたとき、浩幸はまず我が目を疑い、暫く経ってようやく目に映った全てが現実だと理解したときには彼女と結婚することを確信していた。まだ彼女が今日の相手であることに何の根拠もなかったが、浩幸はそれを信じて疑わなかった。結婚前提の紹介を受けた人を待つ喫茶店に初恋相手と生き写しの女性が現れた。黒いアンサンブルにブラウンのロングスカートという装いの彼女は俄かには現実とは受け入れがたいほどあの楚々とした佇まいでありながらも絶対的な存在である愛しい人に似ていた。それは偶然でも何でもないと浩幸は思った。単に似ている人なのではなく、彼女がその人本人だと思わずにはいられなかった。二十年前の種明かしが始まるような気分だった。だとすれば誰のトリックだったのかは知らないが、粋なことをするものだ。浩幸にとって二人のこれからは運命とでも言うしかない確定された未来だった。

 入り口付近で店内の様子を窺っていた彼女は果たして浩幸を視界に捉えると脇目も振らずにまっすぐ歩いてきた。

 現実を冷たく眺めれば今の浩幸が紅顔の中学生ではないのと同様に彼女もあのときの音楽教師であるはずがない。しかし浩幸は胸を張り少し頬を緩めてこちらに向かってくる約二十年ぶりの彼女に、うぶな少年時代の小心さが顔を出して思わず身をすくめ目を伏せてしまった。手元を見つめる浩幸の狭い視界に間もなくスカートの裾が容赦なく割り込んできて小さく揺れた。

「村瀬さんですよね?」

 名前を呼ばれることは分かりきっていたのに浩幸は彼女の声に慌てて立ち上がった。

 声までがそっくりだった。浩幸はまだ女というものを知らない純情な中学生に戻っていた。

「あなたが真理さんですか・・・」

 全身に鳥肌が立った。足元が揺らぐような感覚をこらえることに精一杯で浩幸にはそれ以上は何も言えなかった。額から汗が勢いよく滲み出すのが分かった。

 桜井真理。部長の愛娘だということは既に大事なことではなくなっていた。初恋の女性と正対しているようで浩幸は舞い上がっていた。三十歳を越えた男がろくに女性の顔も見られないとは笑い話にもならないなとは思いながらも真理がどうにもまばゆく見えて浩幸は顔を起こすことができなかった。

 互いにぎこちなく椅子に座りやがて真理が注文した紅茶が運ばれてくると不意にくすくすと笑い声が聞こえてきた。

「村瀬さん、全然私を見てくれないんですね。私、嫌われてるのかしら」

 拗ねるような口調の真理にようやく浩幸も意を決して顔を上げた。

 そこに座っているのはあのときの女教師に生き写しの女性だった。彼女を見れば見るほど自分が時間の狭間を旅しているような気分になる。柔らかく肩に掛かる長いストレートヘアー、優しいカーブを描いた細い眉、常に微笑を浮かべているように見える口元。ティーカップを持つその指の白ささえもが二十一年前の切なさを彷彿とさせる。

「実は私、村瀬さんにお会いするの初めてじゃないんですよ」

 真理が照れたように微笑みながらも浩幸の目を覗き込んでくる。どこで会ったかを当ててほしいと言いたいような試す眼差しだった。

「僕も、初めて会ったという感じがしないんですよ」

 正直な感想だった。以前会ったことがあると言われ驚きよりもやっぱりという安心感がそこにはあった。見た目だけではなく仕草からも目の前の真理に初恋の女性を感じてしまう。二十一年前の記憶などあやふやなもので、実際に二人を並べてみれば全くの別人なのかもしれない。しかし、今の浩幸はまるでタイムスリップしたかのような錯覚に陥っていた。思わず真理のことを「先生」と呼んでしまいかねないほどだった。友達の肩越しにではなく、面と向かっていることが僥倖でもあり畏怖でもあった。

「本当ですか?私のこと覚えていてくださったんですね。嬉しい。どこでお会いしたかも覚えていらっしゃいます?」

 当然だが真理は浩幸の言葉を勘違いしたようだった。目を丸く見開いたあと嬉々とした笑顔を見せて尋ねてくる真理があまりにも美しくて浩幸はひどくたじろいだ。まるで初恋の彼女に言い寄られているような気分だった。もう後には退けなかった。浩幸は必死に記憶を辿って真理との出会いを思い出そうとしていた。しかしそんな記憶などどこにも無いのは明白だった。真理のような女性に出会っていたら忘れるはずがないのだから。浩幸は必死にその場を取り繕う言葉を探した。しかし、今の浩幸の脳は壊れた洗濯機のようにガタガタと揺れているだけで全く用をなさない。過ぎていく一秒一秒が重く浩幸の肩にのしかかってきた。

「やっぱり」真理は一瞬言葉を詰まらせた。「思い出せないですよね」

 浩幸は当惑した。落胆した真理の表情にあからさまに浩幸への好意が読み取れる。

 事態は浩幸の当初の目論見とは全く違う方向へ展開してしまっていた。

 一昨日の瑠香との情事のあと、浩幸は来るべき上司の愛娘との出会いについて悲観的な考え方をするようになっていた。喫茶店で真理を待つ間はいかに波風立てずに桜井に断りを入れるかということだけを考えていた。いくら飛ぶ鳥落とす出世を重ねている上司の娘だからと言っても「はい喜んで」と妻にするわけにはいかない。一人娘として姫君姫君と甘やかされて育った高慢な女だったらどうするのか。それに上司の娘と結婚しても毎日毎日肩身の狭い思いをするだけのような気がする。会社では桜井の命令に絶対服従で家に帰れば桜井の娘の顔色を窺って生きていく。約束された地位の代償としてそんな生活がこの先何十年と続くのかと思うと背筋が寒くなる。さらに浩幸は真理の気持ちについても考えてみた。突然父親の意向で結婚相手を決められたとあっては彼女も今回の出会いは面白くないはずだ。どこの馬の骨とも分からないおじさんと生涯を共にしろと言われても年頃の女性は嫌悪感しか抱かないだろう。彼女は二十一歳だという。まだ若い。結婚などどこかの国の御伽噺みたいなもので自分が現在直面すべき問題とは思えないに違いない。ここは一つ彼女を丸め込んで小芝居を打ってもらい、「まだ誰のものにもなりたくない。もう少しパパの傍に置いてほしい」と泣いてもらうのが一番だ。

 しかし会ってみると事情は違っていた。やってきた上司の娘が自分の初恋の女性と瓜二つで、その彼女がこの結婚話に積極的な素振りを見せている。浩幸の心は否応なく弾んでいた。会うまでの消極的な気持ちはすでにどこやらへ霧散している。今はいかに彼女の気持ちを自分の方へ手繰り寄せるかということに一心不乱になっていた。

 浩幸は焦った。真理の様子から以前どこかで会っていることは間違いない。浩幸は考え込んだ。しかし浩幸が黙考する様子を見せれば見せるほど真理は落胆していくようでもあった。

「会社のスキー旅行ですよ」諦めたように真理が口を開いた。「私、高校生のときから毎年参加してるんです。でもあの旅行って毎年大勢参加してるから覚えてらっしゃらなくて当然ですよ。気になさらないでください」

 スキー旅行と言われてもまだ浩幸は真理のことを思い出せなかった。そもそもスキー場ではみんながみんなスキーウエアに身を包みニット帽を深く被ってゴーグルまでしているので顔や体型がよく分からず区別がつきにくい。

 家族や社員同士の親睦を深めるために開かれる社内の一泊二日のスキー旅行は毎年恒例の行事だった。建前は自由参加となっているが若い社員は強制的に参加させられることになっている。浩幸はこの旅行が鬱陶しくて仕方なかった。まず第一に会社の外でまで会社の人間とは会いたくない。それがたまの休みの日に一日中会社関係の人間と顔をつき合わせていなくてはならないことに果てしないストレスを感じるのだ。

 スキー場につくとスキーの得意な浩幸は他に何人かの滑れる連中と一緒に初心者を集めてスキー教室を開くことをいつも命じられる。せっかくスキーをしに来たのだから一人で自由に滑っていたい。それなのに雪の上でろくすっぽ立っていることもままならない素人連中を相手に短い距離を少しずつ刻んで降りていくのだ。会社の人間だから冷たく突き放すこともできない。少しでも進歩を見せれば歯の浮くような褒め言葉も用意しなくてはならない。その結果肉体的にも精神的にも不快な疲れを身体に蓄積したまま月曜日を迎えるということになる。つまるところ浩幸にとって毎年のスキー旅行にいい思い出などなかったのだ。ようやく浩幸も若手を卒業し、ここ数年は何かと理由をつけて不参加を勝ち取るようになっていた。

「ああ、あれに参加してたんですか。覚えてなくて申し訳ない。あの旅行って本当に大勢参加するもんだから」

 真理は笑顔を湛えて首を振った。

「いいんです。みんな同じような格好で滑ってるし。それに私、夜の宴会にはほとんど出てないですから。ああいう場所って苦手で・・・。だから村瀬さんと顔を合わす機会ってほとんどなかったんです。でも私毎年村瀬さんのスキー教室を楽しみにあの旅行に参加してたんですよ。毎年参加してるからある程度滑れるようになったんですけど、それでも滑れない振りをしてレッスンを受けてました。ここのところ村瀬さんが参加されてないんでレッスンが受けられなくて私、寂しかったんです」

 自分の言葉に上気したように頬を赤らめて俯く真理に浩幸はどきりとした。こんなことを言われて嬉しくないはずがない。

「そんな風に思ってもらえてたならやってて良かったな。正直言うとあの旅行に参加するのいつも嫌々だったんだよね。だから最近は何かと理由をつけて断ってたんだけど、楽しみにしてくれてる人がいるなら来年からまた参加するよ」

 浩幸は平静を装いつつ咽喉に激しい渇きを覚えてすっかり冷めた紅茶を飲み干した。

「嫌になるっていうのはよく分かります。滑れない人を教えるのって大変だろうなっていつも思ってました」

「僕は人に教えるのって向いてないのかもしれないな。相手が会社関係者だから気を遣わなくちゃいけなくて余計に疲れるし。おじさんおばさんの相手をするのは会社の中だけでもう十分」

 浩幸は苦笑して言った。真理は浩幸に微笑を返したがすぐに寂しそうに目を伏せた。

「私は同年代より年上の人が好きですけど・・・。そうですよね。会社関係って迷惑ですよね。私自分のことばかり考えてお呼び立てしちゃって・・・すいませんでした」

 そう言って頭を下げる真理に浩幸は当惑した。軽い冗談が真理を傷つけるとは思いもよらなかった。

「そういうつもりで言ったんじゃないんだ」浩幸は慌てて身を乗り出して否定した。「迷惑だなんてとんでもない。こんなにきれいな人に出会えるなんて思ってもみなかった。部長に感謝してるぐらいだよ」

「本当ですか?本当にそう思っていただけてるんですか?」

 真理はまだ自信なさそうに訝しげな上目遣いでこちらを見ていた。


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