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 全くコンサートどころではなかった。もともと石川先生に真理とは結婚できないことを伝え、愛する人の姿を最後にもう一度だけ目に焼き付けたい一心だったのでコンサートなどどうでも良かったのだが、展開があまりに浩幸の想像を超えていて冷静に物事を見るということができなくなっていた。

 暗闇のホールに足を踏み入れて以後自分の左手から伝わってくる温もりに浩幸はずっと集中していた。真っ直ぐにステージを向きテレビ映えすると評判の美人ピアニストの横顔に目を注ぎ両の耳を会場にこだまする旋律に傾けているつもりでも実際浩幸には何も見えていなかったし聞こえてくるのは自分の心臓の高鳴りだけだった。時々はっと我に返り回路が繋がったように視界がはっきりとするときがあったが、そんなときは自分の手の先にある手のあまりの白さとしなやかさに驚くばかりだった。垣間見ることができたのはその指のあたりだけでステージの照明の反射で白く浮かび上がっているであろう彼女の横顔は覗くことができなかった。浩幸にはその横顔が神々しく恐れ多いものだったのだ。

 やがてコンサートが終わり小雨の降る肌寒い夜の空気に触れても浩幸の身体の火照りは一向におさまらなかった。タクシーを捕まえても前もって食事の予約を取ってあるホテルの名前が出てこない。頭の中がぼうっとしてしまって焦れば焦るほど咽喉の奥で言葉が渋滞してしまうのだった。半ば迷惑そうなタクシーの運転手を前にこの寒さでも額に汗が浮かんでくる。うまく場所を伝えられない浩幸を石川先生がくすくすと笑っている。浩幸は自分の惨めさに泣き出したいような気分だった。

 ホテルに着いても浩幸の心は落ち着く気配を見せなかった。ただでさえ石川先生と二人きりでいることが空を歩いているような心許ない感覚であるのに、夢の中でさえ見なかった彼女との肉体的な接触が浩幸を慌てさせている。石川先生はコンサート会場でもずっと手を握っていてくれたし、タクシーの中では肩にもたれかかってくるし、ホテルに着くとそっと腕に手を絡ませてきた。浩幸の身体は彼女に触れられている部分だけが極度に敏感になってしまっている。彼女の微かな身動ぎでさえ浩幸の全身に心を狂わせるような甘美な電流を流すのだった。

 ディナーの席についても浩幸はろくすっぽ顔を起こすことさえできない。夜景で有名な店だというのに二人で窓の外に目をやるということさえ覚束なかった。それは石川先生が浩幸の真正面に座っているからだった。彼女のそばにいると浩幸は心が完全に中学時代に戻ってしまう。遠くに垣間見ていた憧れの存在が今つま先が触れ合うほどの位置にいる。浩幸は咽喉の渇きに耐えられず気がつけばワインにばかり手が伸びてしまっている。

「村瀬さん」石川先生がたしなめるように言う。「さっきからワインばかり飲んでるじゃない。食べないと悪酔いするわよ。酔っ払いは女性に嫌われるわ」

 そう言われて素直にナイフとフォークに手を伸ばすのだが今日はどうもレアのステーキが美味しそうには見えなかった。肉塊にナイフを立てるたびに予想外の柔らかい感触とその切れ目からあふれ出すグロテスクな赤い肉汁に不快感がこみ上げてくるのだった。

「村瀬さん」また愛する人が名前を呼ぶ。「大人の男性なんだから、黙ってばっかりいないで何かお話して。真理は面白い方が好きみたいよ」

 そう言われて素直に思ったことを話そうとして頭に思い浮かべるのは目の前の女性に対する好意の気持ちだけだった。他には何も考えられない。下手に口を開くとこの場で愛を告白してしまいそうで浩幸は一層口を閉ざしてしまうのだった。

「村瀬さん」想い人に名前を呼ばれるたびに浩幸は身がすくんだ。「私の顔は全然見てくれないのね。真理の母親だからって緊張しなくていいのよ」

「違います」浩幸はそれだけはしっかりと否定した。「真理さんは関係ありません」

 浩幸は石川先生の口から真理という名を聞かされることに耐えられなくなっていた。娘婿ではなく男として見てほしい。私が好きなのは真理さんではなく目の前にいるあなたです、と声に出して言いたい。

「そうね。ここにいるのは一組の男と女ですものね」

 その言葉に浩幸は初めて顔を起こした。

 石川先生はほんのり頬を朱に染めていた。よく見れば首筋は真っ赤でワインに酔ったことを如実に示している。白地を紅色に染めたその身体は匂い立つほど美しかった。浩幸は瞬きを忘れるほど彼女を凝視した。熱く鈍い痛みを瞼の裏に感じる。それでも浩幸は彼女を見つめ続けた。血走っているであろう眼球を酷使してでも今の彼女の華麗さを目に焼き付けないではいられなかった。

「そんなに見ないで。皺だらけだもの。恥ずかしいわ」

「そんなことないです。とても美しい」

「それは村瀬さんが酔ってる証拠よ。こんな顔じゃ失礼ね。ちょっと化粧を直してきます」

 立ち上がって歩を進めようとした膝が崩れ石川先生の身体が流れるのを見て浩幸は反射的に手を差し伸ばし彼女を支えた。

「酔ったのかしら。これぐらいのお酒で」

 浩幸の鼻先から髪の香りが立ち上る。あまりの馥郁とした匂いに思わず彼女を抱き締めてしまいそうになる。

「ちょっと休んでいきませんか」

 そこからの記憶が飛んでしまっていた。気がつけば支えるように石川先生の肩を抱きエレベーターに乗っていた。透明のエレベーターボックスから見える夜景が遠ざかっていく。身を委ねてくる彼女の淡く紅い首筋から甘い香水の香りが立ち上ってきて浩幸はまた放心していた。


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