それから
「なあ」
呼びかけても案の定返事はない。その白い背中にかかる髪は一本たりとも動くことはなかった。久しぶりのセックスにのめり込んでいたように見える瑠香はもうしばらくこちらの世界には戻ってこないだろう。浩幸は仕方なく枕もとの煙草に手を伸ばした。
石川先生が死んでから二年が経とうとしていた。彼女は浩幸の腕の中でいつの間にか息をしなくなっていた。冷たくなっていく最愛の人を抱えて救急車を呼んだときには何もかもが遅すぎた。当然浩幸は自分が殺したのだと思った。セックスがきっかけとなって心臓麻痺を起こしたのだと。そのときの混乱を極めた頭ではそれしか考えられなかった。しかし警察は自殺と判断した。彼女の鞄から遺書が見つかり胃の中から致死性の高い薬物が検知されたのだった。遺書の内容は赤裸々だった。浩幸の思いも寄らなかった桜井家の歪んだ家庭環境がそれによって完全に暴露された格好になった。浩幸は自分が偽装結婚のようなものに利用されかけていたことも知った。真理が誰かと結婚し家を出ていくことで夫と娘の悪夢のような関係を断ち切ってしまおうと彼女が考えていたことがそこには書かれていた。そして夫と娘はこの計画を逆手にとって結婚を隠れ蓑に密かに関係を続けようとしていたのかもしれないとも記されていた。
それを読んでも浩幸は怒りを感じなかった。桜井家の複雑な事情に巻き込まれなければ初恋の人と再会することもなかったと思うからだった。偽りばかりの関係だったがその行方にあったものは必ずしも不幸ではなかった。
違法な薬物の出所を調べるために警察が石川先生のパソコンを押収した結果、電子メールのデータから今回服用した薬物は死ぬ三ヶ月前に購入したことが明らかになった。彼女は何ヶ月もずっと死ぬことだけを考えていたのだ。そして彼女の胃の中からは溶けきっていないグレーのカプセルが発見されている。もちろんカプセルの中身は石川先生を死に至らしめた薬物だ。死に至るには一錠で十分だということを本人が知らなかったはずがない。しかし彼女は一錠目を服用した後少し時間をおいて飲む必要もない二錠目を口にしている。浩幸は石川先生が口移しにジュースを飲ませようとしたことを思い出していた。あのとき彼女はジュースと一緒に毒薬を閉じ込めたカプセルも飲ませようとしていたのではないだろうか。その想像が浩幸に喜びをもたらした。死出の旅の連れ合いとして愛する人が選んだのが他でもない自分だったことに浩幸は救われたような気分だった。一緒に死ぬとしたら最も恨んでいる人間か最も愛している人間を選ぶだろう。そして自分が前者であることは考えにくい。石川先生の死は浩幸の心を大きく貫きいつまでも埋まることのない風穴を開けた。しかし死の瞬間に愛されていた自負が浩幸に僅かながら生きる活力を残していた。
真理はあれ以来浩幸の前に顔を見せなくなった。桜井部長も会社にはいられなくなり、あの洋風の家も引き払ってしまって今は消息さえ知れない。
浩幸も辞表を提出した。とても桜井部長が遺したプロジェクトを進めていく気にはなれなかったのだ。それに、生きていくには会社を辞めて暫く気ままな生活を送り気持ちをゼロにリセットする必要があった。
漸く最近ぐうたらな生活にも嫌気が萌してきた。就職先も何とか見つかり今日初出勤だった。
この二年の間支えになってくれたのは瑠香だった。「面倒なことは嫌いよ」が口癖だった瑠香が毎日のように浩幸の部屋に来ては何も口にしようとしない浩幸のために料理を作り、洗濯をし、掃除機を掛けて帰っていく。浩幸が料理に全く手をつけずに残しておいても嫌な顔一つせずにまたご飯を作っていく。浩幸が八つ当たりで怒鳴り散らしても涙を目に溜めて我慢し、次の日はいつもと同じ笑顔で現れる。さすがに少しでも食べなくては悪いと思って一口二口食べている間に浩幸は生活のリズムを少しずつ取り戻していった。気がつけば瑠香が来る時間を待ち侘びるようになっていた。不況で就職先がなかなか決まらなくても瑠香は励まし続けてくれた。やっとのことで働き口が見つかると瑠香は初めて泣いた。化粧が崩れるのも構わずに辺りを憚らず号泣した。
「なあ、瑠香」
それでも瑠香はぴくりとも動かない。事が終わってからかれこれ一時間になる。浩幸は煙草を持っていない左手で瑠香の髪を撫でた。この時間が瑠香にとって一番幸せな時間なのだろう。それは浩幸も同じだった。瑠香の幸せそうな寝顔は今最も浩幸の心を安らがせる。
あと三十分もすれば瑠香も起きてくれるだろう。二年も待たせたのだ。それぐらい待たされても文句は言えない。
瑠香が起きたら尋ねたいことがある。
「結婚ってどう思う?」
瑠香は何と答えるだろうか。また興味なさそうに、結婚なんて面倒よ、と言うのだろうか。この際少しくらい面倒なことになっても彼女は許してくれるだろうか。