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 怖いぐらいに予定通りだった。我ながら自分の演技力に感心してしまう。もしかすると自分は本当に村瀬に惚れているのかもしれないと真由美は思った。愛を感じるところまではいかないまでも、少なからず好意を抱いているのは間違いなかった。自分の中に女が残っていて、その雌性が真由美の胸を高鳴らせている。しかし夫以外の男に身体を許そうとしていることに罪の意識を感じないわけでもない。この場に至っても女の性として悲しいぐらい貞淑な自分に気付いて真由美は軽く笑った。散々苦しめられてきた結果ではないか。真由美が裁判を言い出してからというもの常に不機嫌そうな顔をしている夫は先日「お前と結婚したのはただ可愛い真理を俺のものにしたかったからだ」などと口走った。その言葉が真実かどうかは分からないがここまで言われても未だにロリコン男のために操を立てようとする自分がいる。つくづく女は愚かな生き物だと思った。

 支えているつもりで逆に真由美に支えられている村瀬が可愛かった。何も食べずにひたすらワインばかり飲んでいた赤ら顔の男。きっと彼はそんなに酒が強くないのだろう。閉まりなく口を開けてこちらが酔ってしまいそうなほどアルコール臭い息を吐き出しているだらしのない村瀬の舌を思い切り吸ってやりたいと思う。彼の無邪気に驚く顔を想像するとエレベーターから部屋までの数歩がもどかしくなってくる。カードキーを上手く挿入できない男の不器用な手が苛々させる。真由美はこの廊下で今すぐにこの男を裸にしてしまいたい衝動に駆られた。ここまでに思わせる村瀬は心中する相手としても申し分ない。彼は夫の有能な部下であり娘のフィアンセであり瑠香の恋人だ。村瀬を中心にして桜井家は回っていると言えないこともない。道連れにするなら彼以外にはありえないと真由美は思っていた。

 案の定部屋に入った途端村瀬は真由美の唇を求めてきた。強引に差し込んでくる舌に真由美は全身が総毛立つような鋭い快感を味わった。いつ以来の恍惚だろうか、もう思い出すこともできない。四肢の力を失ってその場に崩れ落ちそうになる自分を何とかこらえて真由美は胸をまさぐってくる村瀬を何とか押し離した。

「シャワーぐらい浴びさせる余裕がなきゃだめよ。余裕があるのが男の魅力なんだから」

 戻ってくるまで眠ってしまわないようにね、としつこいほど注意して真由美はバスルームに入っていった。服を脱ぎ熱めのシャワーに打たれると興奮と快楽に働きを鈍らせていた思考回路が普段どおりの落ち着きを取り戻していった。身体の隅々に石鹸を走らせながら部屋に戻ってからの手順を頭の中で反芻する。不思議と怖いという意識はない。それよりもやっと終わるという解放感が身体を軽くさせる。この一週間エステに通って磨いた肌は自分で触っても心地よい。村瀬の愛撫を受ければ真由美の身体は内側から輝くことだろう。最後の瞬間を可能なまでに美を追求した自分で迎えられることが真由美には深い喜びだった。

 バスローブを身に纏って部屋に戻ると村瀬は灯りも点けずぼんやりとテレビを眺めていた。真由美が近づくと村瀬は甘えん坊が母親を見つけたようにすぐに手を伸ばしてくる。幼い彼がいじらしい。

「ほら、シャワー浴びてきて。汗臭い男は嫌いよ」

 村瀬は真由美の言葉に従順にバスルームへ消えていった。すれ違う瞬間に真由美は村瀬を引き止めたくなった。汗にまみれた男の体臭を胸いっぱいに吸い込みたい。べたつく肌を全身にこすり付けて穢してほしい。そんな雌性の欲望を真由美は拳を握り締めてじっとこらえた。

 村瀬が消えていった方向から水が流れる音が聞こえてくると真由美はゆっくり動き始めた。鞄の中からピルケースを取り出す。中には小さなグレーのカプセルが二つ入っている。いつか来る日のためにとインターネットの自殺志願者サイトで知り合った自称「自殺コンサルタント」から買い求めた楽にそして間違いなく死ねる毒薬だ。手に入れたのは三ヶ月前だった。思えばこの半年というもの死ぬことばかり考えていた気がする。結局のところそれが一番簡単に楽になれる方法なのだ。しかしあのときは存在すら知らなかった男と一緒に死ぬことになるとは人生とは分からないものだ。真由美は縁という言葉を思い浮かべた。出会ってまだ数日しか経っていないのに今日ここで心中することになるとは、村瀬とは余程深い因縁によって繋がっているとしか思えない。

 ピルケースを開きカプセルを一つ上下の唇で挟む。これを飲み込めば胃の中で三十分で溶けすぐに中の薬が体内に吸収される。

 今私は現世の縁に立っている、と真由美は思った。眼下には底の見えない深い闇がぱっくりと口を開いて手招きしている。一歩、いや半歩踏み出せば私は永遠に堕ちていくことになる。それでも真由美は意外に落ち着いていた。冷蔵庫からジンジャーエールを取り出し窓辺に立つ。

 窓の向こうには自分が生きていた街並みが広がっていた。見渡す限り光の波という光景は圧巻だった。この灯り一つひとつに人々の生活があるのだと真由美は思った。一人ひとりは無意識にただ生活のために灯りを点しているのだがそれが結果的には芸術的な絵を作り出している。人間は美しい生き物だと実感した。人は生きているだけで素晴らしいのだ。

 先ほどまで自分も向こう側にいた。

 真由美は窓から離れた。死のうと決めてから生きることの尊さを認識させられることになるとは何と悲しいことだろう。あるいは死を受け入れた今だからこそ生を客観的に見つめられるのかもしれない。真由美は強く目をつぶりカーテンを閉めた。もう二度とあの世界には戻らない。

 シャワーの音が途絶えすぐにドアの開く音がする。真由美は銜えていたカプセルを口の中に含んだ。プルタブを引きぐっと冷たい液体を躊躇なく飲み下した。ジンジャーエールの刺激が咽喉に心地良いだけだった。

 間もなく村瀬が背後から抱き締めてくる。彼の濡れた髪が頬に当たって気持ちがいい。真由美は少しのけぞりながら左手を彼の首に絡ませた。ベッド下のフットライトだけでは村瀬の表情は見えなかった。

「好きです」思いつめたような声で村瀬が言う。「真由美さんが石川先生だった頃からずっと好きです」

 もう何が起きても驚かないと思っていた真由美にも村瀬の告白は衝撃だった。彼があのときの教え子だったとは予想もしていなかった。彼の言葉を額面どおり信じれば彼は二十年以上もの間想っていてくれたことになる。真由美は笑いをこらえきれなかった。こんなに素敵な死に方は他にはない。二十年経っても変わらず自分を愛してくれる男の腕の中で死ぬことに真由美は泣きそうになるぐらい幸福だった。

「何がおもしろいんですか」

 怒ったように言う村瀬が愛しい。真由美はベッド脇のナイトテーブルにそっとピルケースとジンジャーエールを置き村瀬に飛び込むように抱きついてそのままベッドに押し倒した。村瀬の顔にキスの雨を降らせると村瀬は真由美を抱え込んで身体の位置を逆転させた。先ほどまでの汗と酒の臭いは消え石鹸の香りが微かに広がる。腕と足と唇を絡ませあいながら二人は何度も抱き締めあった。

「私もあなたのこと好きよ。ねえ、ここでこうしていられることって偶然かしら、それとも必然?」

 真正面に村瀬を見上げると彼はゆっくりと真由美の耳に口を寄せてきた。

「必然ですよ。僕たちがこうなるのは運命だったんです」

「・・・そうね。・・・きっとそうだわ」

「泣いてるんですか?」

 枯れ果てたと思っていた涙が溢れて溢れてどうしようもなかった。運命とすれば何と皮肉な運命だろうか。そして間もなくその運命も終わる。今頃胃の中で刻一刻とカプセルが溶かされているのだ。もう思い残すことはない。後は一身に村瀬の愛撫を受けて死にたい。

「咽喉渇いたでしょ?ジュース飲ませてあげる」

 真由美は村瀬の身体からすり抜けベッドに身を起こして座った。目の前にカプセルが入ったピルケースとジンジャーエールがある。村瀬に背を向けて真由美はカプセルを再び口に含みジンジャーエールを口腔に溜めた。振り返ると仰向けに村瀬が寝ている。真由美は村瀬の身体に覆いかぶさりゆっくりと口を口に近づける。村瀬が真由美の背に手を回してきた。

「僕はもう何もいりません。真由美さんさえ一緒にいてくれるなら死んだって構わない」

 再び真由美の目に涙がこみ上げてきた。次から次へと村瀬の頬に熱い雫がこぼれる。真由美は口の中のジンジャーエールをカプセルごと咽喉の奥に押しやった。

「もう。変なこと言うから飲んじゃったじゃない。もう一回ね」

「もういいですよ。それよりも」村瀬はナイトテーブルに手を伸ばそうとする真由美を背後から抱きかかえ優しく力強くベッドにあお向けた。真由美の上に村瀬が乗りかかってくる。「僕は会社を辞めます。だから僕と一緒に逃げてください」

 村瀬はそう言って真由美の乳房に唇を這わせた。まだまだ張りのある膨らみが村瀬の愛撫に反応して小刻みに揺れる。股間が熱く潤む。

「そうね。あなたとならどこへでも行けそうな気がするわ」

 真由美は頭の芯が痺れてくるのを感じた。それが性的快感のためなのか溶けたカプセルから薬が漏れ出したためなのか判別できなかった。真由美はすがりつくように村瀬の頭に回していた腕から力が抜けていくのを止めることができなくなっていた。


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